久々に泣いた
セッションでクライアントが泣いている前で、私も泣いた。
いつもの泣きと何かが違っていて、その時の自分の感覚が消化しきれない。
泣いた、というよりは、涙を流した、というほうがしっくりする。
まだもやもやしているので、ここに書く事によって消化を試みてみようと思う。
いちセラピストの、
セッション中に自分の内面で起きたことを消化・理解する
色々ある中の一つ方法をここに記すことが、
読者やセラピストの参考になるかもしれない、と思い。
何故 涙が頬をつあったのか?
同情とは全く違う。
何故なら、クライアントを可哀想、と思う気持ちは無かったから。
クライアントの代わりに泣いてる?
そういう選択をするセラピストもいるかもしれないけど、
今回の場合は、クライアントは既に泣いていたので違う。
クライアントがやっている事を模倣することにより、
セラピストによって模倣された自分の行動をクライアントが見ることにより、
自分の言動にたいする洞察を深める手助けをする、という手法もあるが、
今回の場合には全く当てはまらない。
感情移入?大辞泉によると、それは「自分の感情や精神を他の人や自然、芸術作品などに投射することで、それらと自分との融合を感じる意識作用。」心理学用語でいう、投影・projection.
もし感情移入が理由だとすると、
私が持っている(過去・現在・将来にまたがる)悲しみの性質がクライアントの悲しみに似ていたので、思わず自分の悲しみを思いだしてしまい、泣いた、という論理。
否。自分の悲しみとクライアントの悲しみの共通項は頭で認識しており、泣いている瞬間は「自分の悲しみ」を感じていなかった =自分の悲しい出来事を全く思い出したり感じたりしていなかった。
分かった、私はクライアントが訴えるパーソナルでもの凄い力の悲しみを全身全霊で体を張って受け止めながら、そのパーソナルな悲しみを超えて、誰しもが持つ、人間の普遍的な悲しみに近づいていたような気がする。
XXだから悲しいーという因果関係は、人間の数だけストーリーが違う。
私は、目の前のパーソナルな悲しみの理由と悲しみのパワーに限りなく近づき寄り添い、自分なりの感じ方でクライアントの痛みを受け止める事によって、「普遍的な悲しみの渦巻きの中心」を感じることになり、涙が止まらなかったのだ、きっと。
悲しみの理由がXXだったから涙が出たのではなく、悲しみという言葉に修飾される感情の渦の渦中に半分みを投じ、そのエネルギーを感じたから涙がとまらなかったのだと思う。
何だかいち音楽心理療法士のセッション中の涙が壮大なスケールな話みたいに展開してしまったけれど、一つだけ記しておきたいことは、だからといって、私はHere and Now -目の前のクライアントや、クライアントの感情からdetouchしてしまい、自分の涙に溺れて居たわけではないこと。
どんなに強い強い強い感情がクライアントから提示されて、
どんなに壮大なスケールの感情を感じ取ったとしても、
プロフェッショナルな役目を果たすためにはセラピストは絶対にそれらに翻弄されてしまってはならないのである。
いつもの泣きと何かが違っていて、その時の自分の感覚が消化しきれない。
泣いた、というよりは、涙を流した、というほうがしっくりする。
まだもやもやしているので、ここに書く事によって消化を試みてみようと思う。
いちセラピストの、
セッション中に自分の内面で起きたことを消化・理解する
色々ある中の一つ方法をここに記すことが、
読者やセラピストの参考になるかもしれない、と思い。
何故 涙が頬をつあったのか?
同情とは全く違う。
何故なら、クライアントを可哀想、と思う気持ちは無かったから。
クライアントの代わりに泣いてる?
そういう選択をするセラピストもいるかもしれないけど、
今回の場合は、クライアントは既に泣いていたので違う。
クライアントがやっている事を模倣することにより、
セラピストによって模倣された自分の行動をクライアントが見ることにより、
自分の言動にたいする洞察を深める手助けをする、という手法もあるが、
今回の場合には全く当てはまらない。
感情移入?大辞泉によると、それは「自分の感情や精神を他の人や自然、芸術作品などに投射することで、それらと自分との融合を感じる意識作用。」心理学用語でいう、投影・projection.
もし感情移入が理由だとすると、
私が持っている(過去・現在・将来にまたがる)悲しみの性質がクライアントの悲しみに似ていたので、思わず自分の悲しみを思いだしてしまい、泣いた、という論理。
否。自分の悲しみとクライアントの悲しみの共通項は頭で認識しており、泣いている瞬間は「自分の悲しみ」を感じていなかった =自分の悲しい出来事を全く思い出したり感じたりしていなかった。
分かった、私はクライアントが訴えるパーソナルでもの凄い力の悲しみを全身全霊で体を張って受け止めながら、そのパーソナルな悲しみを超えて、誰しもが持つ、人間の普遍的な悲しみに近づいていたような気がする。
XXだから悲しいーという因果関係は、人間の数だけストーリーが違う。
私は、目の前のパーソナルな悲しみの理由と悲しみのパワーに限りなく近づき寄り添い、自分なりの感じ方でクライアントの痛みを受け止める事によって、「普遍的な悲しみの渦巻きの中心」を感じることになり、涙が止まらなかったのだ、きっと。
悲しみの理由がXXだったから涙が出たのではなく、悲しみという言葉に修飾される感情の渦の渦中に半分みを投じ、そのエネルギーを感じたから涙がとまらなかったのだと思う。
何だかいち音楽心理療法士のセッション中の涙が壮大なスケールな話みたいに展開してしまったけれど、一つだけ記しておきたいことは、だからといって、私はHere and Now -目の前のクライアントや、クライアントの感情からdetouchしてしまい、自分の涙に溺れて居たわけではないこと。
どんなに強い強い強い感情がクライアントから提示されて、
どんなに壮大なスケールの感情を感じ取ったとしても、
プロフェッショナルな役目を果たすためにはセラピストは絶対にそれらに翻弄されてしまってはならないのである。
by totoatsuko
| 2008-02-20 22:48
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