「私はどうするのがいいんでしょう?」「わかりません」

そこで、最近感じていることを、とてもうまく表現してくれいている段落があったので引用します。
「よい方法はありませんか」といわれて、「ありません」というのは、よい方法というのは脇道なんです。ちょこっと~うまいことやるのは、脇道なんです。それをやらずに、この~と生きることはどういうことなのか、なぜ私は~が嫌いなのか、なぜ私は死んでいくのか、とまっすぐ歩かないと、善光寺*には行き着かないわけです。
だいたいみんな善光寺参りはしんどくて、みんな脇道に行きたがるんです。その脇道のことを、みんな「何かよい方法はありませんか」といわれるんです。そのときだいたいわれわれは、「ありません」と非常にはっきり答えるわけです。つまり、「この道をいきなさい」ということを言うわけです。この道というのは、いちばん苦しい道です。ただし、私も一緒にいきますからというのが、カウンセラーの仕事なんです。(p.197)
楽になりたい、この状況からどうにか抜け出したい、とおもって私のところに来る人は多い。
そして、上記のようなやりとりが起こる。
なんとか助けてほしい、自分ではどうしようもない、何処にむかったらいいのか教えて欲しい、というクライアントの叫び。
気のきいた一言を求められているのが分かる。
しかし、安易な答えはその人が自分なりの答えや道を見つけだいしていくプロセスの妨げにしかならない。なぜなら、私の一言を神の言葉のように奉ったり、その言葉によりかかり、安心感を感じ、私に依存してしまったら、その人のそれまで生きてきた (自分に問いかけず、自分を信じられない、自信がもてない)パターン=心の問題を引き起こしている原因の一つ、を繰り返すことに私は加担しているか、その人が本来持っている答えを道を探し当てるエネルギーの芽を摘み取っているにすぎないからだ。
以前にも書いたけれど、心の旅のプロセスは、心が「楽」になることが目的でも、その過程では結構辛いセッションもある。それは、デトックス(毒だし)の様なプロセス、あるいは抗がん治療でがん細胞を殺すけれども、他の細胞も苦しめられる状態、と例えられるかもしれない。
そんな壮絶な心のプロセスを乗り切れば、ほんとうに人がかわったような、美しい生まれ変わりが、世界の変化が現実におこってくる。
*「牛に引かれて善光寺参り」という話がある。とても欲の深いおばあさんが、ほしていた布を隣家の牛が角にひっかけて走り出し、それを必死に追いかけていくうちに、信濃の善光寺に牛がはいっていき、それについていったおかげで、善光寺にお参りして宗教的な体験をする。 向っているうちは何をやっているのか分からなくても、あるいは、ただ単に欲にかまけて布を追いかけていても、導くものについていけば、本来の目的以上の何かに行き着くことがある、という示唆。
by totoatsuko
| 2006-08-22 16:05
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