生まれてくる過程が死んでいく過程
ヒトの生命は、精子と卵子が受精した瞬間から始まる。
いや、受精しなくとも精子・卵子自体が生命体 =生きているもの、
なのだが、単体では新しい生命(人間)へ発展しない、という意味で、ヒトの生命は受精後始まる、とここでは言うことにする。
受精卵が子宮に着床して、37週たったら、その受精卵はもう人間の姿をしていて、子宮外でも自力で生きていける機能を持ち合わせている。
しかし、全ての受精卵がそのような過程をたどるわけではない。
着床して数日でその生命を終えたり、人間の形を形成していく過程で臓器や染色体の異常を発展させていき、それらの要因が母体内・あるいは子宮から出た直後の死に繋がることもある。
人は、自分がもうすぐ死ぬんだ、と感じた時
死んだらどうなるのだろう? 自分の体は?魂は?心は?
と、死んだ後の事を考えて凄く不安になったりする。
でも、自分が誕生した瞬間
ーそれを、受精した瞬間ととらえるか、子宮からでてきた瞬間ととらえるかは、人それぞれだと思うが・・・妊娠の過程で様々な問題に遭遇する母体と胎児のケースを多く聞いていると、生命の誕生は、私の中でconception(受精)の瞬間になってきた。
をみつめて、自分はどこから来たんだろう、と心を煩わすひとは多くない。
conceptionの瞬間、まだ数ミリの細胞でしかない時から数時間後、数日後、数週間後の死に向っている生命体もあるんだ、と思うと、改めて死ぬことと生まれることの表裏一体性を感じさせられた。
生まれてくることも、死んでいくことも「点」ではなく、プロセス。
何だか切ない。
映画「おくりびと」の中で、橋の上からメスの鮭が川上に向かって逆流の中で必死にお泳いでいる姿と、上流で産卵してその生命を終えて上流から流れてくるメス鮭の屍骸をみて主人公は問う・「何で死ぬためにこんなに頑張って泳いでるんだろう。」通りがかったおっちゃんがそれに呼応する「帰りたいんでしょうなぁ、自分が生まれたところに」
体内で死ぬ胎児は、自分が誕生した場所から動かないまま、誰とも出会わないまま、その場所で死ぬ。受精卵になった時点で、すでに病気な状態であったりもする。母親との繋がりを感じつつも、自分の家族の声やもし子宮から生きて出ることができたら遭遇するであろう世界の音を聞いたりもしている。胎盤からうまく栄養が吸収できなくて苦しいとか、まだ未完成ではあるけれど内臓に腫瘍があってでもうまく治療されなくて辛いとか。理屈では、そんな痛みや不安ヤトラウマティックな体験を、小さな細胞が感じるはずはないのだけど。
この世に生まれて何年・何十年とたって死を迎えるとき、わたし達はその死んでいくプロセスを生まれてきたプロセスに結び付けにくい。だから、なんだか「死んでいくこと」は、生きていることから切り離して捉えがちなんだと思うけれど、胎児の一生を考えたら、その繋がり・continuityをあらためて確認した気持ちになった。
いや、受精しなくとも精子・卵子自体が生命体 =生きているもの、
なのだが、単体では新しい生命(人間)へ発展しない、という意味で、ヒトの生命は受精後始まる、とここでは言うことにする。
受精卵が子宮に着床して、37週たったら、その受精卵はもう人間の姿をしていて、子宮外でも自力で生きていける機能を持ち合わせている。
しかし、全ての受精卵がそのような過程をたどるわけではない。
着床して数日でその生命を終えたり、人間の形を形成していく過程で臓器や染色体の異常を発展させていき、それらの要因が母体内・あるいは子宮から出た直後の死に繋がることもある。
人は、自分がもうすぐ死ぬんだ、と感じた時
死んだらどうなるのだろう? 自分の体は?魂は?心は?
と、死んだ後の事を考えて凄く不安になったりする。
でも、自分が誕生した瞬間
ーそれを、受精した瞬間ととらえるか、子宮からでてきた瞬間ととらえるかは、人それぞれだと思うが・・・妊娠の過程で様々な問題に遭遇する母体と胎児のケースを多く聞いていると、生命の誕生は、私の中でconception(受精)の瞬間になってきた。
をみつめて、自分はどこから来たんだろう、と心を煩わすひとは多くない。
conceptionの瞬間、まだ数ミリの細胞でしかない時から数時間後、数日後、数週間後の死に向っている生命体もあるんだ、と思うと、改めて死ぬことと生まれることの表裏一体性を感じさせられた。
生まれてくることも、死んでいくことも「点」ではなく、プロセス。
何だか切ない。
映画「おくりびと」の中で、橋の上からメスの鮭が川上に向かって逆流の中で必死にお泳いでいる姿と、上流で産卵してその生命を終えて上流から流れてくるメス鮭の屍骸をみて主人公は問う・「何で死ぬためにこんなに頑張って泳いでるんだろう。」通りがかったおっちゃんがそれに呼応する「帰りたいんでしょうなぁ、自分が生まれたところに」
体内で死ぬ胎児は、自分が誕生した場所から動かないまま、誰とも出会わないまま、その場所で死ぬ。受精卵になった時点で、すでに病気な状態であったりもする。母親との繋がりを感じつつも、自分の家族の声やもし子宮から生きて出ることができたら遭遇するであろう世界の音を聞いたりもしている。胎盤からうまく栄養が吸収できなくて苦しいとか、まだ未完成ではあるけれど内臓に腫瘍があってでもうまく治療されなくて辛いとか。理屈では、そんな痛みや不安ヤトラウマティックな体験を、小さな細胞が感じるはずはないのだけど。
この世に生まれて何年・何十年とたって死を迎えるとき、わたし達はその死んでいくプロセスを生まれてきたプロセスに結び付けにくい。だから、なんだか「死んでいくこと」は、生きていることから切り離して捉えがちなんだと思うけれど、胎児の一生を考えたら、その繋がり・continuityをあらためて確認した気持ちになった。
by totoatsuko
| 2008-11-28 23:23
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