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見ないこと・見守ること


先日保育園でお別れ遠足があった。
卒園していくお姉さん・お兄さんとみーーんな一緒。
持参のお弁当は、学年を超えた縦割り班で輪になって食べた。

当日あさ、
子供は前夜、自分自身が捏ねて、形をつくって、オーブンで焼いたクッキーをもって行く!
というので(とてもproudだったみたい)、
じゃぁ、みんなにもあげようね、うん、そうだね、そうしよう!
と6個可愛いクッキーバックに入れる。

夕方お迎えに行ったら、「クッキー、ぜーんぶ食べたんだよ!!!」
というから 嘘でしょう(汗)・信じられない・・・と思いながら先生にきいたら、ずーーともぐもぐ食べてましたよ(笑)、と言われるではないですか。
よっぽど楽しかっただろうなぁ、と思う。誰にもなーんにも言われず、ある分だけ全部食べれた喜び。いつもは一度に一個か二個だから。
私が横にいなくてよかった。私にはその喜びを体験するチャンスは与えてあげられないだろうから。ついね、もうやめときなさい、とか、オトモダチにも分けてあげたら?って言っちゃう。
まぁ、親って子供にとってそういう役割を演じる役目もあるからしょうがない。

見ないことって、大事だなぁと思った。
見てしまうと、こちらも口出ししたくなるし、気持ちがかき乱されるし、あちら(子供)も私に気をつかい、自由のなかの自由なキブンは色合いは違ってくるだろう。
一緒にいる時は、みっちり親密かつ、家庭や親子のルールを提示するけど、そんな世界から離れて、まったく違うルールで成り立ってる世界に一人で対峙し、home base から離れることの自由や危険を体験するのは、とても意味があると改めて思う。

ただ、親から離れたその場に「見守る人」がいるのは凄く大事だとおもう。
知らない世界を自分の感覚をつかって冒険し、知らない世界の中で自分の世界を作っていくのはとてもクリエーティブなプロセスで楽しい。同時に、危険でもある。
変な例えだけど、例えばクッキー6個が致死量だった場合、死の淵、という極限を体験するのはとてもとても重要で意味がある(そういうのを通して生きることの重みを感じることができる)と私は思うけど、
そばでその過程を見守り、死の淵から死へ落ちる直前に救ってくれる人が絶対に必要。そして、死の淵から生還したあと、その体験を一緒に振り替える手助けをしてくれる人。
こわかったね、死ぬかとおもったね、でもクッキー6個ほうばるのって、すんごい楽しかったね・・・と。
それは、親でもいいかもしれないけど、他人であることも重要ではないかと私は思う。
自分のホームベースに存在する人には知られていない、「秘密」である、というのも、自分自身の世界を確立していくのに意味ある要素。

子供に近しい人間・親・だから出来ることと、絶対に出来ない、やってあげられないことってある。
自分が、あの遠足の時の子供で、お弁当の御飯をちょっと残して、クッキーお腹いっぱい食べてるのを想像してみたら感じる・
ただでさえ楽しい遠足で、いつもと非日常で、みんなに自慢しながら自分が好きなクッキーを好きなだけクッキーをほうばる喜び!

積極的に、関わらない時間、と、見守ってくれる人とのネットワークをこれからも作っていきたいな、と思う。

きっと、これは親子(成人した子供と親の関係も含み)の関係だけではなく、夫婦とか恋人とか友達とか同僚などの親密な関係の中にも必要な要素だと感じた。

セラピーの過程や、その関係にもこの要素が存在する。
セラピストは、決してクライアントを守り、その心を見通して転ばぬ先の杖的なアドバイスを与えるだけの役割ではない。
クライアントが、その生きている生きにくいと感じている社会や人や自分自身との関係・世界で、いかに自分らしさを楽しみ、いかに自分を解放し、自分の世界を確立していくか、
その過程を見守り、必要な手助けをでしゃばらず、しかし必要な時は必ず差し出す。

見ない、見てないふり、見守る、ことで提供できる安心感と関わる時のタイミング。
簡単なことではないけれど、クライアントと音楽との関係・過程の中で大事に扱っている要素でもあります。
by totoatsuko | 2009-03-31 10:44 | Comments(0)
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