個人のスタイルの重み

子ども達とも、どうして食べないのか、どうして人工的なものをとらないのか、子ども達の年齢と成長と理解に合わせて少しづつ対話を重ねていけるようになってきました。
先日、学校の二者面談があり、栄養士さんとも話す機会があり、
よく食べる子なのに、お母さんが代わりのものを持ってこないときは食べれるものがすくなくて ”かわいそう” (お肉や卵が入っているメニューの代わりを持たせるのを私が時々忘れてしまうのです・・・)
お肉をよけて食べているから、いいでしょう、肉入りのものを食べても
という感じで言われまして、そういう感覚なんだなぁ、と思いました。
キリスト教の人に、都合がつかない時には、しょうがないからアラーの神に礼拝してもいいじゃない、
キリスト教に考え方がしばられてかわいそう
とはたぶん大半の日本人でも言わない感じがするけれど、
食べ方のスタイルとなると、日本では
ちょっとくらい沿わなくてもいいじゃない、
今日は特別だからいいじゃない
という感覚になる。
食べ方は、命のいただき方は、宗教じゃないけど、個人の尊重されるべきライフスタイルで、
そういう感覚は、欧米ではとても自然に共有されている印象を私はもっています。
育てている人がベジタリアンの子どもに その人の主義ではないものを食べさそうとは他人はしない。
クリスチャンの親の子どもに、アラーの神もいいもんだよ、信仰してみなよ、と声掛けする人はいないですよね。
健康のために何かを食べるのを控えているなら、特別な時は無礼講、
好きなものをたべよう、という考え方になると思うけど、
自分たちを生かしてくれている地球を尊重するために、
地球と共存する生き方が大事だとおもったとき、
プラントベースな、マクロビオティックな食への考え方は私にとてもしっくりきました。
そして、それがとても美味しい、と思って食べているから、
特別な時は無礼講、と日ごろ食べない動物や人工的なものがはいているものを食べる、という感覚がない。
みんなが食べてるものを食べないかわいそうなわたし、かわいそうな子ども達、
とは全く思わないんですよね。
日本人のまわりの多くの人がかんがえてる ”みんな” は、自分のまわりの人のことだけで、
地球レベルでは、みんなが、みんなが、と言う人たちの ”みんな” という価値観と違う食べ方をしてる人はたくさんいるのに。
地球を尊重する食べ方を選ばせてもらえている事にむしろ感謝している。
そして、そういう考え方を、今子ども達と対話しながら伝えているところ。
だから、かわいそうな目で見ないでほしいと思ってしまう。
かわいそう、と彼らに言わないでほしいと思うってしまう。
ただ、そういう対応をされたら、また親子で対話する機会を与えていただいた、
ありがたい事だと心から思います。
なぜ、かわいそうと言われるのか? 本当に自分たちはかわいそうなのか?
ゆっくり対話をするきっかけをいただけるからです。
いろんな生き方があっていいとおもう。
いろんな食のスタイルがあっていいとおもう。
だからこそ、自分の生き方を大事にしながら、
相手の生き方も大切にしていきたいと思っています。
by totoatsuko
| 2013-12-24 20:33
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