電話カウンセリング

愚痴っているのは分かってるけど、愚痴らずにはいられない、というか、この不安な気持ちを聞いて欲しい、勇気づけてほしい、と言う。
私は、友人として思うことを 友人としてべらべらと喋った。
こう考えたらいいんじゃない?とか、こうしてみたら?とか。
ひとしきりお互い喋って、友人が、あーよかった相談して、すっきりした、カウンセリング代今度払うよ、なんて冗談交じりに言うので、そうか、世の中には電話カウンセリングという商売も常識的に存在しているな、と思い出した。
相手の顔も見ずに、相手の潜在的な気持ちを引き出す試みもせずに、こうしたほうがいい、ああしてみたら、なんていうのは、私にとっては友人として接しているから言えるのであって、セラピストというプロフェッショナルな立場で相手と関わっているときには絶対とらない態度である。
その人にとって、何がベストチョイスなのか、なんて絶対他人には断定できない。心を扱うプロなら、尚更だ。尚更、自分がクライアントの心を完全に理解した気になり、相手に指示を出す事が、いかに浅はかであるか知っているはずなのだ。それに、相手が自分で解決するチャンスを奪っている事にもなる。
電話カウンセリングは、クイックフィックス(手短に解決する)を望む現代のニーズに一見あっているのだろう。セラピストのオフィスにわざわざ足を運ばなくていいし、自分なりの道筋や方向を、心の深いプロセスを通して見つけていくような時間とエネルギーを使うかるかったるい作業を飛び越えて、心のプロという「権威」が示唆してくれる答えをその通りやれば、その場しのぎが出来た気になれる。
時間がない人が多い時代には、こういうサービスも不可欠なのかもしれない。
これで、救われる人も沢山いるだろう。
でも、これは私の仕事ではない、と思う。
(GIMセッション、音楽心理療法を受けたことがある人なら分かるけど、このセッション形態、明らかに電話越しでは不可能です。)
相手の顔もボディーラングエッジも見ずに、かもし出す雰囲気・エネルギーを電話越しでしか感じられずに、私は何も出来ない。気休めをいう事は簡単だ。友達を励ますように、クライアントに接すればいいのかもしれない。でも、セラピスト・クライアントの関係と、その関係の目的は、決定的に友人や家族との関係とは違う。
簡単に人工的に曲げられるものは、その人工的な圧力の存在が消えるとすぐもとの形にもどってしまう。
私は、そういう変化を心にもたらすのではなく、その人の内面から自発的に変わっていくプロセス、私との関係が終わっても、その変化の過程が続き、発展していくようなプロセスを生む関わり方をしていきたいと思っている。