能は 演劇ではない
初めて 「狂言&能」 (これが常にセットで上演される)に行ってきました。
少し前に、子供も一緒にいける ファミリー狂言、 というのに行ったので、そこで初心者に分かりやすく色々説明していただいたのですが、そのときのベースがあったにもかかわらず、かなりのカルチャーショックでした。
私が比較的親しんでいる歌舞伎や文楽は、音楽や衣装なども舞台に大きな意味合いを加えているので、ついそれと比較してみていましたが、狂言は、音楽もなく、役柄にあわせた衣装にこだわりがある風でもなく
喋りですべてが進行していく。
狂言は基本的に面白い話、で笑えるはずなのですが、
現代のドラマや舞台の役柄と比べたら、たんたん と ”可笑しい話”がすすめられている。
これは何なんだろう、、、 と考えていて、ふと、ああ これが日本の漫才の原始的な形なのか、と思いました。
それから、能。
その日の演目のすじがきを読むと、例えばあるシーン、
老人が位違いのお姫様に恋をし、届かぬ思いの果てに次第に狂っていき、最後は鬼となり、川にみをなげる
とある
しかし、老人は微動だにしない。
めったに2歩以上動かない。
川に身をなげてるはずのシーンでも、とくに大きな動きはなくて、そのまま終演
しずしず舞台から去っていく。
あまりに衝撃的体験だったので、
帰りの電車で、一緒に行った友人と、これは一体何なのか、
何をどう楽しむものなのか、
気持ちを全くと言っていいほど表現しない舞台は何なのか、
と談義にもりあがっていたら
それをがきいた同じ舞台をみた方が声をかけてくださり、
私たちは色々と質問を投げかけることができ すこしモヤモヤが晴れました。
もっとも印象深かったその人の一言は、「能は演劇ではない」 でした。
そうか! 感情を、いかに表現するか ではなくて
みている人たちの想像? 共感? をかきたてるような おさえた表現がいかにできるか、
ということなのだ、と知ったら、何かがすとんと落ちてきました。
感情を抑える、感情を(欧米に比べて)見せない、というのは、なにも能だけではなく、
日本の文化で、長い間 それが美徳とされてきたし
(それが近年の鬱や摂食障害など社会的な原因の一つにもなっているとは思いますが)、
そういう中で 能 というものが生まれ 芸術に高められたのだなぁ、と思いました。
例えば、私が 叶わぬ恋に狂い怒りの絶頂にいるあの老人になりきって、
あの微動だにしない、わずかに たまに動く老人をみたら、
そう想像してみたら、
自分が持っている、普遍的な深い怒り を
私が、今この場で 老人の演技をみながら、老人になりきることで、
ふつふつとした怒りを、自分のリアルな怒りとして、そして老人の怒りとして
同時に ”実感” できます。
演じられている 怒りを ”鑑賞” するだけではなく、
その演技力に感嘆するだけなく、
その人物になりきって 能をライブでみながら
同時に自分の心のふかーいところに、感情の起伏を自体を起こし、味わう。
”鑑賞”する というスタンスでは 能は楽しめないような気がしました。
役がもっている”感情”に、入りこんで、入り込んで、はいりこまないと。
でも、それをやれるようになったら、ブラックホールのように能にのめりこんでしまいそう。
抽象的であるがゆえに、いかようにもその中に渦巻く”感情自体”になりきって、
深い深い 感情体験をすることができる。
そんな感じで、分からないことだらけのなかで、なんとなく感じた 初めてちゃんと鑑賞?した狂言&能。
これから、もう少し自分の中で噛み砕いていく
体験の消化プロセスをたのしみたいと思っています。
P.S これを書きおえて、能が生まれた室町時代のことや、流派などのことを調べていたら、いろんなことが分かってきたのですが、あえて書き足さず、無知で感じた能のフレッシュな感想、として、あえて
そのまま掲載します。
少し前に、子供も一緒にいける ファミリー狂言、 というのに行ったので、そこで初心者に分かりやすく色々説明していただいたのですが、そのときのベースがあったにもかかわらず、かなりのカルチャーショックでした。
私が比較的親しんでいる歌舞伎や文楽は、音楽や衣装なども舞台に大きな意味合いを加えているので、ついそれと比較してみていましたが、狂言は、音楽もなく、役柄にあわせた衣装にこだわりがある風でもなく
喋りですべてが進行していく。
狂言は基本的に面白い話、で笑えるはずなのですが、
現代のドラマや舞台の役柄と比べたら、たんたん と ”可笑しい話”がすすめられている。
これは何なんだろう、、、 と考えていて、ふと、ああ これが日本の漫才の原始的な形なのか、と思いました。
それから、能。
その日の演目のすじがきを読むと、例えばあるシーン、
老人が位違いのお姫様に恋をし、届かぬ思いの果てに次第に狂っていき、最後は鬼となり、川にみをなげる
とある
しかし、老人は微動だにしない。
めったに2歩以上動かない。
川に身をなげてるはずのシーンでも、とくに大きな動きはなくて、そのまま終演
しずしず舞台から去っていく。
あまりに衝撃的体験だったので、
帰りの電車で、一緒に行った友人と、これは一体何なのか、
何をどう楽しむものなのか、
気持ちを全くと言っていいほど表現しない舞台は何なのか、
と談義にもりあがっていたら
それをがきいた同じ舞台をみた方が声をかけてくださり、
私たちは色々と質問を投げかけることができ すこしモヤモヤが晴れました。
もっとも印象深かったその人の一言は、「能は演劇ではない」 でした。
そうか! 感情を、いかに表現するか ではなくて
みている人たちの想像? 共感? をかきたてるような おさえた表現がいかにできるか、
ということなのだ、と知ったら、何かがすとんと落ちてきました。
感情を抑える、感情を(欧米に比べて)見せない、というのは、なにも能だけではなく、
日本の文化で、長い間 それが美徳とされてきたし
(それが近年の鬱や摂食障害など社会的な原因の一つにもなっているとは思いますが)、
そういう中で 能 というものが生まれ 芸術に高められたのだなぁ、と思いました。
例えば、私が 叶わぬ恋に狂い怒りの絶頂にいるあの老人になりきって、
あの微動だにしない、わずかに たまに動く老人をみたら、
そう想像してみたら、
自分が持っている、普遍的な深い怒り を
私が、今この場で 老人の演技をみながら、老人になりきることで、
ふつふつとした怒りを、自分のリアルな怒りとして、そして老人の怒りとして
同時に ”実感” できます。
演じられている 怒りを ”鑑賞” するだけではなく、
その演技力に感嘆するだけなく、
その人物になりきって 能をライブでみながら
同時に自分の心のふかーいところに、感情の起伏を自体を起こし、味わう。
”鑑賞”する というスタンスでは 能は楽しめないような気がしました。
役がもっている”感情”に、入りこんで、入り込んで、はいりこまないと。
でも、それをやれるようになったら、ブラックホールのように能にのめりこんでしまいそう。
抽象的であるがゆえに、いかようにもその中に渦巻く”感情自体”になりきって、
深い深い 感情体験をすることができる。
そんな感じで、分からないことだらけのなかで、なんとなく感じた 初めてちゃんと鑑賞?した狂言&能。
これから、もう少し自分の中で噛み砕いていく
体験の消化プロセスをたのしみたいと思っています。
P.S これを書きおえて、能が生まれた室町時代のことや、流派などのことを調べていたら、いろんなことが分かってきたのですが、あえて書き足さず、無知で感じた能のフレッシュな感想、として、あえて
そのまま掲載します。
by totoatsuko
| 2010-11-08 10:30
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