心の深淵

自殺したドイツの哲学者ニーチェの言葉は、本質をついている。
生死と関係ない のぞき・のぞき(引き)込まれた人の例は、例えば
例えば、昆虫に魅せられ、その深淵にはまり、生涯をその研究に没頭させたファーブル。
昆虫の世界にはまり、その世界を開拓し耕し深めた、それ以外の世界に目もくれずに。言い換えれば、昆虫の研究にハマッたことにより、彼は他の世界で生きるチョイスを失った。
しかし、「心の深淵」をのぞきこむことは、時に心や魂の生死をさまよう危険性をはらんでいる。その分野の第一人者、ではすまない場合がある。言ってみれば、未開拓のジャングルに入っていくようなもので、地図も何もない、どういう天候でどんな生物が生きているのかも分からない。自分の心だからといって侮ってはいけない。自分の心は、そう簡単に隅々まで把握できるものでは、そもそもない。
一般に多く普及している「カウンセリング」それも、クライアントの話を聞いて、カウンセラーが「その場合こうした方がいいですよ」とアドバイスをあげるセッションでは、心のジャングルに入らない。
例えてみれば:
「ウチのジャングルから奇声が最近聞こえてくるし、異常気象で上から見たら枯れてる木があって、どうしたらいいか困っているんですけど、どうしたらいいでしょう?」 と、距離をおいた所からこわごわ見ているクライアントの自己申告を聞いて、
「それは、きっと~という動物で、おなかがすいた時変な声を出すのでよく知られていますよ。木も心配ですね。どうでしょう?空から動物のえさと植物の栄養剤をまいてみたら。~という銘柄のものがお薦めなので、試してみてください。」と、カウンセラーもジャングルに入らず、診断を下して、処方箋をあげる。
音楽心理療法やサイコセラピーといわれる深層心理を扱うセッションでは、
心のジャングるにより近づいて見てみる、あるいは実際中に入っていくことにより、その深淵を知っていく。一般的にそういう声を上げるのは~という動物、と判断を下すのではなく、少しでもその動物に近づいてみて、その動物と対話してみようとする。何を嘆いているのか、耳を傾ける。これによって、ジャングルに新たな均衡の自己発生を促す。エサを一方的にやる行為では、動物と自分の相互コミュニケーションは成立しない。そもそも、与えたものに意味があるのか、与えたものが在庫切れになったら、どうなるのか?外的要因に頼っていては、真の均衡は得られない。
しかし、冒頭のニーチェの言葉が示唆するように、未開のジャングルのようなところに入り込むことは、それに飲まれる可能性も大いにある。自己防衛機能を備えている人は、本能的にその危険を知っているから、ジャングルに一人で入ろうと思わない。
反面、騒がしくなっているジャングルを放置しておけば、その中でおきている不調和は、ジャングルからはみ出し、もっと広く暗黒のスペースを広げていくだろう。
サイコセラピーには、そういう要素がある。
未開のジャングルの深淵に手探りで入って行き、知っていく、対話を始める。
一人では絶対にできないことだけど、訓練されたサイコセラピストと一緒なら、生きて帰ってこれる。ジャングルの中で生きる喜びを感じる手助けを、ジャングルを生き抜くために必要な体力づくりのサポートをしながら、また、休むために雨風が防げる場所を用意してあげながら。
深淵に少しでも触れた後の世界の色合いは、それ以前と全く違う。
by totoatsuko
| 2007-06-01 11:28
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