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通勤とピクニック

通勤とピクニック_d0065558_8333811.jpg”セラピーのプロセスは、目的地に着く事が目的である通勤ではなくて、歩く事に意味を見出すピクニックだ。”

NYUのある授業でKeneth Aganが言って、納得した一言。

私たちは、結果を出す事、何か目に見える変化を生み出すこと、計算をして正しい答えを出す事、目的地に時間通りに到着する事が大事だという概念をもって、日々生きている。テストでいい点をとること、人と比べて優れている事が、よいことだと、教えられる。

間違っている事は、直すように努力をするように教えられる。
でも、誰がそれを”まちがい”と決めたのか?
社会、親、先生、家族、友達にとってまちがっていても、自分にとっては正しいことは沢山ある。
あるいは、自分にとって正しいかどうか考える・感じる時間を持たないまま、外部に言われるとおり、外部の"正しい”という概念にあわせるよう、大部分で生きている。

だから、Q&A 6 で紹介した疑問がわいてくるのも理解できる。
自分の状態を知って、どうなるの? 何が変わるの?自分を知ることにより、周りの期待とのギャップをより感じて、辛いだけじゃないか?


私も似たような問いをまさぐっていたので、Kennethが、セラピーをピクニックに例えた時は、”なるほど!”とやっと合点がいったのを覚えている。


通勤する時は、いかにその目的地に予定通りの時間に到着する事が大事だと思っている。
満員電車に揺られたり、タクシーに飛び乗る事に、なにも意味を見出さない。出来る事なら、そのプロセスをかっとばして、どこでもドアで一瞬にして、目的地に着ければ、と思う。


かたやピクニックは、何処かに行く事が目的ではない。
お弁当を持って、その道のりをたのしむものだ。
足元に咲いている草花、その道で行きかう人々との交流、時間によってかわる風や太陽、汗ばむ体、乾いた喉を潤す冷たい水。疲労感。

ピクニックにいったからって、”よくやったね”というような外界からのいたわりや、奨励はもらえない。遅刻しなかったから罰則を逃れる、というものではない。
周りに認めてもらうためや、周りの規範に合わせるためのプロセスではないのだ。

でも、人はピクニックに行く。通勤とピクニック_d0065558_8341050.jpg
それは、人生を潤す。
ピクニックに何度か行ったからって、お給料が上がるわけでもなく、誰かから褒められる事もない。
それでも、ピクニックの経験は、心に残っている。
心の安らぎ。新しい人との出会い。普段かがない、草花のかおり。自分の足がやわらかい土をふむ感触。それは、長期的に、人生に影響してくる。

もしかしたら、道端でみつけたキノコに魅せられて、その道を歩む事になるかもしれない。
出会った人々との暖かいふれあいが、今まで感じていた人間不信に変化をもたらすかもしれない。
日常いらいらした時に、ピクニックできいた小川のせせらぎを思い浮かべれば、心に静けさを取り戻す事ができるかもしれない。


セラピーは、そういうピクニックに例えられる、と私は思う。

人生が、”死”という目的地をめざして通勤しているのではなく、その瞬間瞬間をいつくしむものであるのと同じように、セラピーは、そのプロセスで自分が感じていることをめいっぱい感じ、それを探っていゆき、自分の人生をより豊かにするものだ。

勿論、人生をいつくしむどころか、辛くてもうこんな人生はやめて”死”に早くたどり着きたい、と思っている人も沢山いるだろう。

通勤とピクニック_d0065558_8335310.jpgそういう人こそ、セラピーに行ってみて欲しい。歩くプロセスを楽しむヒントが見つかるかもしれない。見落としていた、美しい風景や心休まる人との出会い、自分自身がもっている、美しいものに、きっと出会える。


障害を持った人も、同じことがいえる。
障害がない人が作る社会の決まり、文化の中で生きていくのは、いろいろ大変だ。でも、セラピーの中では、それがない。通勤する会社もなければ、到着しないといけない決まった時間もない。ピクニックを、自分の人生を思う存分楽しめばいいのだから!
by totoatsuko | 2005-11-07 07:59 | Comments(0)
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