二度手間だけど、習慣づけのために
という記事をかきました。
なんにちかその様子をみていると、
シチューの日は、相当ベトベトが残っていて、はぁ~~~ とため息まじりに洗いなおし。
子どもに洗うのをお願いして、横で何か別の家事業務をしながら、よりそって、
それで、後から洗われたものを一応綺麗になっているかみてみる
残っていたら、もう一度洗う。
子どもに家事をやってもらう、手伝ってもらうのは、ほんとうに手間がかかります。
自分で、ちゃちゃっとやっちゃったほうが、どれだけ手間が省けるか!
学生やインターン生をみるのと似ていますが、彼らとの関係は仕事だから、お互いが、その関係の目的を認識していて割り切っているところがあるし、成長も目に見えやすいですよね。
こどもはそうはいかない。
お洗濯ものをたたんでもらうのも、
お母さん基準の「ちゃんと」たたまれていないものは、やり直したくなる。
乱雑にたたまれたのを見て、なんだか気持ちが あ”~~ となったりもする。
でも、むげに 不満顔でやり直して、やる気をそぐようなことは、
頑張ってやった子どもの前ではやりたくない。
だから、子どもに手伝わせるのはいい、と育児書に書いていても
実際のところムリ! とおもっているお母さんは多いと思う。
家事って、同時進行でやってることが多い。
洗濯機を回しながら、湯船をあらって、お湯をためて、お皿をあらって、お湯を溢れないうちに止めて、横でビービーないたり、何かを欲求してくる子どもの相手をして・・・
そんな状況で、こどもに慣れない家事を「教え」「監督し」「許し」「見守る」 心の余裕をもちましょう、
というのは、いろんなものをそぎ落としたり、あきらめたりしない限り、なかなか難しいと思います。
それでも、ちゃんとお母さん基準でできなくても、
二度手間で、ほんとうに 自分の負担が重くなるだけでも、
私はやっぱり 幼いころから家事参加させたい。
今は上手に出来ないかもしれない。
でも、それは経験をつめば必ず出来るようになる。
でも、家事は女性がやるもの、お母さんがやるもの、 という概念は
成長してからはなかなか覆すことができない、
人としての土台がつくられるこの幼児期、少年期だからこそ、
子どもにとって違和感なくはいっていくのではないかと思います。
家族のひとりひとりが、家事や料理や片づけをすることがあたりまえ
という概念を身につけられることは、今 だけでなく
将来、彼らがもう少しおおきくなって家事のスキルを上達させてくれたら、
きっと、いま頑張って教えた分私は助けてもらえるだろうし、
彼らが親から離れた後や、自分の家族をもったときには、自分たちのパートナーや家族のために
自然に動ける価値観、という宝になると思います。
そして、すぐ店屋物に走らず、自分で自分のご飯を楽しみながらつくれて、そういうごはんがおいしいと思えて、当たり前に思って、自分の身の回りの準備や片づけを出来る、ということも。
今は私の負担が大きくなる時もあるのだけど、
そんな、長期的な視点から子どもの家事参加を奨励していきたいとおもいます。
長期的な視点といえば、食のスタイルも同じだな、と思います。
例えば、子どもがアトピーになって、夜中もかゆくて目がさめちゃう、皮膚がずるずるになっているのを見たら、母親的には、なんとかしてあげたい、と思う。ほんとうに ほんとうに代わって苦しんであげたいくらい。
そうなってから、薬物療法や、漢方や、食事療法など いろいろ探して実践して、
「本質的に治すためにいままでの食生活を変えようとしてみる」のは、ほんとうに大変。
まわりとの摩擦だって、おおきくなる。
薬物療法は、根本的には何の解決しないし、
薬物が内臓にたまると他の疾患も併発していくのは承知の事実。
それが分かっていても、手軽さで、一時しのぎの積み重ねをつづけるしかないという選択もある。
「アトピーだから、何かの疾患を持っているから、あるスポーツはあきらめなくてはならない、
とか 行動範囲が制限される」 というのは、ほんとうに残念。
それは、なかなか なってみてからじゃないと実感できないものだけど。
今の私の食生活 - というか、環境や地球 との関係が、
直接子どもの状態に反映されなくても、子どものこども、
そのもっと先の世代の体質や環境の状態に影響していくのだ、とおもっています。
自分が食べたこと、やったことは、一代限りではない。
次世代の子どもたちとその人たちが生きる地球に無関心で、どうなってもいい
というスタンスでは生きられない。
これまで地球をまもってきてくれた先代の人々に感謝しながら
自分が生かされている、という事実の上で
自分らしく楽しんでいく、時代や世代をつなげていく生き方を編んでいきたいとおもっています。