フォトアルバム - プレルード
今回から、5回シリーズで 七五三アルバムにのせたエッセイを掲載していきます。
とてもとても、個人的な内容で、今の私が凝縮されている内容だから、
その思いをみなさんとシェアしたい、とおもいつつも、
いろんなものをさらけ出すような、ハダカで外に立つような無防備さもあり少しまよいました。
しかし、文章は書いた時点で私の手から離れ、読み手のものとなり、アルバムにのっている文章とは別物、
ブログという媒体にのせられた不特定多数の人がよむもの、という作品になり、それは自由に解釈されていくものだと思っているので、そこに何かを信じようとおもいます。
読み返してみておもったことは、
具体的なこと、細かいことを知らない方々には
随分ヘンテコなことをやっているようにみえそうです。
理解できないように受け止められそうです。
まぁ、それもよいでしょう。
読む人のもつ器や世界感によって、物語がまったく違うストーリーに感じるのは
書物の醍醐味だとおもいます。
ある一家の物語、というフィクションとしてうけとってもらったら。
物語は面白い方がいい。
所詮、浮世は夢の世界ともいえそうですから。
自分達のフォトアルバムを作るにあたっては、どのようなのを作りたいか考えたのですが、
支度、 朝まだみんなが寝ている頃から、起きてきて、あそんで着物に着替えていくようすまで
いざ、 着付けがおわり、手をとりあって家から神社にむかい、そこでお祈りするところまで
日常へ 着物を脱ぎ、日常の風景にもどっていくまで、
の3章だてにしました。
そして、それぞれの扉と、プレルード(まえがきのようなもの)、エピローグ(あとがきのようなもの、でもちょっとニュアンスがちがうのだけど)にエッセイを入れてもらいました。
文章は、このアルバム用に書き下ろしたり、
過去このブログでも書いた記事を手直ししたものになりました。
プレルード

"A rose blooms because it blooms, it is without why"
by Anglus Silesius
花は 花であるから咲いていて、それ自体が "花” という存在の証だ。
花は人に”美しい”と言われるために咲くのではなく、花だから咲いている。
とりつくろったり、誰かを喜ばすために咲いているのではない。
それなのに、私たちは、その自然体に感動する。
種が芽吹き、葉をつけ、花をさかせ、枯れ、実がなり、すべてが朽ち果て無になっていく、そのすべての過程に、美しさを見出す。
楽しみながら、味わいながら、常に変わりゆく自分をなぞっていく過程、それが生きること。
自分らしくあるために理屈はいらない。
ありのままの存在の中に、人としての究極の美しさがある。
とてもとても、個人的な内容で、今の私が凝縮されている内容だから、
その思いをみなさんとシェアしたい、とおもいつつも、
いろんなものをさらけ出すような、ハダカで外に立つような無防備さもあり少しまよいました。
しかし、文章は書いた時点で私の手から離れ、読み手のものとなり、アルバムにのっている文章とは別物、
ブログという媒体にのせられた不特定多数の人がよむもの、という作品になり、それは自由に解釈されていくものだと思っているので、そこに何かを信じようとおもいます。
読み返してみておもったことは、
具体的なこと、細かいことを知らない方々には
随分ヘンテコなことをやっているようにみえそうです。
理解できないように受け止められそうです。
まぁ、それもよいでしょう。
読む人のもつ器や世界感によって、物語がまったく違うストーリーに感じるのは
書物の醍醐味だとおもいます。
ある一家の物語、というフィクションとしてうけとってもらったら。
物語は面白い方がいい。
所詮、浮世は夢の世界ともいえそうですから。
自分達のフォトアルバムを作るにあたっては、どのようなのを作りたいか考えたのですが、
支度、 朝まだみんなが寝ている頃から、起きてきて、あそんで着物に着替えていくようすまで
いざ、 着付けがおわり、手をとりあって家から神社にむかい、そこでお祈りするところまで
日常へ 着物を脱ぎ、日常の風景にもどっていくまで、
の3章だてにしました。
そして、それぞれの扉と、プレルード(まえがきのようなもの)、エピローグ(あとがきのようなもの、でもちょっとニュアンスがちがうのだけど)にエッセイを入れてもらいました。
文章は、このアルバム用に書き下ろしたり、
過去このブログでも書いた記事を手直ししたものになりました。
プレルード

"A rose blooms because it blooms, it is without why"
by Anglus Silesius
花は 花であるから咲いていて、それ自体が "花” という存在の証だ。
花は人に”美しい”と言われるために咲くのではなく、花だから咲いている。
とりつくろったり、誰かを喜ばすために咲いているのではない。
それなのに、私たちは、その自然体に感動する。
種が芽吹き、葉をつけ、花をさかせ、枯れ、実がなり、すべてが朽ち果て無になっていく、そのすべての過程に、美しさを見出す。
楽しみながら、味わいながら、常に変わりゆく自分をなぞっていく過程、それが生きること。
自分らしくあるために理屈はいらない。
ありのままの存在の中に、人としての究極の美しさがある。
by totoatsuko
| 2011-12-06 09:48
|
Comments(0)