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父性について

Acceptanceの投稿で2度使った「父性」という言葉。
母性と比較しながら、私なりの理解をここに書いてみる事にする。

河合 隼雄は、日本は母性社会、といっているのだが、まずここでいう母性、父性が何をさしているか説明すると、、、ユングがいうanima(アニマ)、animus(アニムス) - 個々の無意識に存在すると考えられている女性像、女性的なもの、男性像、男性的なものからきている。 男性でも、女性でも、どちらの側面も持ち合わせているのだが、その力関係やそれぞれの性格は個人によって違い、その人の行動や意思決定(その人の表層の意識)に影響を与えてくる。

母性、父性というのは、女性的なもの、父性的なものの派生であると考えればいい。

ブログではあまり理論の羅列をしたくないので短くまとめると、
母性の原理は、「包む」機能が主幹となっている。我が子である限り、善悪関係なくいつくしむが、反面その自立を許さない。胎児を内包し、産み育てるが、呑み込み死に至らしめることもする。

それに対して父性の原理は、「切断」機能がその特性だ。善と悪、上と下と、母性が全てのものを等しく扱うのに対して、個性や能力により子供を類別する。 父性は、良いものを選び悪いものを切断することにより強い個を作り上げる力を持っているが、反面、切断の力が強すぎて破壊に至らしめることもある。

例えば日本社会では、子供がいくつになっても親は親の役割を果たす義務がある、という意識がなんとなくある。高校を出て定職につかなくても、同居を許し、お小遣いをあげ、いつくるか分からないその子の自立のプロセスを「受容」している。成人して結婚し家をローンで買おうというとき、子供に多額のお金を自分達の貯蓄から貸すことも常識的だ。こんな受動的、自己犠牲的な姿勢は、母性的と言える。社会も、子供(それが何歳であろうと)が犯罪を犯せば、親の責任とみなし、手柄をあげると親の名誉として親がマスコミに取り上げられることも少なくない。常に親子は一つと考えられ、切断されることがない。

また、父親ですら、子供にNoと言えない。亭主関白という、あたかも家のルールを父親が決定しているような家庭でも、直接子供と接するのは母親、父子の橋渡しをするのも母親の役割だったりするし、給料のマネージメント役はオクサンだったりする。実質的には、母性が強い方の感性や意思で家族のルールが決められ回っている家庭がおおい。
日本で生まれ育った人にとっては、これを読んでも「だから何?」と何の疑問を感じないかもしれないが、父性社会といわれる欧米の視点からみれば、この現象はとても特異なのだ。

欧米の親達は一般的に高校までは子供の面倒を見るが、その後は子供は家を出て行くものと認識して子供を育てる。子供がお金がないんだー、と言ってきても「あ、そう」というだけで、当然のようにお金を与えることはない。もう大人なんだからと彼らの自立を促し、個としての存在を尊重し、自分で仕事を見つけるすべを考えなさい(切断機能)、と言うだけのこと。こういうのが当たり前な社会に育てば、子供も、親にいつまでも受容してもらうことを期待しない。親は自分で稼ぎ溜めた老後のお金を子供に費やすのではなく、自分達の人生の楽しみのために使おうと思っているし、子供に金銭的なサポートをする義務があるとは思っていない。子供に高価なブランド品を請われるままに、あるいは自ら買い与えることなんてありえないわけだ。自分達の人生を楽しむためにお金を稼いでいるのであって、子供のためではないという認識がハッキリしている。

母性社会でそだった日本人にとっては、なんだかドライで心が通っていない感を持つかもしれないけれど、かれらはそういう社会、文化の中で彼らのやり方で親子の関係を、人間関係を一人の自立した人間を相手に築いているのだ。

教えてあげる、守ってあげる、許してあげる、受け入れてあげるだけでは、
その個は、それに呑まれてしまい自我を確立する機をなくして年月がたってしまう。
そんな生き方は、親切という名においてすべてをその支配下に置き、民に考えることをやめさせ、ぬるま湯につかり、ぬるま湯にのまれて日本がまわっている時代はそれでよかった。

なんでもルールが決まっていて、過剰な説明や、サービスに溢れている日本のなかで、自分のルールは何なのか問うこと、そして自分のルールに自信をもって生きにくい社会。


しかし、時代は変わり、社会の状況も変化している。
やってあげたくてもお金をいつまでもあげつつけられない親、終身雇用を放棄した会社、自己責任をハヤリに仕立て上げる社会、
もうぬるま湯にひたりきっていい気分で生きつづける事は、悲しいかな、無理がきている。

ぬるま湯から出るのは、体勢に甘えている自分を切断するのは勇気がいる。
十分あったまっていないから、出ると寒いし、体力もないから、どこに行きたいか見つけるまでに体が冷え切って、寒さに慣れていない体は凍死してしまうかも。

でも、きづいたらぬるま湯が干上がっていてかたくて冷たい岩の穴に裸で取り残されて呆然とするような受動的な生き方・死に方をするよりは、一度きりの人生、自分の力で自分の道を探して死に果てる方がいい、と思うのは私くらいでしょうか?
by totoatsuko | 2006-10-01 17:44 | 日々感じたこと | Comments(0)
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