グリーフカウンセリング II
この話を聞いて、私はまず本人の言葉に驚愕した。
自分の体の治療をどうするか、という意思決定権を、完全に放棄しているのだ。娘達を心から信頼しているにしてもだ。どうにでもしてくれ、と。苦しむ治療だけはイヤだ、位でもいい、自分の意思表示があってもいいはずではないか? そう思った。
大事な自分の体をどうするか、どんな死に方をするのか選べるというのに、
あえて、自分でない誰かに決めさせるのだ。
これは、自己責任という概念を小さい時から叩き込まれたアメリカ人には理解不能だろう。
また、私は本人は自分が癌だということを、絶対に感づいていると思った。誰も本当のことを言わなくても。そういうことは、理屈ぬきに、魂が感じるものなのだ。そして、私が娘達にそれを指摘すると、「そうかもしれない」と言う。自分の父親に自分達が嘘ついている、芝居をしていることがバレてるかも知れないとおもっても、それを演じ続けているのだ。また、本人も、無知なじいさん役を演じているわけだ。
日本でのホスピスや自宅での尊厳死のケースを海外に住んでいる時からきいていたので、それが日本人のスタンダードになって来ているのだ、と私は錯覚していたような。
アメリカで、死にまつわる家族のシーンに何度も関わったけれど、こんな茶番劇を死という真剣な場所でやってる人たちには、私は出会わなかった。アメリカにいないとは言わない。でも、日本程多くはいないだろう。
しかし、娘から話を聞いているうちに、これが彼らのベストな選択なのだ、というを感じた。
いいのだ、面と向って真実を伝え合わなくても。
これまでのように、意を伝えるときは、やんわりと回りくどく、お互いを察しあうことで、お互いの真意をしっているつもりになる。それでいいのだ。そういう劇を人生かけて、真剣に演じてきたのだから。悲しい話を、悲しく演じていたら面白くもなんともない、という日本人の美学だろうか?
彼らは、自分達の気持ちを、内に秘めたままで、その内部で死を迎えるプロセスをそれぞれが行なっている。死に対する恐怖とか、ちょっと過激すぎる気持ちを、うまいこと心の奥底のどこかに居場所を見つけてやって、心の均衡を保つことなんて、日本人はアメリカ人よりも慣れっこだし、日常化しているのだし。
(この感覚は、久しぶりの歌舞伎を観劇中にも、ふつふつと思い出された。自分の中にも、日本人として生まれたときから埋め込まれた、そういう感覚があったのだ、が、長くアメリカに暮らしていて、忘れていたようだ。)
アメリカ人の場合、ベースに個人主義や、自分の人生は自分に選択肢があって当然だし、選ぶべきだと思って生きている人がおおいから、上記の例のような茶番を真剣に続けてはいられない。
ああ、これから沢山、私は、母国で学ぶべきことがある、と心から思った。
私の今現在もっているグリーフカウンセリング、そして音楽療法の手法も目的も、全て日本という風土と民族性と文化、それらから生まれるニーズに基づいて、進化させていかねばならない。

欧米で驚いたことのひとつでした。
いとこを自殺で亡くした時、日本では無言のままでした。家族も親戚も、友人たちもそのことについては語りませんでした。
アメリカに帰って初めて私の経験したことは、きちんとセラピーのなかでプロセスしてゆく物に値する、と初めて痛感しました。
経験上、きちんとプロセスする方が私にはあっていました。
しかし、同じ方法が私の家族や親戚に通用するわけはなく、人々は無言を続けた。5年たった今もなお、語られることはない。
語らないほうがいいのか?語ったほうがいいのか?
私の経験上、語る代わりに音楽やアートが日本人の感覚にはあうのかもしれないとも思ってます。
茶番劇も効果があるのかも。だって、知らないフリ、平気なフリをしながらもお互いを支えあっているのですから。