操る楽しみ、作る楽しみ
どんどん便利になった。
ゼロから自分の手をつかって創作しなくても、
とりあえず出来上がった面白そうなものがあふれてる。
創る楽しみよりも、
操作する楽しみ、が多くなってきた気がする。
ゼロから創作するなんてめんどくさいことは出来るだけ省いて
効率よくやりたい心理。
でも、人生において、操作しているうちは、
ゲーム感覚で生きてるうちは
決して生身を生きれない.
決して生身の生き生きとした感情体験を味わうことができない。
ゲームをやるように、ゲームの世界の外から操作しているような生き方。
ヤバくなったら、リセットボタン。
それに慣れたら、いちいち感情なんか感じて、一喜一憂するのがめんどくさくなる。
感情を感じる、というのはときとしてとても大変なことだから。
今のキャラがきにいらなくなったら、
出来上がってる提示されてるキャラから選らんで何度でもチェンジ。
過去にあまりにも辛い体験をした人は、そうでしか自分を心理的に守りながら社会生活を送ることが出来なくなる場合もある。でも、時間はかかるけどセラピーのプロセスを通して自分の過去やまだうずく傷をみつめることによって、人生を自分のものとして、生きれるようになっていくのは見たことがある。
あまりにも辛い体験をすると飽和状態になり、もう自分の中でそれ以上の攻撃や刺激を受け止めることができなくなって、生きることをやめて、映画をみるようにゲームをするように、自分の人生を見る。ヤバそうな画面になったら、リセットボタンか、画面を変えるか、プレーヤーを変えるか、シールドをはって感覚をミュートにする。
人生は、操作するものでなく、創るもの、生きながら創ってゆくもの、
生身で生きることは大変なことだ。
ゲームと違って、殺されたら、生き返られない。
でも、やっぱり一度しかない今回の私の命に与えられた人生、
操作じゃなく創作していきたい
私はそう思う。
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そうそう、子育ても
何となくその親が主観的にイメージしている”いい子に育てよう”とするために、
親が習い事をつめこんだり、いろんな試みを必死にやって、という現象をきくと、
子どもの成長スピードや内容を操作しているような感覚を持つことがある。
親はただ必死で、子どものために一生懸命で、
操作する、という自覚はこれっぽっちもない場合が多いのだが、
親の「自分の人生を自分で作っている感」が薄かったりしたら、
無意識のうちに、子どもにとっては「神」的な存在である親の立場を、これもまた無意識にだが利用して、子どもを操ることで、自分のニーズを満たしている、というメカニズムも起こっている。
子どもが思春期になって、子どもが心理バランスを崩したり、家族内で問題が持ち上がったとき
「あんなことはやって欲しくなかった。」
「あんなに一生懸命お金も時間もエネルギーも尽くしてあげたのに」
という認識の差異は、よくきく話だ。
子どもの成長は、操作しようとするのではなく、
できるだけその個が自発的に向かう方向に伸びていくのを見守ることが出来たら、
どの方向に伸びていっても、批判的にならず、過剰な助けを出さないようにしたい、
と自戒もこめて、ここに記す。