成長過程は逆説を内包する
彼の言葉。
「一人でいられる能力の基盤は逆説である。
誰か他の人と一緒にいるときにも、
‘一人でいる‘ to be alone
という体験が
一人でいられる能力なのである」
ーこのセンテンスには、
関係の中にあるとき、
誰かとともにありつつ自分一人でもある、という
心理的なパラドックスが潜在しています。
誰かとともにいるとき、
自分がその人との関係の中で失われるのではなく、
またその人と一体となるのでもなく、
自分自身のSelfを感じながら、
その人との関係を‘主体的‘に生きる、楽しむ、発展させる、というスタンス。
誰かと一緒にいるとき、
誰かと一緒にいる自分と、自分ひとりである、
という相反する感覚を内包することにより
より深くその人間関係にかかわれるのだ。
誰かと一緒にいるとき「自分」を感じるというのは、
一体感を感じられなくて、疎外感を感じるのではないか、という人がいるかもしれない。
そういう場合もあるかもしれない、受動的でもあり主体でもある矛盾を含んだ自分の関わり方を相手が受け入れられなかったら。あるいは、‘自分ひとり‘という感覚が強すぎて、相手とのつながりを自分が見出せなかったら。
しかし、可能なのだ、自分一人という感覚を持ちながらにして、その関係でとても強い一体感を感じることは。
個をはっきりさせない日本文化では、個を殺してこそ一体感が得られる、という考えが強いような気がする。
関係の中で、自分と相手の境界線がぼやけて交じり合っている状態だ。
一方で、自分自身、という感覚をも併せ持ってかかわると、今まで体験したことがないような、相手との一体感を感じることも出来るだろう。。
セラピストとクライアントがお互いに一人でありつつ二人でいる、というのは、必須だ。
少なくとも、セラピストはそういうスタンスでいないと、クライアントにいとも簡単に引き込まれてしまい、クライアントのプロセスを阻害してしまうことになる。
滝川一廣氏は「家庭のなかの子ども、学校のなかのこども」 でこう語っている。
成長、成熟の過程を「運命の無垢な犠牲者・被害者」という受動的で他律的な位相をどこかで脱して、
その運命をみずから生きる主体としての位相へ抜け出すような、ひそかな転換」の過程ととらえ、
さらに、この変換の過程には「だれかの存在が必要」である一方、
「心の中でなにかかくみかわっていく」
その経験そのものは、一人のもの、自分のうちでひそかに経験していくしかないものである。
この指摘は、Winnicottの「一人でいる」ということに繋がる。
親子関係でも、セラピスト・クライアント関係でも、成長過程における対人関係でも、
「誰かとともにありつつ一人である」
「自由であると同時に保護された関係」
が必要なのだ。
先の投稿でも述べたとおり、セラピーは問題の答えを出すのが目的ではない。
少なくとも、私のセラピースタイルではない。
生きていれば、問題は、問いは常にあがってくる。
矛盾は、生きていること自体に内在する基本的な性質だ。
ー生命は保っていても、ミクロのレベルでは細胞は死に続けている。
大人になっても、子ども的な自分は存在する。
それゆえ、矛盾は解消されるべきもと、というよりは、
いかに向かい合い引き受けるか、というもの。
一人では大変すぎて引き受けられない、あるいは自分の身体・精神状態のバランスを破壊することもできる「葛藤の育成」「葛藤の保持」のプロセス。セラピーではクライアントが葛藤や、その中に隠されている闇・シャドウに飲み込まれず保持するサポートをプロフェッショナルに行うことで、クライアントの心理プロセスを、成熟を、ユングの言うindividuationを促す。
逆説や矛盾と向かい合い、それぞれのパーツの居場所を自分の中でちゃんと作れる心の状態になるには、相当の葛藤を通り越さねばならない。本当に言葉では語りつくせないほど大変な作業だが、それを乗り越えて逆説を内包し共存していく努力を重ねていく、というのは豊かにいきていくために必須なプロセスだと思う。