グループマンダラ -無言のグループダイナミックスプロセス

以前、ある参加者の方が、過去に芸術療法で似たような体験をしたけれど、その時はグループメンバーとお喋りしながら、紙の白さを埋めていったことを、紹介してくださいました。
その時、お喋りしながらのグループマンダラと、音楽をおのおのが取り込みながらのプロセスと何が違うんだろう、と私は自問した。おそらくその違いは、個々人で違うし、その時その時で感じ方も違うと思うけれど、私のやり方では、非言語的な側面や心のゆれにもっとフォーカスられるのではないかと思う。
わたし達は、日々言葉をつかって主に人とコミュニケーションしたり、自分の考えや思っている事を表現するけれど、非言語な色・筆圧・色を足していくスピード、他の色に対する絡み方も、多くのことを語っていることに気付かされる。
「あら、あなたのその色ステキね。私の円の近くにもそれを書いてよ」
と言葉でいわなくても、それを呼び込むための空間や相手が魅力的だと思う雰囲気を作れば自然とその要素が近寄ってきてくれる。逆に、どんなに誰かの描いた要素を取り込みたくても、全然近寄ってきてくれる気配がない場合、自分がどんな心理状態になって、どういう対応をするのか、後から振り返ると日頃の行動パターンと重なっていることに気付いて面白い。
欲しいものが手に入らないとき、周りに対してものすごいフラストレーションを感じるのか、周りに自分のニーズを知らせるために声を上げて主張し始めるのか、他人に期待せず(あるいは しつつ)自分でその要素を創作するにはどうしたら良いか試行錯誤を始めるのか、あっさり諦めたつもりになるよう自分を説得するのか、適当なもので自分をごまかすのか。
グループマンダラを書き上げた後、その全体像、個々の円を見ながらのディスカッションは興味深い。金沢でのワークショップでは、同じ曲を聴きながら、2つのグループに分かれて描いてもらったら、全く異なる2つのグループマンダラが出来上がって、参加者の中から驚きの声が沢山出た。きっと、各グループから1人だけトレードしても、まったく違うグループダイナミックスが無言の絵描きプロセスの中で生まれ、全く異なるものが出来たんだろうな、と想像させられるくらい、一人一人の存在がグループ全体に大きな影響を表していたことに気付かされる。
グループは、わたし達が生きている社会の縮小版である。
まわりのグループメンバーに、日常持っている人間関係を投影し、自分の言動・色・音に自分の日頃の思考・心理パターンが無意識のうちに反映される。グループマンダラはGIMセッションでイメージを見ているときと同様、エゴが弱まった変遷意識状態で心の状態を色にするプロセスなので、自分の影の部分(自分が無意識のうちに認識しないようにしている自分の側面)もグループマンダラの紙面に無防備にでてくることもある。
言葉をあやつっているようで、知らないうちに縛られていることもあるわたし達。
言葉を使わず、人をコミュニケーションしてみて、それは一体なんだったんだろう、と振り返っているグループサイコセラピーのプロセスは、奥が深い。
グループセッションを行なっているセラピストは、そのグループセッションの目的に応じて、こういうグループダイナミックス、グループダイナミックスにおける個々のグループメンバーの心理変化に対して、知識と敏感かつ、的確な言葉、音楽の要素を提供する能力を持っていることがとても大事だという事を付け加えておく。