子どもたちは 日々遊んで、戦って、学んでいる
「子どもが喧嘩をするのは止めんのです、 そうやって子どもはつようなっていくんです。
でも隠れたり嘘をついたり卑怯なマネをするのは絶対許さんのです。」
同感。
どんどん喧嘩すればいい、議論を戦わせればいい。
その過程で言葉を習得し、操り、体も使い、アタマも使う。
でも、そういう切磋琢磨できる表面的な強さは持っていない子ども、
戦いが嫌いな子、そういうサバイバルでの学び方が苦手な子はどうしていたんだろう、
いまみたいな喧嘩の仲裁や丁寧な指導がない昔は。
それでも生きていかねばならないから、
戦わなくてぶつからなくて生きていくしぶとさや知恵、みたいなのを嫌がおうにも身に付けていっていたのか?
会津藩の殿様のセリフの趣旨。
「木登りもまた、子どもらの戦いであろう。」
同感。
ほんとうに、子どもたちは、遊びのなかで、”色んな人と関わること” で沢山のもの、生きていくすべを学んでいっていると思う。サバイバルだ。
おとなになってからの “頑張る” という感覚と、子どもの頃のそれは、また違う・・・のか?
いや、頑張る、という感覚は、おとな子ども関係なく、その人の心のありさまによって全く違うように体験されるものだと、今、このように書きながら気付く。
親や大人が ”言葉” では教えられない、体で感じて学ぶこと。
泣いて笑って、怪我もしながら、生きていく、強くなっていく。
子どもが成人していくにまでには様々な危機が実は降りかかっている。
体の成長とともに複雑になっていく精神。
自分の中の矛盾や葛藤に気付いていく。
まっこうからそれにぶつかっていったら病気になってしまうくらい、大きなものを抱える。
それを、どうにかこうにかして、本当に奇跡的に大人になった人たちは潜り抜けてきているのだ、
私たちが、何万の精子と卵子が出会って受精卵となり胎児として生まれることができることが
実は、そのメカニズムを少し学ぶととても奇跡的なことだと分かるのと同じくらい。
精神的にキレたり、喧嘩やスポーツをしている中で大けがをする、
それは、特別なことではない日常だと思っている。
だから、命さえあれば、何が起こっても本当は驚くことはないんだと、頭では思う。
(交通事故の死傷者が、日本で1日2千人ちょっと、と知ってビックリしました。)
だから、いつも感謝する。
今日も一日、無事に夜を迎えることができる事を。