受け皿
(以下の文章の中盤ー終盤にかけて、土曜に書き足し・修正しました)
先の投稿に「受け皿」について記述した。
セラピストがいくらクライアントの受け皿になろうとしても、
クライアントが内面を吐露出来るような相手になろうとしても、
うまく機能しない場合がある、と記述した。
これだけでは言葉足らず・説明足らずで理解しにくいかと思い、今日はそれに補足。
まず何故セラピストの役割として受け皿というのがあるのか?何のためなのか?
それは、クライアントがセラピーに来るまでの人生(子供から年配の方まで数年間から数十年間のスパンで)で感じないようにしてきた、自分の内面に押し込めていた自分の声や感情や側面を、アウトプットする、自分にセラピストに投げるという作業・過程・フィルターを辿ることにより、避けてきた・否定してきた・あるいは自分の知らない側面を知っていく作業を行なうことが出来る。
しかし、このプロセスは一人で出来る類の物ではない。
勿論自分でできる内省や文字にする・誰かに喋る事により自分に対する気付きはある。しかし、ここで言っているのは、セラピーで起こるもっともっと深い所にある専門家による受け皿がないと出来ないレベルの自分の気付きである。(一人でできるんだったら、セラピストなんて職業は存在しないはずだ)
何を言っても、どのように言っても、どんな状態の自分になっても受け止めてくれる受け皿。小さいものも圧倒されるような大きなものでも安心して投げられる受け皿。自分が必死に搾り出したその努力を受け止め、受け止めたら必要なだけずっと受け止めてくれる。必要なら鏡のように受け止めたものを映し出してくれて、クライアントが自分がアウトプットしたものを色んな角度から確認出来るようにする。
では、その受け皿が機能しない場合とは?
クライアントが、自分のある側面を見ないようにしてきたには・自分を表に出さないようにして生きてきたには理由があるはずである。
例えば、そもそも「受け皿」という概念を持っていない。自分を受け止めるものがあると知らない。そもそも自分の内面は外に出すものではない、とプログラミングされている。
例えば、人間の基礎が出来るごく幼いときに、
親から「無条件の愛情」 unconditional love という受け皿を経験しなかった場合。
例えば、お粗末な受け皿ーひびが入っていたり、穴が開いていたり、小さすぎたり大きすぎたりしてを過去経験して受け皿に自分を落とすのが怖いと思っている。
例えば過去にひどい裏切りを体験した人。
一見どんなに素晴らしい受け皿の人が前に現れても、最終的なところでは絶対にそのお皿を信じない=自分を素直にオープンに出来ない。もう二度とあんな裏切られた思いをしたくない、怖すぎる。どうやって相手を信頼していいのか分からない。
虐待する人はまさにアメと鞭を使う。ダブルメッセージを送り混乱させる。
もの凄くひどい思いをさせた後に、コロッとたっぷり愛情表現をするから。
虐待された子供は、虐待者や虐待されている瞬間は忌み嫌っているのだけど、同時に自分さえいい子に振舞えば虐待が止まりいつもいつも愛して(unconditional loveを与えてくれる)もらえるんじゃないか、と錯覚する。でも永遠にそれは手に入らない。虐待する人の心理は「いい子にすれば変わる」ものではそもそもないから。
虐待され続けている人は、自分では気づいていないけど、極端に愛情に飢えていて、それでいて愛されることを恐れてる。愛されたい、でも愛された後にはまたひどい虐待をされるのが予測できる -どんなにそういうサイクルが起こらないことを強く願っても。
そんなパラドックスな心を一人で抱えて生きるのはあまりにも辛すぎるから、深層心理のところでは自分の感情を感じないようにしていたり、自分自身や人間を信用しないようになっている。
だから、どんなにセラピストが私は何でも受け止めますよ、今まで言えなかった事言ってもいいですよ、って言葉なり音楽なり色でなり伝えても、全く意味を成さないのだ。そもそも受け止めてもらえる、と信じてないし、受け止めてもらえたからって自分にとってプラスになる事が理解出来ないから。そして、自分を殺して生きてきた人は、そもそもアウトプットする自分の実態が分からない場合が多いのだ。
アナタは何を求めているの?
何を感じているの?
そんな質問を投げても、何言ってるのこの人?という反応をされてもしょうがない。
自分が誰なのか、何を感じているのか、そんな疑問を持ったことがない、あるいは持っていたことを「なかったこと」にしているから。
セラピーの過程で受け皿という役割はとても大事だけれど、
それをクライアントのニーズにあう段階で、どういう風に提示していくか、というのはセラピストが自分で判断していかなければならないのです。
先の投稿に「受け皿」について記述した。
セラピストがいくらクライアントの受け皿になろうとしても、
クライアントが内面を吐露出来るような相手になろうとしても、
うまく機能しない場合がある、と記述した。
これだけでは言葉足らず・説明足らずで理解しにくいかと思い、今日はそれに補足。
まず何故セラピストの役割として受け皿というのがあるのか?何のためなのか?
それは、クライアントがセラピーに来るまでの人生(子供から年配の方まで数年間から数十年間のスパンで)で感じないようにしてきた、自分の内面に押し込めていた自分の声や感情や側面を、アウトプットする、自分にセラピストに投げるという作業・過程・フィルターを辿ることにより、避けてきた・否定してきた・あるいは自分の知らない側面を知っていく作業を行なうことが出来る。
しかし、このプロセスは一人で出来る類の物ではない。
勿論自分でできる内省や文字にする・誰かに喋る事により自分に対する気付きはある。しかし、ここで言っているのは、セラピーで起こるもっともっと深い所にある専門家による受け皿がないと出来ないレベルの自分の気付きである。(一人でできるんだったら、セラピストなんて職業は存在しないはずだ)
何を言っても、どのように言っても、どんな状態の自分になっても受け止めてくれる受け皿。小さいものも圧倒されるような大きなものでも安心して投げられる受け皿。自分が必死に搾り出したその努力を受け止め、受け止めたら必要なだけずっと受け止めてくれる。必要なら鏡のように受け止めたものを映し出してくれて、クライアントが自分がアウトプットしたものを色んな角度から確認出来るようにする。
では、その受け皿が機能しない場合とは?
クライアントが、自分のある側面を見ないようにしてきたには・自分を表に出さないようにして生きてきたには理由があるはずである。
例えば、そもそも「受け皿」という概念を持っていない。自分を受け止めるものがあると知らない。そもそも自分の内面は外に出すものではない、とプログラミングされている。
例えば、人間の基礎が出来るごく幼いときに、
親から「無条件の愛情」 unconditional love という受け皿を経験しなかった場合。
例えば、お粗末な受け皿ーひびが入っていたり、穴が開いていたり、小さすぎたり大きすぎたりしてを過去経験して受け皿に自分を落とすのが怖いと思っている。
例えば過去にひどい裏切りを体験した人。
一見どんなに素晴らしい受け皿の人が前に現れても、最終的なところでは絶対にそのお皿を信じない=自分を素直にオープンに出来ない。もう二度とあんな裏切られた思いをしたくない、怖すぎる。どうやって相手を信頼していいのか分からない。
虐待する人はまさにアメと鞭を使う。ダブルメッセージを送り混乱させる。
もの凄くひどい思いをさせた後に、コロッとたっぷり愛情表現をするから。
虐待された子供は、虐待者や虐待されている瞬間は忌み嫌っているのだけど、同時に自分さえいい子に振舞えば虐待が止まりいつもいつも愛して(unconditional loveを与えてくれる)もらえるんじゃないか、と錯覚する。でも永遠にそれは手に入らない。虐待する人の心理は「いい子にすれば変わる」ものではそもそもないから。
虐待され続けている人は、自分では気づいていないけど、極端に愛情に飢えていて、それでいて愛されることを恐れてる。愛されたい、でも愛された後にはまたひどい虐待をされるのが予測できる -どんなにそういうサイクルが起こらないことを強く願っても。
そんなパラドックスな心を一人で抱えて生きるのはあまりにも辛すぎるから、深層心理のところでは自分の感情を感じないようにしていたり、自分自身や人間を信用しないようになっている。
だから、どんなにセラピストが私は何でも受け止めますよ、今まで言えなかった事言ってもいいですよ、って言葉なり音楽なり色でなり伝えても、全く意味を成さないのだ。そもそも受け止めてもらえる、と信じてないし、受け止めてもらえたからって自分にとってプラスになる事が理解出来ないから。そして、自分を殺して生きてきた人は、そもそもアウトプットする自分の実態が分からない場合が多いのだ。
アナタは何を求めているの?
何を感じているの?
そんな質問を投げても、何言ってるのこの人?という反応をされてもしょうがない。
自分が誰なのか、何を感じているのか、そんな疑問を持ったことがない、あるいは持っていたことを「なかったこと」にしているから。
セラピーの過程で受け皿という役割はとても大事だけれど、
それをクライアントのニーズにあう段階で、どういう風に提示していくか、というのはセラピストが自分で判断していかなければならないのです。
by totoatsuko
| 2008-01-11 23:17
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