ぬるまゆ
ふとした瞬間 瞬間で感じるのは、自分がすごーく なまぬるい感じになっていること。
ただ何となく漂っている状態とでもいおうか。
肌が風をかんじない、とでもいおうか。
どうしてだろう?
自分と異質なものに触れるチャンスがないからか?
もちろん、一人一人人間は違うはずなんだけど、みんな自分の心や考えや体を一律にラッピングして、ある程度整えた外見で人前にでるから、内にあるものが伝わってこないからか?
アメリカに住んでいた頃たまに日本に帰ると、女の子がみーんなおんなじお化粧をして、似たような服と髪型をして歩いているのが、凄く目についた。それで、ニューヨークのおしゃれさん、という特集組んである雑誌とか読んで、そんでもって、ニューヨーク帰りのわたしは、流行とは関係ない格好をしていて肩身い感じ。彼らは、編集者の好みと偏見で取り出されたアメリカのほんの米粒くらいの人口の間で流行ってることを、アメリカの先端くらいに受け止めて真似してるけど、実際マンハッタンを歩いてる人なんて、東京ガールスの千分の一くらいお洒落にお金使ってない。でも、一人一人違う魅力を発している。
そういう子たちに、アメリカでは今どんな音楽が流行ってるんですか?と聞かれても、一言でいえない。だって、巷に流れてる音楽のジャンルはすっごく一杯有るし、好みが日本のように数系統では治まらないから。なにか一つのものが大流行って事がなくて、色んなところで、色んな人が色んな面白いことやってる、って感じだった。
そして、私がアンテナを広げれば、それぞれの世界を垣間見ることができる。決して向こうから押し売りしてこない。
多分、母国語ではない言葉が日常、多文化が入り乱れている、というのも、私の肌を敏感にさせていたのかも。常に、相手の言葉を聴こうと、自分の伝えたい事をどうやったらうまく伝えられるか、日本にいて、日本語を話しているのとは比べ物にならなくらい、神経を張り詰めていたんじゃないかな。一つのもごとを話していても、人によって全く違う受け止め方が出てきて、自分の視点との違いをいちいち認識させられた。
それは、私を疲れさせていたのではなく、感覚を研ぎ澄まさせるものだった気がする。
でも、日本だって世界が注目するような面白いことやってる人たち、場所、空気がある。
それにアクセス出来ていない、肌で感じることが出来ていないのは、わたしのアジャスト不足なんだろうな。海外に住み、日本のよさを再認識したのだから、日本のエッジを感じられる6感をはぐくんでいきたいと思う。