神様のお告げなら文句いいません
マクロビだからこれとあれと etcは私食べないんだー、というと、
ふーん。
とそのまま受け止める反応ばかりで凄く気が楽だった。
興味ある人は、どうしてそういうものを食べないの?って聞いてくるし、
そうじゃない人は、そのまま流してくれる。
そこに批判的な感情がなくって、ただ、篤子はそうなのね、という感じですっごい楽だった。
ちょっと位、あるいは、たまになんだから砂糖食べたっていいじゃん、
という、私が日本でよく経験する量とか頻度のせめぎ合いが会話の中で起こらなくて
私はこうなんです
といったら
そうなんですか ・まる
とそのままを受け止め尊重してもらえるのが嬉しいし楽だった。
無理なく自然体でいることができた。
宗教だったら、例えば
私はOO教です、という人に、
今日くらいお祈りお休みしようよ、とか
宗教上の理由で食べない、と言っている人に
出汁はお肉の骨でとってますけど、肉片は入ってないからいいですよね?
というようなdetail(細かい要素)の交渉は、ものすごくナンセンスだというのは異教徒が共存する国では常識。
ベジタリアンやマクロビの人がホームパーティーに来る、というと、一体何を出したらいいか分からない、何でパーティーの時くらい「普通の」(普通って?)の料理食べればいいじゃない。なんで譲れないの?と思うホストもいるかもしれないけれど、それは一重に違う食のスタイルの人が交わる - ひいては、違う文化バックグラウンド、生活・思考スタイルの人が一同にあつまったり、一緒に共同作業をする、ということに多くの人は慣れていないからなのかもしれない。
でも、ただ慣れの問題だけだとも思えない。
神・というオーソリティー、権威の言うことなら何の疑問も呈さず、
むしろ権威の決めたことにつべこべ言う、という行為に引け目を感じる、権威にたてつく事はいけない、と教えられてきた、という理由で
「宗教上の理由でーはしない。-をする。-は食べない。」 という人に対しては何も言わないのかもしれない。
でも、神じゃなくって、自分と対等な相手の個人のポリシーだと、自分が考える常識と違うものに対して、「違う」というだけで何かいじりたくなったり、批判したくなったり、少しでも自分と同じに近づけようとしたくなってしまうのかもしれない。
自分のポリシーを尊重するより、和を尊重するほうが断然大事でしょ、って。
でもね、自分の人生の神みたいな役割は、自分自身でもあると思うのです。
譲れないもの。 それは誰でも持っていると思うのです。そして、それを大事にするのは非難されるべきだとは思えないのです。
神が与えてくれるような、大局的な視点や導き、心の支え、スピリチュアルな祈り
それは、音楽療法・音楽心理療法・GIMなどのプロセスを経験したら自分自身の中にも存在することに気づくこともあります。
自分のそれに気づいたらなお一層、相手の譲れないものを尊重することの大事さをより重く感じるのかもしれません。