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苦楽しい(くるたのしい)

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日本にユング派心理療法を確立させた河合隼雄氏の一般向けに書かれた本は、平坦な言葉で心理学の知識がなくてもさらっと読めると同時に、内容がちゃんとあります。何冊か持っている彼の本を、最近ぱらぱらと読み返しています。

父親の力、母親の力 (2009)講談社 の中で、
河合氏は、家族の一員として家族との日々をつくっていく時、「苦労するからすばらしい」という事を書いていて、作家の遠藤周作氏が対談したときに言われた「小説を書くのは苦楽しい」という言葉を引用しています。
”ほんとうに楽しいことを突き詰めていったら、必ず苦しみがつきまとうものです” と。

パートナーも、子どもも、親も、家族だけど、別の人格ですから自分の思い通りにはなりません。
(勘違いしてる人もいっぱいしますけど・・・)
他人が自分の思い通りに動かなくても、
まぁ他人だからしょうがない、と思うか、
関係を終わらせればすむことですが、

家族、特に、こども、となると、一時的に腹を立てて関係を切りたくなっても、なかなか、すぱっと切れるものではありません。
自分の所有物じゃない、と頭でわかっていても、感情的にはもどかしく心がかき乱されることもある。

だから、苦労する。

親も、子どもも、色々お互いぶつかりながら、
自分達の家族の歴史を作りながら、自分自身の人生も作っていっていかなくてはならない。

家族がぶつかる事を避けて避け続けて生きていったら、
必ずそのひずみは出てくる、虐待とか、積もり積もった怒りからくる暴力とか、反抗とか、、、様々な形で、
場合によっては取り返しがつかないような形で。

結婚したら、子どもが生まれたら、、、~したら幸せになれる、ってことはなくて、
むしろ、自分自身だって、自分の思い通りにならない事が沢山あり、心理的内的な葛藤を抱えているのに
自分以外にも関係を築いていく必要がある人が増える事は、さらなる苦労が増えると思います。

バラ色の幸せなんて、バラ色だけしかない幸せなんて、本当は存在しない。
そう夢みたい気持ちは持っていてもいいし、その夢想を楽しむのも自由だけれど。

悩んで試行錯誤して時にぶつかってやっている中で、
苦労することでしか得られない様々な色合いの経験や、
かけがえのない時間を積み重ねて人生を描いていく、幸せ感を実感していくのだと思います。

ただ、今の時代、表面的に、一時的に苦労を避けようと思ったらいくらでも手段があります。
嫌なら誰とも関係を作らない、結婚しない選択もあるし、子どもを作らない選択もある。
子どもの相手をするのがめんどくさければ、シッターさんを雇ったり、部屋に放置したりすればいいし、
躾も勉強も外注しようと思えばできる。パートナーとも、会話をしなくてもやり過ごせる関係にしたり、別離を選べばいい。
一昔前の自分の属しているコミュニティーからの自分の言動への批判や圧力なども、あまり気にせず生きていける社会になってもきています。

家族であろうと、価値観も生き方も違って当然です。
同じ屋根の下に長くくらそうが、同じ文化の中で生きてこようが、人はそれぞれ違ってくる。違うから面白い。
家族なのに自分としては納得できない家族の事に触れ、自分の中に生まれる感情と向き合いながら、
それぞれの家族メンバーと ”対話を続ける” 
そのプロセスに、家族になっていくことへの意味があると思います。

これまで日本の文化は、あ うん の呼吸、という言わなくても理解できる関係、だったり
夫唱婦随 というものを美化してきました。

しかし、価値観も生き方も多様化している現代では、
一人ひとりが 意図的に”対話をして行こう” という意思を持って家族と対話をし
意見が一致しないところにステイしながら、そのテンションを生きる、
その苦しさを楽しむ というスタンスで 真剣に家族と向かい合っていけたらいいのではないか、
家族というのは、そういう物ではないか、と思うのです。(自分が向かい合いたくても、相手は自分と同じようには向かい合えないかもしれないので、またそこが苦しい所だったりするのだと思いますが・・・)

ー勿論、自分を虐待する相手だったり、自分が身体的、心理的に危険な状態にさらされる関係を生きる事の苦しさ、とは違う話です!
そんな苦しさは、楽しもうと努力するべきではありません!!!

大好きな事、自分にとって大事なものを育んでいく過程でかならず付随する ”苦楽しい” プロセスを生きる心のキャパシティーや強さや柔軟さを、
大人になっていく過程で、あるいは、大人になってその事に気づいたら、その時からでも遅くない、
身につけていくと、生きる事、家族を持つという事、に対しての見方が変わってくるのではないかと思います。



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by totoatsuko | 2015-01-31 18:36 | Comments(0)

平常心を保つために

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今年の目標、の話を聞いていて、”平常心を保つ” ”感情に左右されない” というのが出てきました。
周りの意見に流されたり、感情的になったりしないようになりたい、と。

その話を聞きながら私がイメージしたのは、

平常心を保つ、という目標に向かって努力しようとはしていても、
もし、自分の心の器、あるいはキャパシティーが、おちょこ 位の大きさで、
周りからの批判や圧力やプレッシャーが水道の蛇口をいっぱいいっぱいひねって出てくる量の水だったら、
どんなに”理性”で努力しても、おちょこ でその水を受け止める事ができないし、
瞬時にその水の勢いに倒され、流されてしまって当然だ、ということ。

同時に
もし、おちょこが流されていても、もし平常心をうしなった自分がいても
それを認めたくない、そういう自分を認められない、平常心のために努力している自分がいたら、
そんな自分を見ないようにして、
自分で自分を騙して、”自分は平常心を保っている” ってことにしてしまう事もあるでしょう、
無意識に、自分でも全く気付かずに、
だって、”努力している”んですから。

それが、とても怖いところ、哀しいところ。

もし、自分の心の器、あるいはキャパシティーが、湯船位の大きさで、
周りからの批判や圧力やプレッシャーが水道の蛇口をいっぱいいっぱいひねって出てくる量の水だったら、
なんの努力をしなくても、その水をしばらくの間 なんの努力もせずに受け止められるし、負担にもならないし、
水が勝手にあふれ出ていく事はあっても、湯船自体が、自分自身の心が翻弄される、という事もない。


鶏が先か卵が先か、という議論にはなりそうですが・・・
心がいい状態、成熟していたら、”努力しなくても” 自然と平常心が保たれるだろうし
逆を言えば、心の根本的なところ
ー 自分が回りに流されやすい、とか傷つけられやすい、とか腹を立てやすい、とか、そういう自分の傾向
が解決していなかったら、どんなに理性で努力しても、
本質的には”平常心”を経験できないのではないか、と思うのです。

理性と感情、どちらも大事な自分の一部ですが
自分の感情と向き合えなくて、感情の自分の言動への影響力を奪うために、
無意識に、気づかずに感情を感じないように、見ないようにしている人がいかに多い事か、
そして、それがどれだけ自分の生き方に影響を与えている事か・・・

平常心でいる、周りに左右されない自分 であるために、
自分の理性を強くして、感情を殺したり、律したりして、自分の中に矛盾を生む、
と同時に、その矛盾も無視できるほどの 表面的な強さを生む、という
悪循環を引き起こす自分の心へのアプローチではなく 

自分の感情と向かい合うことが出来る自分の心の器を育む事で
理性と感情のいい関係、いいバランスを生んで、
自然と 何があってもどっしり構えていられる自分に近づいていく、
というアプローチもある事を知ってもらえたら、と思います。

音楽心理療法士として、
その人が真に自然体で、平穏な心で、生きている事の幸せや価値を感じられる心のためのプロセスを進める機会を提供していきたいと思っています。


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by totoatsuko | 2015-01-26 22:51 | Comments(0)

クリスマスと正月が同居する日本 @TEDxKYOTO2014

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京都でのTED で 僧侶の松山大耕氏が表題のテーマについて語った内容が興味深いです。
http://logmi.jp/34073 (内容、日本語書き出し)
https://www.youtube.com/watch?v=8mAPA3YKC_A&feature=youtu.be&list=PLxSesK1iqg1CAKWi3vrQmg5YH8D7AYQMq (youtube: スピーチは日本語です)

折しも、フランスで風刺画雑誌のスタッフが、地元のスーパーに買い物に来ていた人達が殺害されました。
テロ行為だ、テロには負けない、表現の自由を、と声高らかに主張する人達
いや、それはちょっと違うんじゃないか、もっと社会にある根本的な問題、
どうしてこういう事を起こす人達が社会の中で育ってくるのか、という事に目を向けるべき、等
さまざまな意見が、様々な専門分野の人達から投げかけられています。

歴史を見てみれば、宗教が絡んだ戦争・殺し合いは繰り返されています。
何故、それがなくならないのか・・・

国同士の戦争と違い、テログループからのアタックは素人ながらにすごく複雑だと感じます。
国際社会に属している ”国” は、国際社会のルールを守る義務があるし、
そのルールに守られている部分もあるから
一つの国が、国外に向けて何かアクションを取るとき、
国際社会からのプレッシャーも大なり小なり感じるだろうし
コミュニケーションがうまくいかなくなったとき、仲介役の国や人材がいたりしますが、
テログループは、こういうコミュニティーに属していないので、
対話をするにはどうしていったらいいのだろう、と思います。

そんなことをモヤモヤ考えていたら、このyoutube に出会いました。

日本の仏教は、その戒律を守り経典を勉強し瞑想する、という事よりも、
先祖供養、普段の生活の中での礼節を敬う、という事をメインにしている、
とこのyoutubeでは僧侶の方が話されています。

確かに、そう言われればまさに、と個人的に思いました。

私の祖母は、毎日仏壇に向かって念仏を唱え、ご先祖様へお供え物をしていましたが、
経典のことは何も勉強してないし、戒律も詳しくは知らないし、
瞑想、というものがある、というのも知りませんでした。


”日本人の宗教観も、ある特定の宗教だけを特別視するのではなくて、全ての宗教に共通する倫理観もしくは哲学、こういったものを日本人は大事にしていると思います。ですから、日本人の宗教観というのはBelieve in somethingではなくて、Respect for something もしくはRespect for others、こういうスタイルが日本人の宗教観です。ですから日本では色々な宗教を信じている方がいらっしゃいますが、お互いに尊重しています” (引用)

と仰っています。

なるほど、だから、Repect for others(他の人の違いを尊重する)から、
日本人の多くの人は、他の宗教の人を攻撃しないのか・・・
と納得しそうになるも、

宗教について宗教家ではない異なる宗派の信者達が議論を戦わせる、
あるいは、相手の宗教を否定する、という機会は日本では日常あまりない印象を私は持っているけれど

日本で大多数の人と違う価値観をもって生きていたら、ひどい攻撃にあう確率は高い。

欧米のように、明確に人の前で自分と違う人に対して、”私はあなたの考えに賛成できない” とは言わないかもしれないけど
個人的に意地悪したり、無視したり、村八分にしようとしたり、、、
日本人が ”お互いの違いを尊重しているか” というと、疑問に思う所はある。


風刺画に関しては・・・ 色々な言い分はあると思いますが
気分が害されるような内容なら、強制的に見させられる物ではないのだし無視すればいいし、
腹が立ったからと言って、その感情を誰かに対して攻撃、と言う形で処理するのは間違っている、
と思います。

問題は、どうして、そういう解決方法しかない、と思い詰めるに至る思考形成がなされていったのか、
という所だと思います。

テロ行為まではいかなくても、
日常で、自分の怒りをイライラを無意識のうちに相手のせいにして、相手をアタックする
という行為は、常に発生しています。

しかし、怒りをぶつけたって、相手を殺したって、
例えば、自分が大事にしている宗教の面目を保てはしませんし
心の奥深い所での怒りは消えない、物事の相手との関係系の本質は解決されません。

人は自分で自分でも扱いきれない感情と向かい合うよりも、相手にぶつける方が、
手軽な一時的な解決法のように感じるのかもしれませんが、
自分の感じた感情との付き合い方、相手への関わり方は他に方法があるのです。

同じ風刺画を見ても、感じる感情は人それぞれです。
自分が腹が立つには理由がある。
自分が腹が立ったから、と言って、相手のせいにしてはいけない
自分の怒りを相手にどうこうしてもらおうと思っていはいけない
自分を怒らせた責任を相手に取らせようとするのは、なにか違う

同じものを見ても、同じことを聞いても、腹を立てない人もいるのですから。

自分が腹が立ったら、自分が腹を立てる理由を自分で見つめて、
それを根本的に解決できる、自分が穏やかに、よりよく生きていく為のアクションが何か、を見つけ、
アグレッシブな行動に出るのではなく
相手を攻撃したり、否定したり、相手が変わる事を強要したりするのではなく
自分で自分のために出来る行動を実行していけたいいのではないか、と思います。

Hate only creates hate.

フランスで起きた事は、まだまだ国際社会に、人々の心に波紋を投げかけ続けると思いますが、
すぐに答えをだそうとするのではなく、一人ひとりが、真剣に考え続ける、
一人ひとりが、より平和な日々を穏やかな心や暮らしを積み重ねていくことで、
より大きなコミュニティーでの攻撃のやり合いを減らすことはできないだろうか、
と、もやもや 考え続けています。



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by totoatsuko | 2015-01-18 00:24 | Comments(0)

結婚しても男が「イクメン」や「カジメン」に絶対になってはならない理由

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友人がFBでシェアしていて、同感! と思った男性が書いた(らしい)記事。 

将来息子たちが、夫や父・パートナー と名乗るに値する大人になっていてほしい、
と切に祈りながら日々を大事に一緒に過ごしています。

あくまで、私の価値観ですけれど、その方が絶対に幸せなれると思うから。


家族の将来は、家族の日々の歴史が作っていくもの。

結婚しても男が「イクメン」や「カジメン」に絶対になってはならない理由
http://tenro-in.com/writing/9554

以下本文 結論部分辺りから引用 

カジメン・イクメンは、家事をする、育児をする男性が珍しいから、あえてつけられた名称だ。
「カジメン」「イクメン」と言われることを誇らしいとか思ってはいけない。

家事をする、育児をする女性を「カジウーマン」とか「イクウーマン」などと呼ばない。なぜなら、当然のことだから。当然のことをしている人は、特別な名称では呼ばない。

...

特別な名称を与えられるということは、当然のことをしていない者だからだ。

誰かが子どもにミルクを与えていたら、その間は何もできないのだから、別のものが家事をする。おむつを替えるのは、近くにいる者だ。夜泣きをすれば、体力のある方があやせばいいのだ。
家事や育児は「する」ものだ、参加することでも、手伝うことでも、ない。「する」のだ。当たり前ことだから、あえて名称などいらない。
名をつけるならもう付いている、それは「夫」と「父親」だ。

だから、男子たるもの、結婚したからといって、家事を手伝ってはいけない、子どもができたら育児に参加してもいけない。決してカジメンやイクメンになってはいけない。

では、何になればいいのか「夫」や「父親」になるのだ。



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以下、全文引用
天狼院書店 記事:西部直樹(ライティングラボ) Posted on 2015-01-12

ここ数年、若い知人たちが、つぎつぎと結婚をしている。

いらぬ節介だとは思うが、若い婿たちへ、ひと言忠告を申し上げたい。

結婚しても、カジメンやイクメンはなってはいけない!

カジメンとは 家事を積極的に手伝う夫

イクメンとは 育児に参加する夫

のことだ。

どうしてかって?

少し前、あるシンポジウムに出ることになった。

行政が主催するごく小さなシンポジウム・パネルディスカッションである。

テーマは、「カジメン、イクメンになる」というようなもの。

「積極的」に家事や育児に関わっている男性を集め、これからの男女共同参画社会について……云々ということである。

パネラーの一人として参加することになった。

その中で、他のカジメン、イクメンたちの話に、ちょっと違和感を覚えた。

曰く

「私が家事を「手伝う」ようになったのは……」

「育児に「参加して」みると、これが楽しいので……」

家庭生活に必要な家事は、手伝うことなのか?

家族を作っていく育児は、参加するものなのか?

「手伝う」とか、「参加する」というのは、家事や育児に馴染まないのではないか。

※ 手伝うのは、本業以外のこと

手伝うというのは、本業、自分の仕事以外のことで、他者の本業というか仕事を手助けするということだろう。つまり、その作業の主体ではないということだ。

例えば、子どもが家の仕事を「手伝う」とか。

私は北海道、オホーツク海に面した小さな町で生まれた。

家は畑作と酪農を営む農家である。

畑と家畜がいると、親は休む間がない。

当然のように、子どもも働くことになる。

畑仕事に、家畜の世話など、学校から帰ってきたら、あるいは休日は

家の仕事を「手伝う」のだ。

手伝いは、面倒で、辛く、できれば避けたいものだった。

子どもの本業は、勉強と遊びだから、面倒で、辛く、避けたかったのだろう。

※ 仕事はするもの

家の手伝いから解放されて、就職した時のことだ。

新人の頃、配属された日には、何をしていいのかわからず、しばし、呆然としていた。

少しずつ仕事を覚え、それでも1年を過ぎるまでは、先輩の仕事を「手伝ったり」していた。

社会人の仕事に「参加」させて頂いているようなものだった。

新人時代が終わり、後輩ができると、先輩社員からこう言われた「仕事は指示を待つのではなく、自分で作るものだ」

なるほど。

見渡せば、自分がやるべきことはわかってくる、仕事は見つかっていくのだ。

それから、紆余曲折を経て、独立し、自分で会社をしていると、仕事は作るものでもなく、自然とそこにあるもの、あるいは湧水のように、湧き出るものだと思うようになった。

仕事のtodoリストは、長く、全てを消し去ることができない。

仕事は手伝うものでも、参加するようなことでもなく、そこにあるから「する」ことなのだ。

※家族をつくる

長じて家庭を持った時のことだ。

結婚すると何かが大きく変わるかと思っていたが、思いの外独身時代と、日常生活は変わりないものであった。

もちろん、独身時代と結婚してからでは、変わったことは多々ある、数えれば253個くらいあげることができるが、本題ではないので割愛しておこう。

変わらなかったことは、生活するということ。

生きて活動するためにおこなうことは、独身時代も結婚後も変わりはない。

家のことを「手伝っていた」子どもの頃は、被扶養者だったから、家庭の主体ではなかったからだ。だから手伝っていたのだ。

家事を手伝うということは、家庭の主体ではなく、被扶養者であるということなのか?

手伝っている限り、誰からに世話をしてもらわなければならない、自立も自律できない子どもである、ということではないか。

参加する、ということは、「今日は不参加です」とか、行動に選択の余地があるかのような言葉である。

育児には時々参加したり、不参加だったりはできない。

子どもが育つのに休みはないのだから。

自分の仕事を「手伝う」という人はいないだろう。

自分の仕事は「する」だ。

同じように、家事も育児も「する」のだ。

カジメン・イクメンは、家事をする、育児をする男性が珍しいから、あえてつけられた名称だ。

「カジメン」「イクメン」と言われることを誇らしいとか思ってはいけない。

家事をする、育児をする女性を「カジウーマン」とか「イクウーマン」などと呼ばない。なぜなら、当然のことだから。当然のことをしている人は、特別な名称では呼ばない。

特別な名称を与えられるということは、当然のことをしていない者だからだ。

誰かが子どもにミルクを与えていたら、その間は何もできないのだから、別のものが家事をする。おむつを替えるのは、近くにいる者だ。夜泣きをすれば、体力のある方があやせばいいのだ。

家事や育児は「する」ものだ、参加することでも、手伝うことでも、ない。「する」のだ。当たり前ことだから、あえて名称などいらない。

名をつけるならもう付いている、それは「夫」と「父親」だ。

だから、男子たるもの、結婚したからといって、家事を手伝ってはいけない、子どもができたら育児に参加してもいけない。決してカジメンやイクメンになってはいけない。

では、何になればいいのか「夫」や「父親」になるのだ。

若き男性たちよ、夫とか父親として、え~と、頑張ろうではないか

さてと、原稿を書き終えたから、今日はゴミの回収日だったな、ゴミを出して、洗濯してと、あっと、食器洗いが残っていた……。








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by totoatsuko | 2015-01-17 07:04 | Comments(0)

知識があるのと、実践して経験して理解しているのは違う

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Vipassana meditation の先生、Goenka氏が紹介したストーリー。

あるところに漁師と、海洋学の博士がいました。
海洋学の博士は、どこの学校でも勉強したことがない漁師に高飛車な態度で
海洋学は知ってるか? 船舶について学位は持っているか? 天文学は?と、
自分が学んできた海についての知識の学位を持っているか漁師に立て続けに聞きました。

答えは、全て No, Sir. でした。

博士は、漁師さげすむように見て、よくそれで漁師が務まるな、と言いました。

漁師は博士に聞きました。
海で泳がれたことはありますか?
釣りをされたことがありますか?
海の上で嵐にあったことや、夜明けの太陽を見た事はありますか?

答えは、全て No. でした。

漁師は何も言いませんでした。
      ***

どんなに素晴らしい知識を持っていても、どんなに素晴らしい理念を持って、それを他人に喋る事ができていても
それを実践していないと、その理念を地で生きていないと、その人の言葉はとても薄っぺらく感じます。

心理療法は、その方法である程度深いプロセスを行った事がある人ではないと、それが何なのか、はほんとうの所分からないでしょう、どんなに本や人の体験談を聞いても。メディテーションも、同じだと思いました。

心理療法などの知識を持っていても、心をマスターは出来ません、
ましてや人の心のプロセスを促す役割を行うことなんかできないし、
自分の心を思うようにコントロールすることは出来るようになりません。

エリザベス・キュブラー・ロス という、死ぬ瞬間、等のベストセラーを生んだ死生学やグリーフ学の権威の女史がいます。
死ぬ前に、人はどんな心理を体験するか、という事を分析に、どういうプロセスを経れば心穏やかに死に向かって歩いて行けるか、という事について沢山の本を書いています。
しかし、本人が亡くなる前の期間、本人は死を恐れ、激しく葛藤をしていたそうです、
彼女の、グリーフ等の学術的な知識がない患者さんたちと同じように。

彼女は、頭でしか死ぬことを捉えられていなかったのかもしれません、
近づいてくる死を受け入れ、穏やかにその道をあるいていける”自分になるため” の方法を理論的に知っていても、
多くの人に、数えきれない回数の講義を行っていても、
彼女は、自分が作った理論を自分に対して実践しなかったからかもしれません。

世の中には、沢山のやり方のメディテーションがあり、沢山のメディテーションのやり方の教え方がある。私は、ある程度、寄り添って教えてもらい、ある程度真剣にとりくんでメディテーションで体験しうる深い感覚のほんのさわりだけでも体験しないと、メディテーションが何なのか気づくことができないのではないか、と思います。

誤解したまま、こんなの効果ない、と辞めてしまう人は沢山いると思います。
それも、また、その人の選択で、その人の生きる道を作っていると思います。

世の中には、自分の知らない世界がいっぱいあって、いろんな生き方があって、、、
それなのに、それを認めず、自分の限られた視野から偏見で見てる事がたくさんある。

その偏見を、ネガティブなエネルギーにして相手にぶつけ、自分が優位に立っているように感じようとしたり、
本当は知らないことの不安を隠すために大仰に振る舞ってみたり
自分が知らないことを知っていそうな相手を無意識に潰そうとしたり、、、
残念なやりとりが沢山あるな、と思います。

心の中心が穏やかであれば、自分が等身大の自分を受け入れられていたら、
そんなネガティブな攻撃は減らすことができる、
みんなが、よりお互いを思い合って生きていけるのではないか、と思います。


個人的には、メディテーションからの働きかけは、大地がゆっくりと何万年もかけて移動していくような感じなので、簡単にはその変化を感じられないかもしれないし、心の状態によっては、全く感じられなくて、メディテーションの意味が分からないかもしれない、と思ったりします。その点、音楽心理療法は、もうちょっと手っ取り早く自分の心にとっかかりを見つける手助けをしてくれるのではないかと、セラピストの色眼鏡もかかっているとは思いますが、そう感じます。

メディテーションで得られることの中には、心理療法では得られないかもしれない、
と思われる何かも感じています。


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by totoatsuko | 2015-01-16 08:04 | Comments(0)

自分がよりよく変わる方法は沢山ある

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今の状況、今の自分になんとなく違和感を感じている人は沢山いると思う。
でも、それを何とかするためのアクションを取るまでに、大きな決断や、気持ちの変化を要するかもしれない。

何事にもタイミングがある、と分かっているけれど、もどかしい思いをする事がある、
辛い苦しい腹が立つ、と言いながら、あるいは誰かのせにしながら生き続けている自分のために、
自分自身が本質的に ”その自分” をケアしようとしない、自分の声をほっとらかしている姿を見る事があると。


よりよい生き方をするために
よりよい自分になるために

探したら、それを実現するための方法についての情報は、世の中にあふれていると思う。

宣伝文句はいい事が書いてあっても、内容は、自分をごまかすだけのものだったり、いかがわしいものも沢山あるから気を付けるひつようがあるので、どの方法を選ぶか、、、それは自分の直感を信じるしかない。
決して、世の中で人気だからとか、そんな世間体からは選ばない方がいいと個人的には思う。

自分の内面と深く向かい合う事で自分を変えていく、というアプローチでなくても、
その方法が、”本質的に” 自分を自分らしく、幸せに生きれるような変革を自分の中で生むことになるのだったら
心の中から、得体のしれない不安や悲しみ、怒りや疑いや執着が浄化されていくなら
何だっていいと思う。

その人の心にpeaceが訪れ、周りを無駄に攻撃せず生きていく事が出来る事
世界がより平和になる事を、心から祈っている。



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by totoatsuko | 2015-01-15 05:22 | Comments(0)

心はあらゆるものの先駆者である

心はあらゆるものの先駆者である by 釈迦
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ユネスコ憲章の前文に以下のくだりがあります。

戦争は人の心の中でうまれるものであるから
人の心に平和の砦を築かなければならない。

    ***
心の中の悪い思考を自ら取り除けば、戦争をしかけることにならない。
戦争を仕掛ける ネガティブなものを投げる事で、ネガティブな事しか生まないことが本当に分かっていたら、
戦争という手段をとらない。

それは、日常の一人ひとりの心の中の戦争も同じだと思います。

Goenka氏が紹介した、仏陀が話したといわれる逸話があります。


男の子がミルクを買いに行くお使いに行きました。
蓋がついていないミルク瓶を大事にもって、こぼさないように注意深く帰り道をあるいていたところ、
転んでしまって、半分のミルクが流れてしまいました。

ある男の子は、ミルクが半分になってしまったことを嘆き悲しみ、つまずいた石を憎み、
母親に自分が悪くないことを切々と訴えていました。


ある男の子は、ミルクが半分も残っていたことを喜び、失ったミルクを得るために、すぐさま働き始めました。

後者の男の子の方が、よほどOptimistic (楽天的)で、より人のためにつくし、幸せに生きていける。
可哀そうな自分と嘆き、自分は悪くないと弁解して泣いているうちに、人生は終わってしまう。

何かよくない事が起きた、と感じた時、それを、よくない事、と捉えるのか、
このくらいで助かった、まだこんなに自分は恵まれている、と感じるかで、その次の瞬間からの生き方が変わる。

自分の行為や幸福について自分で責任を持つ。

それは、とても難しいことのように感じるし、聖人しか出来ない事のように感じていたのですが

今回 Vipassana meditation プログラムに参加したことで、
私が求めている事、
努力してそんな人であるかのように”振る舞う”のではなく 
(”振る舞っている”ことに気づかず、自分が理想と思う人を演じて生きようとしている人も多いですが)
自然体において 心穏やかに 人を攻撃することなく 地球と調和して生きていく事 
が、セラピストだからそう考えるのではなく、世界中に聖職者でない、セラピストでもない人達でも、
そのように生きようとしている人が沢山いる事を知る事が出来たこと、
そのコミュニティーに繋がる事ができたのは、とても嬉しかったです。

旅行で観光したり、様々なエンターテイメントを体験したり、自然の中でゆっくりしたり、そうやって、外からの刺激に意識を向けて、それに反応して楽しむのも、とても自分を元気にさせるものですが、meditation を通して、何時間も自分が自分の事だけを考える、自分が自分をtreatする、というのもまた、日常から離れて自分をリフレッシュさせる? 方法の一つとしては素晴らしいものではないかと思います。食べたり飲んだり喋ったり観光しているような気楽な作業では決してありませんが・・・ このプロセスに慣れてくると、そういう時間を日常に持ち込むことを自ら望むようになるかもしれません、

自分のために
自分を支えてくれる人々のために。

Goenka氏は、Buddaはとても現実的で理論的な人だった、そういう人が教える 心が穏やかに 幸せに生きていく術、自分を見つめ、心を鍛える術、というのは、とても地に足がついている実践的なものだ、と言っていました。 


MAY ALL BE HAPPY.



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by totoatsuko | 2015-01-14 08:02 | Comments(0)

3つのトレーニング

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Budda が教えた 3つのトレーニングは、
Sila: Morality (道徳)
Samadhi: Concentration, mastery of the mind (マインドのマスター)
Panna: Wisdom, insight that purifies the mind (マインドの浄化と叡智)

だそうです。
(The Vipassana Meditation association のサイトより引用)

Silia(シーラ) とは、他の生命に害を与えず、穏やかに生きていく事、だそうです。
殺さない、盗まない、性的不品行をしない、嘘をつかない、麻薬をしない

なにも仏陀に教えてもらわなくても、人としての道徳であることは、誰しもしっている事かと思います。

Budda は、宗派、というのは求めていなくて、
何教でも、何教でなくても、人々がより心穏やかに暮らせる方法があるなら、
それを日々大事にすればいい、と言っています。

逆にいうと、
何教を信仰してるから、とか、決められたお祈りを日々やっているから、とか、儀式をちゃんとやってるから、とか、お布施を収めているから、とか、、、どんなに”信心深く” て、どんなに ”いい信者” でも、心穏やかに生きれるわけではないし、人に危害を与えず生きていく事が出来るとは限らない。

いかに宗教間の戦争が多い事か。
いかに、なにかの信者であっても、
自分を大事にできなかったり、心が苦しいまま生きていたり、人を攻撃してしまっているか。

自らが自分と向かい合い、自分の心を浄化し変容させていかない限り、心が穏やかな生き方は実現しない、
とBuddaは言っています。

このレベルのpeaceful mind になってくると、
心理療法だけによって到達するのは限界がある感覚を私は持ちました。

同じメディテーションのプログラムを受けても、人の数だけ、その受け止め方は違うと思います。
20代の早いころ、まだ24時間を自分の為だけにつかえていた時に、Vipassana meditation に出会っていたら、と思ったりもしましたが、あの頃だと、今のような深さでは Budda や Goenka のいう事に自分との繋がりを感じる事が出来なかっただろうと思います。

ある程度 ”無意識” に対しての知識を持ち、音楽心理療法などによって、自分自身の無意識と向かい合ってきた下地があっての今回のメディテーションプログラムの体験は、これまでの私の軌跡を包括し、これからの私の日々の新たなキーストーンになった感覚を持っています。。

なにより、自分自身に対する感覚の変化だけでなく
子ども達との関わり方に大きな変化を感じてとても嬉しいです。
子どもがやらないといけない事をやっていない時、怒るのではなく、穏やかに言っている自分がいる。
以前は、怒らないと、動かない、と捉えていたから怒っていたのだけれど、
私の存在のエネルギーや波動が変わったからなのか、怒られる前に動いていたり、穏やかに言えば動いている。

子どもが成長したのだ、と言ってしまえば、それも一理あるかもしれないですが
私の中で、怒らないと、というエネルギーが沸いてこない、心の中心が穏やかな感じ。

親の在り方、親の影響力ってすごいな、と思います。
ある意味、こわい。

これまでよりも、家の中でネガティブな波動が流れていない、
これまでよりも、自分の中でネガティブな波動が減っている、
それは、とても とても心地よい感覚です。



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by totoatsuko | 2015-01-12 10:48 | Comments(0)

自分のネガティヴな感情に”反応”しない

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DO NOT REACT TO YOUR NEGATIVITY.
DO NOT PUT YOUR AGGITATION TO OTHERS.

Rather ask yourself
"What is the source of your misery?"

the influence of that anger makes everybody unhappy, including themselves. You are the first victim of your own anger.

Anger is YOURS, but not someone's.
Don't start anger's chain.
      ***
自分のネガティブな感情に衝動的に反応してはならない。
自分の苛立ちを他の人にぶつけてはならない。

相手を責めたり攻撃したりする前に、
自分の何が(相手のせいではない)、自分をそんな気持ちにさせているかみつめなさい。

個々人の内にあるネガティブなものは、周りの人だけでなくその本人たちも不幸せにする。
怒っているあなたが、まず最初の犠牲者だ。

怒りはあなた自身のものであり、誰かのものではない。
怒りの連鎖を初めてはならない。
      ***

meditation のクラスで、先生が言っていたこと。

人は知らず知らずのうちに、自分に都合が悪い状況の時、相手が思い通りに動かなかったとき、相手を攻撃している事がある。
しかし、怒りは自分が創造しているものだから、決して相手を責めてはいけないし、責める正当な理由にもならない。


メディテーションの過程では、awareness と equianimity (自覚と平静さ)が最も大事な要素の2つだ、と教えられました。

自分の内側を感じるプロセスを通して、初心者はついついいろんなことを考えたりしてしまう。
過去に経験したさまざまな感情や記憶、現在や将来に対する思いや不安、体の感覚(ずっと座っている事で痛む足とか)。本来は、mind wondering、色々思考しない状態を求めてメディテーションしているけれど、色々考えてしまう自分をジャッジせず、ただありのままを受け止めなさい、と教えられました。いろんな事を考えてしまっている自分に”きづいたら” また、自分をリセットして、考えない状態から始める。
こういうアプローチで自覚していくことで、
過去の自分の心理パターンに気づき、そのパターンを変えていく事で
自分のネガティブな感情に自分の行動が支配されない心の状態にトレーニングしてくのです。

meditation初心者は、足がかゆいとか痛いとか、疲れて姿勢を保てないとかで、姿勢を変えたくなる
=自分の感覚に”反応”して”行動をとりたく” なる。 
しかし、生徒は、その痛みや不都合をひたすら客観的に観察していくことを求められます。
そのことで、痛いと感じていたものが他の感覚に変わっていったり、何かに昇華されて消えていったりする体験をします。

その先のずっとずっと先に、peaceful mind があり、悟りがあるのだそうです。


そこで、私は、先生に質問しに行きました。
「虐待を受けている人が痛みを感じているとき、それも主観的に観察しつづけるべきなのですか?」 と。

答えは、
You can say No, to hurmful thing.
You have a right not to recieve negative gift from the person or environment.
       ***
自分にとって危険なものに対して NO と言っていいのです。
あなたには、ネガティブなものがつまったギフトボックスを受け取らない権利があります。

自分をtortureすること(自分を拷問し続ける事)と observation (自分を観察し続けること)は違います。
meditation によって、自分が必要のない攻撃を受けている、自分はとても苦しんでいる、と自覚する事ができたら、
その自分の苦しさに”反応”して ”攻撃しかえすのではなく” 
その関係から抜け出すdetermination (決断) を自分でし、
自分が peaceful mind で暮らせるための必要な行動をとる。
(たとえば、相手と建設的な対話を試みる、話せる相手でなければ相手と連絡を絶つ、必要なら法的な手段に助けをもとめる、等。)
でした。

納得。
とても納得。

Meditation と 心理療法は、アプローチやテクニック、また向かっていく方向性も違う所があると感じますが、
同じような変化を体験することができる部分もあると思います。

”自分がどのくらいその関係、その状況で辛い状態に陥っているか”というのに ”自分で気づく事ができたら”
”相手を攻撃するのではなく” ”環境を嘆くのではなく”、
自分が求めている変化、方向性を生むために ”自分が出来る事” が 分かってきて、
それを行動に移すことが出来るようになる。


Hate only causes hate.
DO NOT REACT TO YOUR NEGATIVITY.


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by totoatsuko | 2015-01-12 10:05 | Comments(0)

何故 Meditation するのか?

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仏陀はなぜ 瞑想 meditation を実践し、人々にすすめたのか?
それは、人々がpeaceful で Happy に生きるための方法だと、自分が実践して確信したから。

仏陀は、心を育てなければ 自分の心の苦しみを終わらせることは出来ない、と言っています。
瞑想 bhavana は、心を育てる、という意味だそうです。
瞑想を日々行う事で、心の汚れ

craving:執着、
aversion:嫌悪、憎悪、
physical sloth and mental torpor:肉体的、精神的な怠け, 不活性、
agitation and worry:苛立ちと心配、
doubt and uncertainty:疑いと迷い

がpurify:浄化されていき、ピースフルな心の状態を常に保ちながら生きていけるのだ、と言うのです。

都合が悪いとき、苦しいとき、哀しいとき、環境や相手のせいにして嘆いても、
ましてや自分の心のネガティヴィティーを相手に投げつけて相手を攻撃したりしても、
因果応報、自分の苛立ちや怒りは解決されるどころか、自分に振り返ってくる。

ピースフルマインド、というのは、ここ5年間の私の重大なテーマでした。
何が起ころうとも、peaceful で happy である自分でいること。
自分のために、子ども達のために、そして、私を支えてくれているみんなのために。
でも、それは簡単なことではありませんでした。

いろんな出来事が起こり、その時々によって、私の心は悲しみに染められたこともありました。
それでも、様々な形で自分と対話を続ける事で、この5年間で本当に私は生まれ変わっていった、
自分をほめてあげたい、と思っていた矢先の、このメディテーション プロセスとの出会いでした。

日々12時間、先生の導きとサポートの中で瞑想の方法を習得していく過程で、
究極的には、いわゆる仏陀のいう”心の汚れ” の要素を心から取り払えるわけがない、と思っていた自分に気づき、
さらに、心の汚れを取り払う事は可能だ、と確信する自分に変わっており、それを静かな驚きをもって観察しています。

こういう生き方は特別窮屈な事でも、特別清貧な訳でも崇高なわけでも、厳格な生活な訳でもなく、
人として当たり前の事で、そういう生き方を自然体で捉えて生きている人が世界中に沢山いる事も知りました。

これまで私が知らなかっただけ、これまで私が生きてきた環境の中には、
そういうスタンダードを体現しながら生きている個人的な関わりがある人がいなかったから学べなかっただけ、なのだと。

特別に見えたり、厳格にみえるのは、その人の価値基準がその世界からかけ離れているからそう感じるからなだけであって、
そのように生きる事が心地よい、と感じていれば、それは本人にとって厳格な生き方でもなんでもない、喜びに満ちたものに感じるのだと思います。

それぞれの人の価値観、value systemは、育ってきた家族や環境、生きてきた中での経験や人間関係に大きな影響を与えますね。
大きな影響を与えるだけではなく、無意識に縛られていて、盲目にさせられていて、知らずしらずの内に自分が本当に望んでいる生き方を考えたり選択する事が阻まれている事が多々ある、という事はセラピストとして知っていますし、私個人の経験として体験した事もありますが、今一度、その負の影響の可能性を深く感じました。

仏陀は、「心の性質を探求しなさい」と繰り返し諭されたそうです。
瞑想を続ける事で、心の性質を探求し、心の弱さを理解し、そして初めて、その心の弱さ、自分を自分で不幸にしている心の構造やパターンを”変える”方法が見つかり、自分を今感じている苦しみから自分で救済する事ができるのだ、と。

何だか、心理療法の考え方と似てるぞ、と思いつつ・・・
仏陀は「自己責任」の教えを説いていたのか、と 今となってみれば当たり前のように感じる事なんですけど、
初めて気づきました。

(ちなみに、仏陀の教えと、仏教のさまざまな宗派の教えは、異なる部分も多いのだそうです。
仏教、となると、人々の間に segrigation:分離・差別 が生まれてますが、そういう事は仏陀は教えていないそうです。 )


きっと、去年までの私だったら、今自分が書いたような文章を読んでも、そこまで足を止めて考え、自分のよりよい生き方のために参考にし、これまで取らなかったようなアクションに実際つなげる事はなかっただろうと思うので、それは、リーダーの皆さんも同じ、と思いつつ、仏陀の教えた瞑想にまつわる話、また次回に持ち越して、続けて書いていきたいと思います、まずは自分のために。

MAY ALL YOU BE HAPPY


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by totoatsuko | 2015-01-08 09:26 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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