Where I came from - Three significant death in my childhood -
これまでの私の人生に大きなインパクトを与えた3つの死と、その後私が歩んだ道について。
(邦訳)
地図無き旅 - 私の人生における3つの大きな別れ
幼少時代に経験した3つの別れが、私を遠く日本からここニューヨークへ、音楽療法を学びに導いてきた。今、私は最も病状が重い人々とその家族を相手に仕事をしている。私の行路(journey)は事前に計画されたものではなく、地図が無いまま進められたものである。それは魂の冬の景色、私が突然予想だにせずに直面した、心を打ち砕かれるようなあの別れの後に、気がついたら自分がいた、あの遠い国の景色をかたどったものである。この風景には本当に地図の類のものはなく、私の悲哀が辿ってきた順路を記録した導(しるべ)も存在しない。ここでは、私は否がおうにも自分自身で行路を探し出さなければ行けなかったのである。
1986年8月、私が最も敬愛していた祖母が数週間の入院生活を経て、62年の生涯を閉じた。これは私にとって、病気と死に接した初めての経験だった。彼女は翌週には退院できることになっており、病院スタッフは彼女の腹部の痛みを抑えるために何ら処置を施していなかった。家族全員が絶望に打ちひしがれ、正気さを失っていた。何故、私達の祖母が死ななければならないのか?
その3ヵ月後、私の最愛の弟が、大病との5年間の闘病生活を経て、私を独り残して亡くなった。彼はたったの9歳だった。
私はあの日、家族でテレビを見ていた際に、彼が突然黄色い木目の床に黒い血を吐いたあの日を決して忘れることはできない。彼は当時5歳だった。それ以来、彼は入院と退院を繰り返し、家族、親戚、そして病院スタッフに囲まれて病院で最期を迎えた。その朝、私は学校に出かけようとしていると、祖母に病院に向かわなければならない旨伝えられた。母と病院スタッフに囲まれている弟の姿を見た瞬間、私はすぐに、彼がまもなく死ぬということに気がついた。彼は危篤状態にあり、苦しそうに肩を上下しながら息をしていた。私はもう彼と一緒に遊ぶことができないことに気がつき、思わず泣き出じゃくった。しかし、私は泣きながら彼に話しかけていた、「すぐに元気になるよ。そしたら、また一緒に学校に行こう」と。彼が死ぬという事実を到底受け止めることはできず、どこかで彼が回復すると信じなければ、とても正気ではいられなかった。その時驚くことに、そして思いがけず、彼はその私の言葉に応えるよう目を開き、私を数秒間じっと見つめ、そして永遠に目を閉じた。彼は私に別れを告げるために戻ってきて、そして旅立っていったのだ。私は彼が徐々に衰えていき、形がはっきりとせず、後ろへたずさり、私から遠く、どこか暗い処へ向かってしまって行くように感じた。彼を止めることはできなかった。医学的には彼はその直後に亡くなったのだが、私は彼が死んだ後、ベールを潜ってまた別の場所に行ったということを知っていた。今でも、彼との最期のアイコンタクトの瞬間を忘れることができない。
1995年1月、私の叔父が彼の家から数ブロック離れた病院で、家族に看取られることなく、独りで死んでいった。彼は癌摘出の手術後、声を失っていた。手術の後、彼はひどく落ち込んでいたが、誰も、彼の家族さえ、彼の言うことに耳を傾け、支えてあげることはなかった。彼が紙に「もう死にたい」と書いたとき、彼の家族は怒り「そんなことは二度と言うな」と言い放った。彼の家族は、彼と同じ様に、死に直面することを恐れていたのだ。私は当時遠くに離れて住んでいたが、死ぬ間際の彼の言葉に耳を傾けることができなかったことを悔やんでならない。
最初の二つの重大な死の後、私は毎晩ベッドの中で祖母と弟と話をするようになっていた。私は毎日したことや考えたことを彼らに話しかけ、彼らは私の言葉を注意深く聞いてくれた。彼ら自身は余り話をしなかったが、彼らの声は私を包み込んでいるように感じた。私がもっとも気がついたのは、彼らが私に呼びかける音程(tone)であった。彼らの声には愛情、優しさ、思いやり、そして柔らかい抱擁と同じ質があり、それはまるでその音自体に十分な質感があるかのようであった。彼らは私が生を受けて以来、私を暖め、愛してくれたが、今また彼らは自身の死を通じて、私を暖め、愛し、私に目覚めるように呼びかけてくれているのであった。
そして、私の修士論文の執筆の過程は、私を新たな悲哀(grief)の時期に導いた。私の狭い部屋は、壁に掛かる時計の律動的な秒音以外は静寂に包まれていた。建物の冷気は未だ早朝の弱々しい光に暖められることなく、部屋は冷え切っていた。しかし私は一日が始まる前のこれらの時間に慣れていた。自身をバスローブとブランケットに包み、じっとして座っていることに素朴な喜びを感じていたその時間に。早朝目を覚ますと、私はいつもこの静かな孤独のオアシスへ逃げ込むのであった。
私はこの時間と場所を、特にその時間を特徴付けたメランコリックなムードを、愛してやまなかった。このメランコリーに、私は一種の悲しい平和さを感じた。この感覚は、二つによってなっていた。一方では、私は物事の最期の瞬間を看取っているような気がした。まるで物事の確かな存在の中に、それらが消えかかっていくのを感じることができたかのように。他方で、早朝の光の中において、私は物事を初めて見ているような気がした。まるで私が目撃していたのが一日の始まりだけでなく、この世界の真の起源(origin)であったかのように。
このような感覚は私がまだ子供だった頃を思い出させた。私はまだ小さな女の子だった頃、しばしば、一日が始まろうとするその瞬間に立ち会うため、朝早く家から思い切って出かけたものだった。これらは学校が休みに入り、私が自分の両親の子供としてではなく、この美しい世界を初めて訪れた異邦者のような、全く別個の存在へと解き放たれたと感じていた夏である。私はしばしベンチに座り込み、蟻が歩く姿や蝶が舞って描く弧を見つめながら、白日夢にふけるのであった。私は知っていた、自分がどこか別の場所から来たのであり、これらの時間が、私たちが知るこの時間や空間とはまた別の世界があることを思い出させるためにあったということを。ようやく一日が始まろうとし、仕事に向かう大人達がその一日に入ってくる瞬間、私はこの世界が持ち合わせていたある新鮮さ、それは私に静かな喜びを与えてくれるものであったが、それが失われることを残念に思うものだった。また、私は物事の起源(origin)に関する私だけの秘密を奪われること、その起源との繋がりが奪われてしまうのを悲しむものだった。
今となっては、私は信じるようになった、家族との別れが、私自身の起源(origin)に関するある悲しみ、及びもはや将来がない彼らと過ごした過去の思い出についてだけではなく、私という一個人の歴史を超えた遠い昔のこの世界の起源(origin)の瞬間について、目を開かせてくれた、と。そして、メランコリーは、喪失と起源が交じり合い、悲哀とその曇りがかった透明な悲しみがぱっと晴れ、私たちが本当の故郷を、そして私たちがこの世に生を受ける前に有していた顔を一目見ることができる、ある種の試練であると、考えるようになった。ここで歌われる、世界の誕生を称える詩的なインプロビゼーションにおいては、我々が生へ立ち帰る手段としてのこの起源(origin)への帰還が、低音で鳴り響いているのである。
今振り返ると、私は知っている、あの時、静寂の中でじっと座り、どこかに置き忘れてしまった何かが自分の元に戻ってくるのを待ち続けていたのは、私ではなかったということを。あの早朝の時間、まだ光が壊れやすい柔らかさを持ち、その優しさが私の心の堅さを砕いていたその時間に、一歩も動かずに座って待っていたのは、悲哀の中の魂にメランコリックに付き添うあの孤児(Orphan)だったのである。
大抵の朝、私はその待ち時間を、読書をしながら過ごした。正確に言うと、私は本を読んでいた訳ではない。私にとって読書はある種の夢想状態に入り込むための手段であり、そこでは私の意識的な精神は、魂の夢想状態に入り込んでいたのである。ガストン・バシュラールは夢想について、「私たちは読んでいたのであり、そして今私たちは夢を見ている」(1969. p.65) と述べているが、私自身、我々と世界との間の境界を取り壊すこの夢想の力について、証言することができる。この境目において、私はその瞬間に体験しているものと一体となり、自分の自我(ego mind)の小さな房に安置されていると感じることができた。この幸せな空間の中では、私は当然ものとされている「時間」と「空間」の要素が、一瞬にして消え去った世界に居住していた。それ故私は、この夢想に入り込むための手段としての読書を行なっていると、朝などはあっという間に過ぎ去ってしまうということに、一度たりとも驚いたことはなかった。夢想という孤独のなかで朝が過ぎ去り、薄暗い夜明けが黄色い太陽に包まれた午後に変わっていることに気が付くのは、何とも爽快なことだったことか!
メランコリーもまた、魂を精神の足枷から解き放ち、この世界、特に傷つき易いものが花開く瞬間に持ち合わせる魅力に私たちが惹かれるあの場所へと、突き落とす力を持っている。メランコリーに掴まれると、我たちは悟らされる、「この日を生き抜ける保証が無いこと、そのことに気が付いたときから、私たちにとって生はとてつもなく大きなものになる」(Levine, S. 1982. p.74) ということを。私たちが最も愛する者たちが、その一日の終わりにドアをくぐって帰ってくるという保証が全くないことを。ある瞬間、私の弟、祖母と叔父は私と一緒にその部屋にいたのであり、次の瞬間、彼らはいなくなっていた。私の今の生き方は、私たちが愛する者の存在は非常に脆く、一時的なものに過ぎないということの認識、他の何よりもこの認識によって、形作られている。
私が実習(internship)を行なった病院は、多くの人がつらい場所である、という。しかし、ここでは私は、この世が花づく瞬間と衰退していく瞬間、その両方の証人となっているように感じさせられた。ここは深い悲しみに包まれた場所であるが、同時にある種の平和(peace)と喜びが薫っている。ここで私は、自身のメランコリーを求める権利を主張できる。それは早朝の凍った野原の下に埋められた、小さな宝物である。あの冬の景色を耐え抜いた者、何らかの奇跡によって、あの骨をも打ち砕く、凍てつく魂の冬風の突風を生き抜いた者こそが、この宝を露にする雪解けを祝うにふさわしい。
したがって、私はメランコリーが神経症(neurotic)の状態であるという考えを受け入れることはできない。しかしこれはまさにシグモンド(Sigmund)・フロイト(Freud)が、彼の大きな影響力を持った著作である「喪(Mourning)と( and)メランコリア( Melancholia)」(1957)で示した見解である。フロイトにとって、メランコリーは失敗した喪(mourning)であり、特に死んでしまった者を解き放つことに失敗してしまった自我(ego )精神( mind)にとって、一種の拒絶であった。喪の状態を特徴付ける、死者とから少しずつ離れて行く過程において、メランコリックな状態にある個人は失った者と自身を同一視する。彼はまるでその者が死んでいないように振る舞い続け、そうすることによって過去を繰り返し続けようとする、失ったものの写しを誰かの中に見つけようとして。ある意味では、メランコリックな状態にあるものは死んだ過去の中に葬られてしまっているのである。
しかし、私は自身のメランコリーの体験から、それがフロイトが言うところと全く別のものであると確信している。メランコリーは私を過去に鎖で繋ぎとめるようなことはしなかった。むしろ逆に、私をこの現在に解き放ってくれた。時々の儚い美しさを意識し、それを大切に思うようになったこの今に。私はメランコリーの状態に入り、他の者にほんの少しだけ長くしがみつく、ひょっとしたらその相手をよりよく見つめるため、あるいは手をほんの少しだけ長く握るために。なぜなら私は、この時間が再び訪れることはないと知っているから。
私はフロイトが、メランコリーが持つこの感動的な特徴を、見逃していたと考えている。それは彼が悲哀(grief)と喪(mourning)を自我(ego)精神( mind)の立場から見ていたからであり、不思議にも、見晴らしの良い、魂(soul)の立場から見つめていなかったからである。私も自身の経験から、メランコリーから忙しさに任され、現実に急ぎ戻されたと感じた瞬間、私のメランコリーを他人に非難されたことも多くあった。友人からは、私が絶望の泥濘の中で溺れかけているように見えていたかも知れない。しかし、私は決してそうはしていなかった。むしろ逆に、私は魂に導かれ、喪を抜ける冬の行路を歩み、自身のコントロールを超えたそのリズムに逆らわずに生きていた。その喪の過程で私の魂は私を一個人の喪失から、全ての創造物を特徴づける、愛と喪失の壮大な物語に解き放ってくれたのである。
喪からメランコリーに抜けていくこの悲哀の旅程は、我々をより壮大な愛と喪失の物語に結びつけてくれる力がある。この物語は、星にさえも届くものである。私は幾度も経験した。夜空の果てしない広がりが、私のメランコリックな魂の全くの鏡像(mirror)になっており、この真夜中の空が私を優しく包みこみ、落ち着かせ、私がどこかに置き忘れてしまってきたあの何かが、この宇宙との繋がりであるという気持ち、私自身がこの天与の聖なる創造物の舞曲に属しているという気持ちで一杯にしてくれたことを。
この観点からすると、私が思うに、フロイトが診断した患者は、彼ら自身の悲しみを通じて、この大きなものとの繋がりへの自我(ego )精神(mind)の渇望を、表していたのである。この繋がりは、我々が何世紀も前に自我精神を、前世紀の後半にその症状と共にフロイトの診断室へ足をひきずって入っていったあの自我精神を生み出したことによって、失ってしまったものであった。個人的な喪失と喪の過程を通じて、現代の自我精神は魂とそのより広い愛の野原との繋がりを失ったことに、悲哀を表していたのである。ここから、私は、メランコリーは魂がより精神を深め、個人の生を、その集団的で個人を超えた側面を含めて、取り戻そうとする方法であると考えるのである。
喪の過程を通じて語りかけていたのはこの喪失と悲哀のより大きな物語であったが、フロイトはそれを聴き取るための宇宙的(cosmic)な視点に欠けていた。魂のメランコリーを神経症的な症状とは異なるものとして聴くためには、我々はもう少し昔、おそらく500年ほど前に遡らなければならない。ここではフロイトが以前に用いた主題であるメランコリアは、四つの気質の形を取った。メランコリックな状態に加えて、そこには楽天的(sanguine)なもの、無気力(phlegmatic)なもの、そして怒りっぽい(choleric)ものがあった。それぞれの基本的な気質が、肉体の機嫌と星との複雑な関係を表現した人々を表した。もしこれらの言葉を理解することを我々が忘れてしまったとすれば、それは我々が、魂と星が一つであった、より大きな絵柄を忘れてしまったからにほかならない。
私の個人的な悲哀、喪、そしてそこから花づいたメランコリーは、このより大きな物語への理解を取り戻させてくれた。魂の道が私を導き、その行程において私は瞬間瞬間の一過性を大切するようになった、その瞬間が二度と来ることがないかもしれないということ、最後になってしまうかもしれないということを常に思って。
初めてのGuided Imagery and Music (GIM) セッションで経験した深い悲哀
2002年6月、私は初めてのGIMセッションを体験し、弟、祖母と私の3人は、私の心像の中で再会を果たした。最後に病院で会って以来、長い時が経っていた。私たちは明るい白い光に包まれ、まだ彼らが生きていた頃のこの世界における物理的な存在から、随分と進化していた。私は天使(Angel)という言葉を意識しなかったが、その言葉は確かにそこにあった。彼らはそのとき既に、天使としての存在を獲得していた。
医師であり、病気の中において祈りが持ちうる力について雄弁に論じているラリー(Larry)・ドッシー(Dossey)は、天使のことを失われた(missing)繋がり( link)と呼んでいる。精神から物質への降下であるところの招き(invitiation)の概念(これは、物質から理性への昇華を強調するダーウィン的な進化の概念とは逆の行路である)を弁護する彼の著書「天使たち:失われた繋がり」の中で、彼は以下のように述べている。「神と、天からの降下におけるあの最後の段階との間のどこかに、確かに存在するのが天使的(angelic)な領域(domain)である」と。私には彼が正しいのかどうかは分からないし、それを確かめる術は存在しない。彼の主張は経験的な事実に基づくものではないから。私たちの前に、天使の存在を刻み込んだ石や骨の化石は存在しない。それでもなお、私たちは何故か、この主張にある種の真理が宿っていることを知っている。仮に頭で理解してないとしても、私たちは心の中で知っている。精神と心が物事を異なった理解の仕方をする、というこのことは決定的に重要であり、ドッシーが指摘しているように、私たちが綿々と存在する天使の存在を感知するか否かは、私たちが物事をどのように見ているかという私たち自身の態度の問題なのかもしれない。きっと、批判的な精神は天使が存在する可能性すら疑い、彼らに居場所を与えることはできず、天使の存在を受け止めることはできないのだろう。そしてもしかしたら、私たちの中の悲しみが、精神と既存の物事の捉え方を壊し、私たちが本当に理性を失ったときに初めて、私たちには天使が現れるためのほんの小さな空間が空けられるのかも知れない。
私は彼らの声を知らないが、それは確かに私を和らげてくれた。彼らは以前とは異なる大きな存在となっており、違った形にくるまれていた。ドッシーは天使の存在とは私たちが物事をどのように見ているかに関係するという考えを更に押し進め、それは私たちがどのように聴く(・・)かということに、より一層関連していると述べている。彼はこう書いている。「天使が存在する証は、視覚的(visual)なものよりも、音響的(acoustical)なものであるかも知れない」。
おそらくこの最後の分析では、調律された心は、天使が現れるために不可欠な条件なのだろう。私が悲哀を経験するとき、心の中で奏でられる唄は悲しみのものであり、嘆きのそれである。ひょっとしたら、天使は私が痛みと悲しみの最中、喪失と悲哀にある最中にこそ、私をも包容してくれるのかも知れない。そしてそれが、私にとって天使(Angel)が孤児(Orphan)の別の顔であるように思える理由かも知れない。
この何年もの間、私は眠りにつく寸前に、この姿の祖母と弟に会った。そして、深くゆったりとした喪の過程が徐々にメランコリーに取って代わられるにつれ、私は天使の顔を何度も見た。私は信じるようになった、奈落の底に立つ孤児(Orphan)と同じように、この世界の端に立つ天使は私たちを個人の悲しみ、心理的な内面性と孤独の状態を超えたその先へ送り届けようと待っているのだと。天使は私にとって宇宙的(cosmic)な繋がり(connection)としか表現しようがないあの境地へ、初期の悲哀の時期から人間の領域を越えた力と繋がることができ、それに支えられていると感じることができたあの場所へ、エスコートするために待っているのだと。
私はゴッホの絵画、「星月夜(Starry Night)」を見ると、この全ての創造物と一体であるという感覚を取り戻すことができる。彼はあの鮮やかな天蓋の光の下、何を感じていたのだろう?私はあの絵画に喜びと悲しさを見出す。私たちもこれらの星雲の一員であり、この天なる光が私たちに触れ、天使的なものが私たちの魂のほこりを取り払ってくれるということに気が付いたことに対する喜び、そしてある種の祝賀(celebration)。私たちがこの全ての創造物との繋がりの瞬間からどれだけ離れてしまっていて、私たちの人生が常に喪失と悲しみによって中断されている、そのことに気がついたことに対する悲しみ。それでもなお、私は天使を見ることができた瞬間、私たちにとって最も深く痛みを伴う悲しみでさえ、精神的(spiritual)な強度(intensity)を持ちうることを知った。天使を通じて、私は個人的な悲しみや喪失が、精神的な変革の瞬間たりうることを知ったのである。