写真はいらない

「子供の写真みせて」
「持ってないの」
「えぇ、携帯にも入ってないの?」
「はいってない」
そんな会話を何度かした。
どうやら私は子供とのコネクションを感じるのに写真は必要ないみたいだ。
「会いたくてしょうがなくなる瞬間ってない?」と言われたけど、それもなかった。
計2週間離れていたのだけど、それが私にはそんなに長くなかったからだろうか。
それとも、彼らとの繋がり・関係を毎日大事に感じinternaizeしていたから、2週間実際会って触れ合っていなくても大丈夫だったのか。
写真、という目に見えるものがなくても、彼らは私の中から消えることも薄れることもなく、彼らと過ごした時間を時折思い出すことによってその存在と自分が母親であるというidentityを感じる。
世界遺産へ書置きがニュースで取り上げられていた。
世界的に活動する清掃登山家の野口 健さんの言葉が浮かぶ。
「置いてくるのは感謝の気持ち、
持って帰るのは思い出とゴミだけにしなきゃ。」
自分や相手が存在した証、というのは目に見えるものだけが証明してくれるわけではない。
(もちろん「形あるもの」の影響力や意味を否定するつもりはない)
でも、自分がその瞬間・瞬間 感じた感覚をtrust・信じることができたら、
自分の体験をinternalizeし、消化し、自分の身の一部に変容させることが出来ると思っているなら、今この瞬間感じていることを、「いまこの瞬間に」写真に撮ることや、書置きすることによって、体験している内容を確認し、記録に残す行為を行なう必然性を感じないかもしれない。
書き落としたものは変化しないが、(世界遺産に書かれたアイアイ傘は永遠にアイアイ傘)
そこで体験した感動や目に焼きついた風景や肌で感じた風は、自分の中で時とともに色合いを変え、人生を重ねるごとに異なるメッセージや意味を持つとても豊かな自分の一部になり得る。