お休み
書きたい事がなかった・書きたいと思わなかったから。
よく書いている週と、何が違ったのだろう? とプールで泳ぎながら想いをめぐらせてみた。
おそらく、日常を過ごすのに、外から色んなものを貪欲に探し、取り入れようとする心と頭と体の体力がフラットになっていた。それでも勝手に自分の中に入ってくるもの、自動的に取り込んでしまうものがあったのだろうけど、それを自分のフィルターにかけて、料理して、消化するプロセスが作動していなかった。
何も生まなかったり、達成しなかったり、物事が進展しなかったり、そんな時って、書くことに限らずいっぱいある。
セラピーのプロセスでも、数回続けて あるいは数週間・数ヶ月にかけてなにも進展していない、なにも変わらないような、停滞感をクライアントが感じることもあるし、私が主観的に感じることもある。
毎回お金を払っているクライアントからしたら、一体何のためにセッションに来てるんだ、と思うだろうし、それはクライアントの立場も体験している私にはよく分かる心理。ただ、ひとついえることは、人やその人の時期によって「停滞」している状態が、その停滞後に起こる変化に欠かせないものである、という事実。停滞感をめいっぱい感じたり体験することも意味がある。動かないこと、変化しつづけていないことは無駄ではない。なぜなら、一見 何も変わっていないように感じることでも、実際は自分の気付いていないところで生きる素材は蓄積・熟成されているのだから。
最後に 例えを一つ。
チーズを作るには、生乳を仕込む重労働をした後は、湿度と室温を保ってただ待つのみ。仕込んだミルクと塩が空気に触れて呼吸をしてチーズになるまでの時間を何もしないで時が来るまで「待つ」ことによって、美味しいチーズと、それを引き立てるワインや友人とのお喋りや料理とのコンビネーションによる極上のひと時にありつける。