>スーパービジョンとは、どのような出会いがあり、成り立っていくものなのですか?
ご本人の了解を得て、同じ様な?をもっている人のために成るかと思い、私の返信をここで紹介します。
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セッションをやっていて なんだかなぁ~ と思っている自分の心にとって、スーパービジョンはとても価値のあるものです。日本で定期的にスーパービジョンを受けている、その重要性を理解している現場の療法士は少ないらしいのがとても残念です。
アメリカにいたときの私の場合、大学や、自分の信頼する先生から自分と同じ分野で似たような理論・哲学をベース活動されている経験のある方をスーパーバイザーとして紹介してもらいました。そして、週1 あるいは隔週で会って、スーパーバイズを受けます。時間は1時間で、時給を払います。同じ人に継続して会う、話をすることにより、よりお互いを理解し、より必要なサポートを受ける事が出来ると思います。
膝を突き合わせて、真剣にお互いの言葉、音に取り組む二人の間に甘えは存在しません。自分は、その1時間みっちり聴きたいことをきいて、自分の糧にしようと準備 (ノートに疑問点を書き出す、セッションをもう一度細かく振り返り整理し、セッション中の気持ちを整理しなおしてみる、各クライアントの反応を整理したり、自分なりの分析を試みる、等)して望みますし、スーパーバイザーはお金をいただいているし、スーパーバイザーとしてスーパーバイズを受ける側の心のサポートを含め、その人がよりセラピストとして成長していくためのヘルプをすることに真剣に取り組みます。
スーパーバイズを受ける、ということで自分でする準備だけでも、いい振り返り、勉強の機会になります。
過去 私も日本で活躍されている方のスーパービジョンをした事をあるのですが、私のいう事が100%! という感じで、私がどんなに努力しても 対等な 対話にならず、とても居心地がわるかったことがありました。 私はスーパービジョンとは、スーパーバイザーの言うなりになったり、スーパーバイザーのやり方をそのまま真似するためのものではなく、自分の意見・考え・疑問を 信頼できる人にぶつけ、会話のなかで自分を磨くためのもの、だと 認識しています。
先生ー 生徒というと、日本では完全なる上下関係ですが、先生が正しいとは限りません。
なにより、そのセッションの現場にいたのは、先生でなく自分なのだから、自分しか分からない微妙なニュアンスだってあるのです。いかしスーパーバイザーの知恵と経験を引き出し、自分の糧にしていくかが、自分がプロとして成長していく鍵だと思います。
他に ピア(仲間、という意)スーパービジョン というのがあって、それは仲間同士でセッションについて話をし、お互いの経験に基づく客観的な意見を参考にしたり、心のサポートをし合います。共通の経験や言語、世界を持っている人と話をすること、話しを聞いてもらうだけでも、結構助けになったりします。お互いがより経験をつめば、より質のいい、ただのお喋りにおわらない 仲間との会話になるでしょう。(いいかえれば、愚痴大会で終わる可能性も大です)

ここで手短に説明するのはとうてい無理なのですが、
セッション中は、
全身全霊を傾けて話をきき、
その人の、自分の、または二人の間に流れる、常に変わり続けるエナジーを感じとり、
微妙なボディーラングエッジを逃さず捉え、
会話をしたり、一緒に音楽をやりながら、自分の心と体と魂が何を感じているかを限りなく敏感になる事により、
その人の心で何が起こっているか、自分という存在は、今この瞬間、瞬間どういう形でその人に関わっているのか、知ろうとします。
このプロセスは、よりその人に寄り添いつつも、流されず、セラピストとしてきちんとした役割を果たすのにかけがえのないものです。
ここで言う私にとっての「きちんとした役割」とは、
その人が本来持っている答えや、回復のエネルギーや、生きる力の源をその人自身が見つけるプロセスを発生させる、補助です。
それは、果てしなく長い道のりになるかもしれない。それでも、とことん付き合う覚悟が体力があること。その人の心の闇に引きこまれてしまっては、もともこもありません。
あるいは、その人に「私からみて正しいことを伝えたり、どこかに導いたりすること」では決してありません。それは、先生や親や友人でも出来ること。
セッションの後は、セッション中に感じたこと、メモし切れなかったことをノートに書きます。
スーパーバイザーに見てもらい、自分のやっていることをチェックしたりもします。
自分の持っている知識と、実際その人と一緒に過ごして感じたことをフルに使い、その人がどういう状態なのか、何を伝えようとしていたのか、どの様な道をどんな風に歩いているのか、いくつかの仮説を作ったりもします。でも、これはあくまでも仮説に過ぎず、その人をより理解し、その人のプロセスにより寄りそうための手段の一つであって、私の仮説によってその人の状態を決め付けることは、決してしません。
ほんとうの事を知っているのは、そのひと自身なのですから、私のもっている一般的な知識にとうていその人を当てはめることができないし、私が感じたこと、考えて結論つけたことは、どんなに気をつけても、私の主観、私の色眼鏡で見ているにすぎません。
また、セッション中に感じたけれど、どうもしっくりこないことなどを、色や音をつかって、消化することもあります。
セッション中に何が起こっていたか、、、
もしビデオにとっていたなら見返しその人の音の意味ををより深く掘り下げようとする時もあるし、なにもとっていなかったら、採ったノートから、もう一度セッションを掘り起こしてみます。
こんなところでしょうか。

「この仕事(音楽療法士)をしていて、どういう時にやりがいを感じますか?」
「(お話をきいていて)人の心を扱うのは結構大変な仕事だと感じたのですが、何がこの仕事をやることを続けさせているのですか?」
と聞かれることがよくある。
灘田さんが言った一言が、クライアントの価値観や人生観、行動を変えたときですか?
その一言が、クライアントの悩みに光を与えた時ですか?
クライアントが灘田さんが作った音楽に乗ってきて、その人が感じたことがない楽しい時間を過ごした時ですか?
このように、推測される。
しかし、
相手が感銘を受けるような一言とか、
相手がはっとするような指摘とか、
相手がハッピーになる音楽を提供しよう、
なんてことは試みない。
私を満たすものは、
クライアントと心の深くで繋がりを感じたとき。
それは、家族でも、恋人でも、親友関係では持てない何か。
それは、心全体が共鳴し震えるような、何か。
それが、一時的に、信頼関係が崩れそうになった時、恐ろしい暗闇や、どろどろした辛いプロセスをクライアントと共に歩んでいるときでも、その人の無限の可能性を強く信じさせる源。
こう書いても、実際クライアントあるいはセラピストとしてそれを体験したことがない人にはうまく理解できないことだろうな、と思うけれど。(体験したことがある人は、書き込みで補足説明してください!)
そして、
クライアントが、わたしとのプロセスを通して、
自分自身で自分の内面に光、希望、答え、意味をみつけることが出来たと伝えてくれたとき、私の心は喜びで満たされる。私の役割は、自分自身の内面のプロセスを内面から(私が外から与えるのではなく)誕生させ、変化のプロセスをサポートすることだから。
言葉だけを使ったセラピーにいっていらっしゃる何人かの方に尋ねられた。
「セラピーに行って、自分が気づいていなかった感情に気付くのは分かるけど、それって、とても辛い事。知ってどうするんだ、って思う。
知らなかったほうが楽だったのに。」
「自分の中の怒りを知って、どうやったらそれをコントロール出来るか、ってセラピストと一緒に考えても、腹が立つものは腹がたつ。実際日常で、かーっと来た時は、セラピーのセッション中に発見した怒りの原因なんかふっとんで、怒りを抑えられない。抑えるべきだってわかっていても。」
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3.いい音楽療法士になるための努力というのはどういったことだと思いますか?
私は、”セラピー”(心理療法)に行くこと、が大事だと思っています。
自分の深い部分を知らなくて、どうして他人の深い部分を扱えるでしょうか?
セラピーを体験したことがなくて、どうやって他人にセラピーを施すことができるのでしょう?
それは、言ってみれば海に行ったことがことがないのに、
”海って楽しいから一緒に行こう。海での体験はキミにとって有益だよ”
といっているようなものです。
海は、穏やかな日もあれば、しけてるときもある。
無知な人間にとっては、とても危険な場所。
人から聞いたり、読んだりして分かったつもりになっているなんて、とんでもない。
そんな無責任な事をするべきではないと思っています。
人間の心・体・魂は、計り知れない海と同じくらい深くて広い未知な領域が沢山。
自分の中でどんなことが起こっているか、どんなことが起こりうるのか、完全に把握するのは不可能だけど(私たちは瞬間瞬間変化しているから)、その深層心理の層と対話を続けていくことにより、クライアントの心の深さを推し量れるようになる。
そして、クライアントと深い部分でコミュニケーションをとることが可能になると思っています。
もうひとつは、常に学び続けることでしょうか。
音楽療法はまだまだ未熟な学問で、新しい考え方、理論が出続けています。
スーパービジョン(第3者の意見を聞くこと)を受け、ひとりよがりにはならないことも大切です。
常に視点を広く、柔軟であることが必要だと思います。
なかなか表には出てきていないようですが、様々な分野(子供から年配の方まで)で結果を出している療法士の方は沢山いらっしゃいます。
日本の音楽療法学会の会員になれば、学会誌が購読でき、学会や勉強会の情報も得る事が出来ます。日本での音楽療法活動については、新聞やテレビで特集されてもいるようです。
海外の実際の音楽療法セッションについての情報は、以下の方法で得る事できます。
アメリカの音楽療法協会
の会員になれば、英語の学会誌が届き、論文を読むことが出来ます。
ノルウェージャーナル(英語)も、かなり内容の濃いものを出しています。
そのほか、本屋さんにいけば、音楽療法に関する本(翻訳を含む)が沢山出ています。
Case Studies in Music Therapy (Barcelona出版)は、私のNYU時代の友人が今翻訳中のようですが、色々な音楽療法のスタイルが紹介されているので、お勧めです。
日本では、音楽療法は保険でカバーされていないので、音楽療法士を正規で雇用する病院は限られています。音楽療法を受けたい人は、自己負担になってしまう。その結果、音楽療法がとてもいい結果を生むであろう人に、サービスを提供する事が出来ていないのが現状のようです。
また、音楽療法セッションを提供する事によって国からの補助が出るので、老人施設が音楽療法という名の、音楽タイムを設けているところが沢山あります。しかし、利用者さん主体で雇用してはいないので、2人のセラピストが20人を相手に1時間のセッション週一回をやる、というとても音楽療法をやっているとはいえない事態が起こっています。

これらは、あくまでも私見であることをここでお断りします。
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1.音楽療法士の適正とは何ですか?
こういう人でないと駄目だ、というのはないと思います。
しかし、人間的に成熟していないと自分自身が精神的に疲れてしまうし、深い内容のセッションが出来ません。
例えば、ある人が海辺で丸く固くうずくまってお腹を抱えて痛みをこらえている所を想像してみてください。何がどう痛いのか喋れないほど痛がっている。
そして、あなたはその人のセラピスト。
質問をして、何が痛いのか説明してもらう?
それとも、一緒にその人が望む限り横にずっと座っている?
私は、まず、自分Empathy (共感、自己移入)出来る事がとても大切だと思います。
他人の痛みを同じように感じる事は出来ませんが、それを汲み取る事はできます。
ちなみによくある落とし穴は、自己移入の過程で、なにがクライアントの痛みで、何が自分が抱えている痛みか分からなくなり、自分も心と体のバランスを崩してしまう事。
同じ目線になって感じるために、同じように丸く固くうずくまってお腹を抱えて、体の圧迫感を感じてみるのも、一つの方法。また、自分の個人的な経験の記憶から、その人の痛みを想像するのもひとつ。
でも、ずーっと長い間その人がうずくまったままで、自分の足がしびれてきたら?
いつまでもぐずぐず言っているその人にいいかげん嫌気がさしたら?
海の波が高くなって、そのままいては、自分の身の危険を感じたら?
一方で、その人は、足なんか痺れていないかもしれない、もっともっと泣き続ける事が必要かもしれない、荒波にのまれることなんて、今の痛みにくらべると、全然たいした事じゃないかもしれない。
自分のエゴ、欲求を認識すると同時に、
その人にとってもっとも大切な事を把握し、それにとことん付き合えますか?
それを可能にするには、海の怖さ (例えていうなら、恐ろしいほどの感情のうねり)を知りつつ、その海との付き合い方を知っており、どっしりと構えていられなくてはならない。
その人が、自分なりの道筋、答えを見つける旅に、
たとえその道なりが荒波のなかであろうと、不気味な音につつまれた暗闇の森であろうと、共にその場を共有できる・それが、責任ある療法士であるための条件の一つだと思っています。
それと、もう一つは、音楽が使える事。
アメリカの大学院音楽療法科の入試では、何らかの形で演奏の技術を問われます。音大レベルのものを求めるところもあれば、趣味で楽器(あるいは声)を使えるものでよいところと、様々です。
大学によって、音楽療法の教え方、流派みたいなのが違いますから、詳しい事は、それぞれの大学に問い合わせることをお勧めします。
音楽を道具としてつかって他人とかかわるのですから、なんらかの形で音楽が使えることが必要です。