GIMで使う録音音楽の演奏の質について

GIMの要素を取り入れた、個人マンダラ、グループマンダラ、個人粘土をつかったプロセスを体験していただきました。
いずれも、グループメンバーの持つエナジーや雰囲気、状態に基づいて、それに合うだろうと私の独断と偏見によって選ばれた音楽を聴きながら、マンダラを描いたり、粘土をこねたりしました。
最後の質疑応答のときに出たものの一つに、使われた音源の演奏の質ってどうなの? というものがありました。GIMのトレーニングを受け始めた頃に、Ken BruciaというGIM セラピストが編集した数枚組のCDを購入します。自分が一からセラピー用の音楽・気に入った演奏をコレクションしていくには膨大な時間とお金がかかるからです。ただ、残念な事に著作権などの問題で、このCDに入っている演奏は、クラッシックパフォーマンスとしてのレベルはあまりよいものではありません。だから、少しでも音楽をかじったことがある人は、上記の疑問を感じるのでしょう。私がトレーニングを受けている時にそういう議論をしたこともありました。
私がそれに対して言ったことは、
セラピーのプロセスで使う音楽が、必ずしも芸術的観点からみて美しいものである必要は全くないということ。GIMセッションで音楽を聴いてイメージしたりマンダラを描いたり、粘土をこねたりしている時は、変遷意識状態(いつも使っている意識とは違う層)で、いつもとはまったく違う音楽の聴き方をしている。演奏している自分・音楽家の自分 等の社会の中で存在する自分を構成しているアイデンティティーというのは、この時すごく弱まっているから、イメージのプロセスで、「ああ、今バイオリンとチェロが合ってなかった」という様な音の聞き方はしない。音楽の中で自分と自分の対話にフォーカスしており、音や、音が持つエナジーや流れ・変化が、抽象的に心とシンクロナイズして、深層心理のプロセスが起こる。
私のこれまでの経験の中では、2セッション目以降に演奏の質が悪さが気になってしょうがない、と言う人はまだいません。でも、仮にもしそういう人が現れたら、何故心理セラピーの過程においても、 いわゆるクラッシックリスナーとしてしか音楽を聴けないのか?という点をプロセスする方向を生むかもしれません。日頃の聴きかた、価値判断、音楽家というアイデンティティーに固執しなくてはいけない自分は何なのかと。これに固執して心の深いプロセスから避けようと無意識にしてしまうのは、何故なのか?何を恐れているのか?と。