新年に参加した New Year Tea Ceremony (Western style) にて。
20人くらいが話になって座り、ティーセレモニーの全てが無言の中進んでいく。
聞こえるのは、風、波、鳥の声と、遠くからの人声。
約1時間半ほどの行いが終わり、
マイクが回され、
著名なビジネススクールの名前がかいてあるフーディーを着た人が質問をした。
とても美しいセレモニーでした。インストラクションも明確だったし、素晴らしかったです。どうもありがとうございます。ところで、私は、このサイレンスの中、何を体験すべきだったのでしょう?何を体験して欲しいと思っていたのですか?
この人は自分の感情や感覚を感じ観察する代わりに、
この時間ずっとそう自分に問いながらこの時間を過ごしたのだな、と思った。
ガイド(この場合、自分より上の立場の人)が自分に求めているものは何なのか?
正しい?あるいはそうあるべき?体験の仕方は何なのか?
それが分かれば、自分がそれを感じるように自分を持っていけるのに。
あたかも、そんなふうに思っているようだった。
この人はガイドに過去の人間関係の誰を投影し、自分の立場を無意識にどう設定していたのだろうか?
従わないと機嫌が悪くなる父?母?兄弟?先生?上司?
ガイドが自分がどういうふうに体験するかを定義づける役割だ、という期待はどこからきていたのだろうか?
その人は、又、不意に何らかの美しさに”感動しながら”
その意識されていない感動が、ガイドの仕草の写真を撮る、という行動を起こさせていた。
その行為がグループダイナミックスにノイズをうんでいたことにはもちろん気づいていないようだ。
ガイドは、セレモニーを始める前に
自分の体がどう感じているか、周りの音や風をどう感じているか、自分自身に注意を払ってみて
と言っていたのだが、無意識に投影しているものが先立ち、この人にはわかりにくかったのかもしれない。
自分がどう感じているか、感じ方を知らなかったのかもしれないし
自分が感じてる事が、正しいのか間違ってるのか、自分自身で無意識にJudgeしようとしていたのかもしれないし
何を感じてもいい、というコンセプト自体がよくわからなかったのかもしれない。
答えや正解がないことが不安だったのかもしれない。
本当のところは、わからないけれど。
別の私の隣に座っていた人は、つまらなそうで、足を組み替えたり、そわそわして、器をPass onしているときに、目で何かを訴えてきていた。
いつ終わるのかしら、この単純作業の繰り返し、という声が聞こえてきそうな感じ。
今自分がこの瞬間 この瞬間 何を感じてるか というスタンス
- 例えばお茶の香りをどう感じてるか?香りがどんなふうに体の中に入っていっているか?喉元を通るお茶に体がどう反応しているか?器の形に自分の手や指がどのように触れて、温度や手触りをどう感じているか、お茶を淹れる音と自然の音の交わりがどんな風に聞こえてくるか、等々
自分の外で発生する言葉やダイナミックな動きを介した交流もなく
正解やタスクの指示もない けれど それを探し続けモヤモヤし続ける
それは自分の感性から自分を解離させ、その場からも乖離させる。
Judgeしないで、答えを見つけようとしないで、ただそこにいる 自分自身を感じる というありよう
そういうことは 学校で教えてくれないかもしれない
目的に向かって成果を出す職場 では求められることは少ないかもしれない。
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