歴史は繰り返すII

常に「もっとこういう風に振舞えれば、素敵と思われるのに、今のお前はろくでなし」
「お前は自己中心的すぎて、そのままでは社会で生きていけないぞ」
あるいは、その否定の仕方が、言葉ではなく暴力だったり性的虐待だったり。
素敵 の概念は人それぞれ
自己中かどうかも、受け止め方しだい
だけれども、親の擁護が必要な,あるいは、親の存在や考え方が全てである、親に保護してもらわないと生きていけない小さな頃からそう扱われていると、自分はそういう人間だと洗脳されてしまう。
自分はダメな人間で、だからいつも自分を改善するように努力し続けなくてはいけなくて、でも、どんなに努力しても親がありのままの自分を認めてくれることはない(虐待は続くのだし、親の心の問題も子どもを虐待することで解決はされないから)。
そんな子どもは、自分にとても自信がない人ーいつも自分に対して否定的・卑屈になってしまうことが多い。あるいは、過度に人の批判を気にしてしまう。
どんなに親に罵倒され、親を憎んでいても、
その「最悪な状態」が、その人にとってホームなのだ。
あるいは、そういう人にとって、ホーム というのが「安心できる場所」ではなく「辛い場所」とインプットされている。だから「辛い思い」をしない場所や関係を避ける・受け入れられない。
罵倒することが愛情表現
罵倒してもらえるということは、自分に興味を持ってくれている証拠
罵倒されるのが自分だけなのは、自分が親にとってスペシャルな存在だから
恐怖でも悪でも、それしか自分にとって頼れるもの(親・家庭・恋人)はない
自分を完全否定しても、雨をしのぐ屋根は提供してくれ、不快感を及ぼす形であれ「抱擁」してくれる。
子どもは、その最悪な状態を生き抜くための思考回路を構築し、心の奥底にインプリントする。辛い思いをすることが、自分を愛してもらえる方法であり、落ち着くべき場所だと。
その思考は、嫌な経験とともに、自分が努力して創っていったという苦労を辛さをも忘れてしまえるよう、無意識の深い 深い層へ組み込んでいく。だから、成長して、親が自分にやったことがマトモな愛情表現ではない、と頭で学んでも、心に打ち込まれた導線は消えない。
(続)