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どこまでが主観で、どこが客観なのか

音楽療法士となるべく現場でトレーニングを受けているとき、
大学院で授業をうけているとき、

どこまでが私自身の主観的なとらえ方で
どこまでが、より客観的な事実なのか

という視点を体得していく機会をあたえられ、目からうろこだった。

それまで、
誰かに対して、誰かの言動にたいして、
物事の現象にたいして、
自分と誰かの関係性に対して
e.t.c


自分が感じていること、自分の中でうまれた見解は、主観なのか客観なのか
なんて、よくよく立ち止まって考えることなんかなかった。

考え始めると、自分がこれは客観的な事実だ
例えば、ほんとうに例えばだけども
「かえるの歌」が簡単なうた というのは客観的な事実だと思っていたが、
立ち止まって考えれば、それは やはり 私の主観でしかない、ということがわかる。

簡単である - 何を基準にして私はそのようにこの歌を評価したのか?
音階が単純だから? 歌が短いから?


同じように、パッと見、セッション中に「相手はうれしがっている」 と相手の笑顔をみて思う私のインプレッションも、私の主観でしかないことが分かる。
ひとつ笑顔をとっても、その人の心の中のどの部分がどのように笑顔として出てきているのか
という細やかな内面をスルーしてしまっている。

完全なる客観的事実、というのは存在しないようにも思えた。
限りなく客観に近いかもしれないが、決して述べる人、受け止める人の主観を拭い去ることはできない。


そうきづいたら、セッション中、もっと相手の言葉に、言葉にならないメッセージに耳をかたむけよう、
と思うし、自分の主観的な印象も、自分の主観としてより大事にしつつ、同時に客観性へ意識を常に払う。

客観に近くなればなるほど、リアルな感情反応・生身なものからは遠ざかる。
でも、生きること、というのは 生身なことだから、客観的に物事をとらえようとしているばかりでは、
生身の人生を生きることができないような気がするし、あいての生身と触れることが難しいように思う。

性格判断、性格分析、とか、心理テスト、とかの資料をざーっと見ていて、
一人の人間が、どのタイプか分類され、詳細に行動や感情反応のパターンが文章化されているのをよみながら、何故この人のリアルな人間像がおもい浮かべられないのだろう、と思いをめぐらしていたら、
一時期、そうとう現場で叩き込まれた主観・客観のテーマを思い出したのでした。

行動認知療法でも、
他者の自分への反応に対して間違った認識(主観)をしていることを本人に気づかせ、
うつやパニックなどを引き起こすネガティブ思考回路・思考パターンを変えていく、
というようなことも行われる。

音楽心理療法のグループセッションで絵をかいたり、音楽を即興し、その体験を仲間と振り返るとき、
あの人はこういう意図でこれを書いたのではないか、あのような音を返してきたのではないか、
そうにちがいない、

と、自分のなかの主観に基づいて、
いかに日々の自分の行動が結構無意識に左右されているかということに気づいたり、
主観を自分の中に、無意識のままにしておくだけでなく、実際相手とコミュニケーションを深めて、
自分のオートマティックに反応した感情・印象・判断は、本当に相手が意図したものと合致しているか確認するステップがあることを自ら気づくことで、自分を苦しめていたり、悩ましている行動パターンや思考パターンが変わっていく。


どこまでが主観で どこまでが客観なのか。
それは 決して割り切れるものではないけれど、
自分を無意識に操られないための、本当の相手と出会うための、
大事な視点の一つだと思う。


音と色のカウンセリングHP

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by totoatsuko | 2011-02-15 01:07 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


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