人気ブログランキング | 話題のタグを見る

カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

totoatsuko.exblog.jp ブログトップ

親孝行

親孝行って、実際のところどういうことなのだろう、とここのところ思いを巡らせている。

自分を人生を賭けてそだててくれた親が自分にしてもらいたいと思っていることをやってあげる → 親が嬉しい思いをする・満たされる。子供(自分)自身も親の嬉しそうな顔をみて嬉しい。

ということだろうか?

この関係、うまくいっていればいいのだろうけれど、一つ歯車が狂えば、お互いがお互いを喜ばせるために自分の人生を捧げ、自分らしく生きそびれてしまうのではないか。

ある女性は、父親が早く亡くなり女手ひとつで自分を育ててくれた年をとっていく母親を一人にできない、と生涯結婚せず母親と一緒に暮した。結婚のチャンスが幾度かあったけれど、母親を一人にするという親不孝は出来ない、と自分を律した。ここには、母親が自分の人生を犠牲(というと聞こえが悪いですが)にして自分を育ててくれたのだから、今度は自分の人生も犠牲にして親の面倒をみよう、という認識があるような気がします。母親が先に逝き、一人身になったときに、残りの人生を一緒に歩んでくれる伴侶が、子供が欲しいと思ったとしても、叶わない。

子育てをすることが、親の人生の犠牲になっているわけではないし、結婚せず親と暮らすことだけが、親への恩返しになるとは思わないのですが、そういう風にしか考えられなくなっていること自体、エネルギーや考え方が閉鎖的になっているということでしょうか。


親が子供に”こうあって欲しい”と期待をよせるのはよくあることだけど、親の希望通りになることだけが親を喜ばす方法・あるいは育ててくれたことに対する恩返しではないような気がする。すくなくとも「私」は自分の子供が「育てた」ことに対して何か「謝礼」的な行為をしてほしい、とは今のところ感じていない。私が好む生き方を私を喜ばすためにやって欲しいとは思わない。私が想像・理解、あるいは共感できる世界や価値観、生き方の範囲内で子供が自分の人生を作っていったら、それは分かりやすいから、いつも心穏やかに子供と接することが出来るだろうけれど、それではあまりにもつまらない、と思う。自分の生き方に共感してそういう風に生きるのは、自分自身だけで十分だ。

子供は自分と違う人間で、まったく異なる時代に生きているのだから、私の理解を超える生き方をして当然だと思う。違いを目の当たりにしたとき、私はひどく困惑するだろうし、怒りさえ感じるかもしれない。そして、私と子供はぶつかるだろう、どうして理解出来ないんだ?どうしてそんな考え方になるの? しかし、そういうのを通じてのみ、刻々と変化しているお互い素直な心中を知ることが出来る。そして、私は自分自身では立ち入ることが出来なかった世界に、子供のおかげで足を踏み入れる機会をもらう。子供が、私の思い通りに、あるいは私と同じ価値観を持って生きていたら決して味わうことができない、葛藤と衝撃と驚くべき喜びと感動。

ある親は、親の選ぶ見合い相手の中から結婚相手を選び、20代前半で専業主婦になり、親の近くに新しい家庭を持つことが娘の一番の幸せだと心から信じていたので、娘がそうするものだと思っていた。しかし、娘はそんなに早く結婚もしなかったし、親から遠くはなれた場所、海外に行ってしまった。親は、嘆き悲しんだ。海外という自分達が知っている文化や習慣が全く違う地に染まっていく自分の娘。しかし、この両親は娘がいなかったら決して行かなかったであろうその場所を旅行する機会を得た。それは、日常を離れ、全く異質な世界にふれ驚愕と喜びが詰まったひと時だった。自分達は出会わないような人々とも、娘を通じて触れ合うことが出来た。


親が、子供のために、と必死で色んな事をやりすぎると、子供が自分自身の手で自分の人生を作っていく機会を逃すだけでなく、親自身が自分の人生を自分のために生きることを見失ってしまっていないか?

子供が、親孝行と思って親の望むように行動する・生きることによって、自分らしい生き方は何かと自分に問うのを諦めているだけではなく、親が自分自身で自分を喜ばせる生き方を見つけるチャンスを妨ではいないだろうか?

例えば、前回取り上げたニュース。70代のお母さんと息子。
お母さんは、お金をあげることで息子をサポートしている・喜ばせていると感じ、息子はお金を貰うこと(サポートしている気持ちにならせてあげること)で、お母さんを喜ばせている(親孝行している)と感じていたかもしれない。

もし、お母さんがお金をあげなかったら?息子は失業を隠蔽できずすぐざま困難に直面しただろう。「誰かの子供=誰かに守ってもらえる」という逃げ道がなくなることで、一人の人間として困難に取り組むこと出来たかもしれない。

もし、息子がお金を貰うことを拒否したなら、お母さんは自分のお金をどう運用・活用しようか思案する機会を持ったかもしれない。(勿論、この既存の親子関係や親自身のアイデンティティーが変わるには痛みを伴う)自分の理想とする「親業」を生きることだけから喜びを得る日々ではなく、親子の関係を離れ、もっと目を外に向け、一人の人間として例えば旅行や演奏会などに出かけ美しいものを見たり聴いたり美味しいものを食べたり、例えば習い事をして色んな人と出会ったり。あるいは、チャリティーに参加し、広義に人のために貢献したりと。そういう意味では、親の思い通りに行動しないこと(例えばお金を貰うことを拒否すること)自体が、親を自由にし、ひいては逆説的だけど、親孝行とも言えるのではないだろうか?
by totoatsuko | 2007-07-11 22:51 | Comments(1)
Commented by yunta42 at 2007-07-15 14:02 x
親孝行って自分で決めることではなく、それに携わっていない他人が客観的に評価する物かも知れませんね。
元々は「子は親に従え」みたいな意味のようですが、そんなに単純な話では無いですよね。その時代の地域性や社会通念、倫理観、宗教観にまで話は及んでしまいますから。

いつも拝読して感じるのですが、物事には常に表と裏(別の視点)があって、そのどれをチョイスするかで人生の意味が大きく変わっていく。
面白いですね。
音楽療法とまではいきませんが、私の演奏も誰かの選択肢に影響するかと思うと複雑な気分です。(自分自身矛盾を抱えていると感じていますから。)
また寄らせていただきます。





line

音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite