
自分で歩けないし、食事もできない。
少しは他人が彼女に対して言っていることは理解できているようだけど、他者とのコミュニケーションはほとんどとれないに等しい。それでも、ときどき笑顔をみせてくれたりして、とてもlovelyな人なのです。
アメージンググレースを歌うと、たまにハミングしたり、私の目をじっと見たかと思うと、宙に目を泳がせ、ぶつぶついい始めたりする。
ある日なんかは、結構リズミックな曲をハミングしはじめた。
彼女のお気に入りの歌なのか?(とても大事なことだから、近いうちに彼女のお嬢さんと話して、この点は聞いてみる予定)
別の日は、私のセーターの毛玉を丁寧にむしり始めた。彼女が私を自分の子供にみたてて (projection)、以前自分の子供にやっていたこと (今はもう出来ない事)をすることによって、失われた、自分の大事なアイデンティティーの一つである“母親”である自分を再体験しているのか?
マレットをサラに渡しトーンバーをそっと当てると、ベルの音色が響く。サラはちょっと表情を変えて、私をみる。そして今度は自分でマレットをトーンバーに当ててみる。ちょっと首をかしげる。でも、次の瞬間、マレットを机の上に置き、目を宙に浮かべ、ぶつぶつ話しだす。
私が相槌を打つと、目を合わせたり、鼻で笑ったり、かとおもうと、相槌とは関係なく独り言を続ける。
***
私は、確かに彼女が音楽や私の存在を認識し、なんらかの交互関係を体験していたけれど、いまいち深くない、というか本当の彼女に出会えていない様な感覚をいつも覚えていた。
一瞬つながった、と感じた次の瞬間、彼女はもうどこかにいっている様な、、、そんな感じの繰り返し。
そこで、サラの後ろに立って、霊気をしながらハミングしたみた。
彼女の頭に手をあてて、彼女の体温やエナジーのバイブレーションを直接感じながら、歌いかける。サラのエナジーは思っていたより活気よく流れていた。
頭に手をあててたまま、ハミングしながらサラの顔をのぞくと、目をつむってじっと、静かにハミングをしている。私は、注意深くそれを聞き取り、彼女の声に寄り添うようにハミングする。
テレビの音が大音量で流れ、幾人かの痴呆の入所者さんが放置されている施設のレクリエーションホールの片隅で、10分くらいだったか、この静かで、深くからみあっていた声の二重奏は続いた。
それは、彼女の声が私の声に積極的に呼応するというよりは、私が彼女の世界に入り、そばに寄り添い流れを共にしたような関係。
トーンバーや、歌や会話をしていた時は、数十秒ごとに彼女はどこかに飛んでいっていた。
繋がっていると感じたとおもったら、すっと彼女は自分の世界に逃げ込んでしまう。
でも、そのときは違った。
彼女は何処にも行かなかった。アルツハイマーという病気にカバーされて簡単には見ることが出来ない彼女の内なる声をきかせ続けてくれた。そして、そこに私の声が色を加えることを許容してくれた。
声が途切れたところで、サラの頭からゆっくりと手を離すと、サラが目をあける。
また来週ね。

ホスピスの患者さんや家族とどうやって深い繋がり、関係をつくるか、という話。
ある具体的なケースの話をしていた時、学生が手をあげました。
「さっきアツコは、その患者さんの部屋を出る時“じゃぁ、また来週来るわね” と言ったけど、もし患者さんが “きっと来週は私死んでいるわ” と言い返したらどうするの?」
学生の間にちょっとした緊張が走る。
「うーん、その場合私なら、“そう? でも念のために来てみるわ。生きているかもしれないじゃない。来週まであなたの事を思っているわ。”とにっこり笑って、温かい視線を向けて答えると思います。この患者さんは、あなたは「死」について話が出来る人かどうかテストしているかもしれないのです。」
***
このやりとりの中で、「死」 という言葉は、学生達にとってタブーなんだな、と感じました。
死を目前にしている人と接している時、こちら側が持っている死に対する恐怖は何にも役に立たない。患者さんが、私達に内在する恐怖を察して、「死」について話すことをやめてしまうからだ。死をこれから経験しようとしている人にとって、「死」に対する考えや気持ちについて話すことは、とても大事なことなのに。
大事なのは彼女が来週死ぬかどうか、ではなくて、いまこの瞬間ある患者とセラピストの関係が、彼女にとってサポーティブであるかどうか。
私は「死」が、全ての終わりだとは思っていないので、冗談っぽく笑って言える。
“念のために来てみるわ。生きているかもしれないじゃない。”と。
そこには、“あなたが死んでしまっていたら、とても悲しいけど、でもSpiritualな部分で繋がっているのを知っているから、怖くない。それに、今まで目いっぱい生きている状態のあなたとの関係を大事にしてきたから悔いもないわ。”というメッセージが込められている。
そして、患者さんも、私が「死」について話すことを全く恐れていないことに気付く事ができる。
「死」が全ての終わりではないこと。
これは、教えられるものではなく、個人が感じるしかないと思うのだけれども、
少なくとも学生の間でこういうディスカッションが起こる、というのはいいなぁ、と思いました。

まわりは、相談を受けたりして、彼女が悩んでいた事に気付いていたみたいだけれど、誰も彼女が専門家と話しをしにいくことを薦めなかったのか、専門家がその地域にはいなかったのか。
専門家に話をしに行くほどではない、と本人も周りも思っていたのか。真実は分からない。
でも、案外そういう人が多いのだと言う事を経験上知っているから、声を大にして言いたい。
ほんとうに、たくさんの たくさんの人がいるのだ。
セラピーに来てみて、初めて自分がどれだけ沢山のものを抱え込んでいたか、ぜんぜんit's all right (大丈夫、耐えられる)というレベルではない自分の心の状態に気付く人が多い。
友達などに聞いてもらったり、アドバイスをもらったり、飲みにいって鬱憤をはらしてるから、自分は大丈夫だと、専門家に話しに行くほどのことではない、、、
と思っていても、ある日取り返しのつかない事が起こってしまうのだから。
あまりに心を頭でコントロールし、心の訴えをおざなりにしていると、
いつか心が反逆を起こし、頭ではどうしようも出来なくなってしまう。
先程の投稿にも書いたけれど、日本でセラピーに行くには色んなハードルがありすぎる。
スポーツジムのように何処にでもあるものではないから、いい人を見つけるのは一苦労、見つけても場所や時間帯、値段で都合がつかなかったり。
それでも、それでも、自分で「ちょっと辛いな」「何かおかしいな」と思ったら、なんとかその人がいい専門家を見つけ出すこと、あるいは出会う事を願ってやまない。
人生は一度きりなのだから、辛い状態を永遠にひとりでひっさげて生きていくのではなくて、人生のある一定期間、専門家の力をかりて、なにか道をみつけだすのは、priceless。
死んでしまったり、誰かを殺してしまったり、落ち込んだり、悩んだり、迷ったり、自分らしくない自分で自分の人生を生きていくのを考えたら、セラピーに行って、心をケアすることは、お金に変えられないほど価値があることだと思う。
セラピーに行くのは汚名でも何でもない。
ただコロロの健康をバランスをとろうとしているだけ。
より自分らしい人生を、より豊かに生きていこうとするだけ。

あるいは、スポーツジムのように誰でも手軽に利用できる存在になりうるか?
私の直感的な反応はNo.
何故なら、
1.沢山の場所にオフィスを構え、フランチャイズ化して同じクオリティーのものを提供するのは不可能に近い。
セッションの質や内容は個々のセラピストによって異なるからだ。
たとえ、雇うセラピストを「資格」という基準で選別しても、だ。
医師のように、ボトムラインがある程度保障されているものであればよいけれど、(それでも色んな事故がおきている)、今の日本の音楽療法士や、臨床心理士の教育、資格では、なかなかクオリティーの安定が計れない、と感じる。
2.質の悪いセラピーはお金のムダ、と私は個人的に思っている。
例えば、下手なマッサージを受けてもみ返しが起こるのと少し似ている。
実際、私自身のためのセッションなのに、自分のセラピストのことを知らないうちに分析し始めていた事があり、これでは、なんのためにお金を払っているのか分からないんじゃないか、という経験をしたことがあるからだ。
3.セラピストの絶対数が少ない。
4.誰でも払えるようなリーズナブルな値段を提示できない。
いいセラピストを雇うには、それなりの報酬が必要になってくる。ジムのように、大量生産されている器械を卸値で買うのとはわけが違う。それに、便利な立地にオフィスを構えるには、家賃もかかるし、組織を大きくすれば、バックオフィスの人の人件費もかかる。
こちらの心理療法の相場は、1時間$100がボトムライン。$200という人もいる。ただ、セラピストが保険を採用していれば、クライアントが入っている保険の種類にもよるけど、年に12回のセッションまで、50-70%保険でカバーされる。が、12回のセッションである程度のプロセスを成し遂げる事は難しいので、正規の料金を払うことが多くなってくる。
ただ、東京では、1時間7,8千円のマッサージや、ちょっとしたカウンセリングがはやっているし、高価なブランドものも飛ぶように売れているようだから、一概にリーズナブルの値段がいくらか、とはいえないかもしれない。
5.セラピーというと抵抗がある人が多い。
この点は、宣伝の仕方や今後の世間の教育で大きく変わってくると思うけど。一昔前は、ジムなんて誰も行っていなかったし、今だって、田舎に行けば、そんなものに縁なく暮らしている人は沢山いる。
これらの点について、
「少々質が劣っても、多くの人が利用出来る組織を作るのは、今の日本でとても必要とされていると思う。何でも最高級じゃなくてもいい。」
そう言った人がいて、なるほど、と思ったのでした。
例えれば、お米。こしひかりが美味しいのは皆分かっているけど、買えない人がいる。
それに、チャーハンを作るのが目的だったら、こしひかりじゃない方がいい。
だから、買えないんだったらしょうがないよね、代わりに芋でも食べないと、というのではなく、
色んなお米を用意し、消費者が選べるようにすればいい。
こう書いていて、なんだかピアノバーや美容院の指名システムみたいだな。と思ってしまった。セラピストによって値段が違って、利用者が指名する。。。
あるいは、田舎に携帯サービスをつくる。電波は凄く悪いけど、ないよりは全然いい。というのにも例えられるだろうか?
みなさん、どう思われますか?
何故こんな事を考えたかというと、今、日本は本当に悲しい事件がおきすぎていて、
それを聞くだびに、「ああ、もしその人がいいセラピストに出会っていたらならば、状況は変わっていたかもしれない。殺さずにすんだかもしれない、自殺しなくてもすんだかもしれない。」と思うからです。
もっと気軽に、より多くの人がセラピーに行く環境を作れないだろうか?
習い事や趣味、お化粧品や衣類、外食にお金と時間を費やすのと同じくらい、自分の内面のケアに投資する事に意味があることをより多くの人が気付いたら、と思ってしまうのでした。

毎月、どなたかに音楽療法について語っていただき、それについて意見交換をしていく場を目ざしているようです。
http://musictherapy-online.com/

べてるの家を統括する川村敏明医師は、その本のあとがきに
”札幌の民間の精神病院にアルコール専門病棟があって、そこで四年働きました。(略)そこでのわたしの役割は、わたしがそれまでやっていたよりもかなり限定的な役割だったんです。ほんとに、こんなに一線をひいていいのかな?と思うほど何もしていませんでしたが、現実にはそれでどんどん酒をやめていく人がいたんです。(略)「あんなに一生懸命やっていたのに、酒をやめた人はゼロだった。それがどうして何もしていないのにやめていくんだろう」と悩みましたね。
そのときはじめて、医者は何をすべきで、何をしちゃいけないのかという、「自分の役割のつかいどころ」を考えるようになりました。”
当事者研究をよんでみると、例えば
幻聴がきこえる人は、それを薬で抑えるだけではなく、幻聴と対話をしようと試みる。「いま疲れてるから、くどうくどきさん(幻聴につけた名前)、今日はこの辺で勘弁してください、おねがいします」と対応してみる。幻聴を否定するのではなく、そこと関係を形成し、コミュニケーションをとろうとする。
突発的に、暴力的になってしまう人には、暴力的になってしまう自分の背景には何があるのか?それは子供の頃虐待されていた時耐え忍んでいた頃の自分がやっているのではないか?さぐってみる。
精神病は、遺伝の要素“種”はあるけれど、それをはぐくむ“土壌”もある。
かれらが書いている、べてるの家にくる以前の状態は、
例えば、、、精神科に入退院する。そうすれば、薬や注射を打たれる=それらに心理的に依存していた。奇怪な行動をとり現実からのがれることで、不安感などから一時的に逃れていた。拒食になり、やせほそった姿見た人に優しい言葉をかけてもらうのが心から嬉しかった。
でも、べてるの家にきたら、簡単に注射してくれない。それよりも、どうしてそういう気持ちになるんだろうか、という会話になってくる。家出してみても、誰も探しにきてくれない。でも、自分を温かくみまもり、自分と向き合うためのサポートをしてくれる。
この本には、当事者達の心の葛藤と、べてるの家での心のプロセスがよく書かれているので、当事者の方だけでなく、その家族の方、またこういう方達と触れ合うことがある人は、一読の価値ありです。
Music: breath of statues. Perhaps:
silence of images. You: speech,
where all speech ends. You: time,
standing vertically parallel to our
vanishing hearts.
Feelings for whom? Oh, you transformer
of feeling into what? : audible landscapes!
You stranger: music. You who have outgrown
surge away from us.... in holy farewell:

as the most distant horizon,
as the other side of air:
pure,
immense,
no longer habitable.
RILKE

It gives a soul to the universe,
wings to the mind,
flight to the imagination,
a charm to sadness, and life to everything.
PLATO

老人ホームに、きちんとした身なりをした品のいいおばあさんAllieを訪ねてくるボランティアがのおじいさんNoahがいる。お話、を読んであげるのだ。
Allieは、痴呆のため、何も思い出せない。
自分が誰で、どういう人生を歩んできたかも分からない。
毎回数ページずつ読み聞かせる内容は、
いろんな困難をのりこえて結婚する、深く愛し合っている若い二人の話・
実は、それは、Allieが呆けてしまう前に書きとどめ、最後に
「Noah,私が呆けてしまったら、これを読み聞かせて。きっとあなたの事を思い出すから」
と結んであるNotebookだった。
Allieは、たまに、ほんの5分だけ、そのボランティのおじいさんが、彼女の最愛の夫、Noahであることに気付く。Noahは、その5分のために、ひたすらAllieの書き残した彼らのHistoryを読み聞かせる。ほんとは強く抱きしめたいのに、Allieを怖がらせないようにするために、他人のふりをしなくてはならない。深く愛し合っていたがゆえに、繋がれないもどかしさ、悲しみ。
痴呆になって、最愛の人を自分の人生をこれっぽっちも思い出せない心の痛み。
翌日 ハンバーグの具をこねながらふと、ひらめいた。
「結婚はProcessだ。」
まぁ、厳密には法的に結婚してる関係に限定して言っているわけではないけれど、、、
結婚にあこがれている人の中には、結婚という ・ (点)を体験する事が目的になっている人もいる。
結婚という心の中に作ったオブジェに、夢や希望が溢れていて、それに見合うものを探している。
でも、結婚は ・ なんかじゃない。
だって、止まってない。
だって、変化する。
自分でコントロールできるものじゃない。
そういうひとは、永遠に 理想を手に入れられない、きっと。
あれこれ理想をえがいてあこがれ努力をしても、結婚に限っては、その通りのものを創れるとは思わない。
だって、違う人間が深く関わっていて、そのひとを駒のよう自分の理想の構築のために利用することは出来ないし、第一、人生を重ねるごとに、理想や幸福感なんて変わっていくのだから。
創っていくプロセス、その日々のあゆみそのものが、結婚なんだと思う。
毎秒 毎秒 それぞれの人間は変化していて、それがMargeしたり火花を散らしたりして、結婚の色合いが変わってくる。
二人の人間が、共存し、深くかかわる事によってのみ、創造されるものがある。
いつもいつも楽しいものではないかもしれない。
強くならなくては耐えられなくなるときもあるかもしれない。
でも、理想の・ を追い求めて生きているよりは、はるかに充実していると思うし、
姿勢次第で、そのプロセスは、楽しく感じられるものだ。
試験管に異なる物質を入れて、それが時間と共に、ゆっくりと混ざり合い、異なる匂い、texture、色合い、tasteをつくっていく。最後には、最初別々だったものとは、似ても似つかないようなものになっている。

深く関わって生きてきた二人の、
個人として、そしてカップルとしての変化のプロセス。
本物のうまみは、
しょっぱい岩塩や、
香り高いスパイス類
こくのあるバター、
涙と鼻水が同時に出てくるくらい辛いチリ、
舌がとろけそうなくらい甘ったるい蜂蜜、
そんな色んなものから、構成されていると思う・
ここで使った「結婚」という言葉は、「人生」という言葉にも置き換えられるかもしれない。
幸せは夢見るものではなく、はぐくみ、感じ、分かち合うものだ。
そして、セラピーも、プロセスである点については、おなじことがいえる。