ぼろ布をまとって不幸そうに生きる

何か目立ったこと
人と違うこと
慣習とは違うこと
それは、水に石を投げ波紋を起こす。
石を投げる、ということは
素敵な化学反応が起きて、もっと もっと 色んな新しい事、
楽しいこと 発展の変化の可能性のあることを産んだり、つながっていったりできる。。
でも、妬みや嫉妬、
変化への強い抵抗と戦いだって 生む。
ステキな人と触れ合った時
あこがれ、や 感動 という自分の情動が喚起されて、
自分がもっとステキになれる、もっと人生をたのしめるインスピレーションにすることができる。
一方で、
きっとそんなものにお金を使って無駄遣い! とか
きっと自分の功績をみせびらかしたくて、あんな振る舞いをしてる、むかつく とか
自分の中の 嫉妬 というよりは、もっと奥深い ジェラス が、
自分が持ってないものを、当たり前のようにまとっていたり、こなしていたり、ふるまっているのをみることで刺激され、
自分とは違うその人を攻撃したり、
否定したり、
引きづり落としたくなったり、
抹殺したくなる心理がある。
あの人のせいで、自分は迷惑こうむってる。
あの人のせいで、自分の仕事が増えてる。
あの人のために、自分は我慢してる。
意識化されていない、悲しい自分のジェラスが、
その負の情念が、
卑劣ないじめや、いじわる、暴行や暴言につながることがある。
「持ってる服の中で一番ボロイ服を来て、不幸そうな表情をして町を歩いたら、誰にもねたまれないよ。
もしかしたら、親切にされるかもしれない」
そういうアドバイスをきいたことがある。
たぶん、正しい。
みすぼらしく、下出に出た態度は
相手に優越感を喚起はするが、ねたまれはしない。
でも、私は思う。
自分を偽って、、、というか、偽ってはいないのかもしれないけど、
まぁ、 その 素 の自分を ぼろ布で覆えば、攻撃は減るかもしれないけれど
素の自分で 思いつく沢山のアイデアや、おいしいご飯や、ステキな生き生きとした時間、楽しい気持ちをそのまま表情にだすことで、沢山の人に幸せが分けてあげられて、沢山の人と一緒に幸せを分かち合える人生のほうが、私はいいな、と思う。
幸せそうにしていること、周りとは違うこと、新しいとみなされる事を試みることが、
例え、ひどい誹謗中傷をうけようとも。
ぼろ布をまとって、真の自分を出さずにいきていたら、
あるいは、周りに気に入るような服をきて、気に入るような行動を求めてやっていたら、
真の自分と心からつながれる友達なんてできない。
でも、キラキラするものを惜しみなく自分の歩く後ろに落としながら、
温かいものを体からオーラのように発しながら生きていたら、
その石が綺麗、と思ってくれる人
そのオーラがここちよい暖かさ、と感じる人 とつながれて
誹謗中傷やひどい攻撃をうけたって、崩れ落ちずに、でも変に攻撃的にならずに
大地にきっちり足をふんばって、乗り越えていけることができる。
そして、受けた傷は、きっと仲間の支えの中で、どんどんキラキラしたものに変えていけるはず。
(キラキラしたものって、特別なものだけである必要ではなくて、
ただその人がその人であるだけで、、、誠実さとか熱意とか、光に反射するものだと思っています。
まがいもののキラキラ もあるけれど・・・)
たぶん、そんな気持ちのスタンスの人だったら、
そんなにステキなものをいっぱい持っている人だったら、
たとえぼろ布をまとったって、そのぼろ布を輝かせることができる、
というか、そんな表面にまとったボロ布では隠し切れない・消し切れない
目には見えない、
でも心の目には見える、
強くて厚みがあってしっかりした輝きを、ボロ布を通り越して放ってしまうような気がする。
音楽と色を使ったカウンセリング・ホームページ
by totoatsuko
| 2011-01-20 12:05
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