牛にひかれて善光寺参り
欲深い老婆が、ある日隣の牛が自分の干していたさらしを角にひっかけて善光寺にかけこんだのを、必死に追いかけたところ、善光寺の霊場にいきつき、その後は、後生を願い信仰心を新たにした。
というのがざっくりなストーリー。
自分の故意ではない、何かにみちびかれていくことにより、よい方向に物事が開ける、という意味合いで使われるフレーズ、牛にひかれて善光寺参り
音楽心理療法のプロセスでは、そんな心境になることがある。
何度かセッションをかさねてきても、全然心が晴れない、悩みの解決の糸口はみえないように感じられ、焦燥感や無力感を感じるのだが、今自分を苦しめているものごと(逸話の場合は、自分のさらしを奪って逃げる牛とそれを息を切らしながら必死で追いかける苦しい自分)にどうにかよりそっていると、ふっと開けることがある。
牛を追いかけているお婆さんには、牛に追いついたり、さらしを取り戻せるかどうか、どれだけ走ったらいいのか、何の確証もない。でも、自分の欲深さから始まったこの苦しい追跡の行為をただひたすら続ける。多分、走っている途中で、もうさらしのことなんか、どうでもよくなってただろうし、さらしのことを考える余裕もないくらい息が上がって苦しかったはず。
そして、ふっと霊的な場にいきつき、これまでの生き方から全く違う生き方、ものごとの捕らえ方をする方向に、老年ながら、人生観がかわる。
人生、生きているのに辛くなったとき、このストーリーは、その辛さを生き抜くのを励ましてくれる。
そう、ストーリーの存在、というのは私たちが迷ったとき、心の支えになってくれたり、ヒントを与えてくれる。
前人未到の道を開拓するのはとてもとても大変なことだ。
人が生きたことがない人生を送るのは、大変なことだ。
でも、私たちはどこかで自分の境遇と似通ったストーリーを、親や知人の人生のストーリーに、神話に、歴史に見出すことが出来、人類の、あるいは個人的な過去の過ちを繰り返さない選択をするためのサポートしてくれる。それでも人類は、過ちをくりかえしてはいるが・・・
自分ひとりの痛みと考えたら孤独でも、具体的な歴史上の人物や物語の登場人物の苦悩を見出し、その苦しみがresolveされていくのを読めば、暗闇に耐え、いつか前にすすみ開けた場所に行き着くを信じ続けることが出来る可能性は残されている。