「ほっ」と。キャンペーン

カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

totoatsuko.exblog.jp ブログトップ

<   2013年 01月 ( 7 )   > この月の画像一覧

レ・ミゼラブルをみて - いろんな愛 

d0065558_149099.jpgこの映画のFilm Director, 
Tom Hooper がインタビューで

”物語上のこだわりは、ヴィクトル・ユゴーの原作に立ち返ったときに気づいた愛だ。

バルジャンは、司教から与えられた徳と信仰によって改心を誓うけれど、それだけでなくコゼットとの出会いで知った愛も彼にとっては恩寵だったと。だからミュージカル版にはない新曲、(幼い)コゼットを眺めながらバルジャンが歌う 「Suddenly」 を加えたんだ。 実は1年ほど前に僕の姉に子どもが生まれてね。

その光景をみながら、愛(love)がこんなにも人の人生をかえるなんてと驚かされた。”

と語っている。


バルジャンは19年の監獄での暮らしから、”条件付きで” 解放されるが、
職も食べ物のなく死にそうになっているところに食べ物と安全な寝場所を与えてくれた教会から、
高価なシルバーウエアを盗んでしまう。 

お腹をすかせた妹のためにパンを盗んだせいで、19年の厳しい監獄生活を強いられ、
その救いのない日々の中でしみこんでしまった醜い心。

ひっとらえられて司教のもとに連れてこられたら、
司教は、そのシルバーウエアは確かに私が彼に与えたものです、実は彼は忘れていったものもある、
と、銀の燭台まで渡す。 パリの警察は、何も言うことができず、その場を去る。

司教は、これは私ではなく、神の御慈悲だ、と説く。

十字架の前で、いかに自分が卑しい人間に堕ちてしまっていたか懺悔するバルジャン。
そして、数年後、まだまだ世は貧富の差が激しく荒れ果てている世相のなかで、人々に慈悲深い市長になる。

許されること、  その力の大きさを感じた。

バルジャンは、司教に許され守られることで、自分を顧み、生まれ変わる事ができた。
司教の説教や、法による罰によってではなく。


違う場面で、彼は 警官 シャベールに追われていた。
その時、病気がちな娘を養う宿屋の夫婦におくるお金を稼ぐために売春をし、今 目の前で死にそうになっている見ず知らずの女性、フォンティーヌを病院まで連れて行ったら、警察に出頭しようと思っていた。

しかし、フォンティーヌは間もなく死んでしまう。

バルジャンは、フォンティーヌの娘を引取りに宿屋に行く。
庇護が必要なコゼットをみて、彼は 再び逃亡生活を送ることを決意する。

その時、監督が新たに加えたといわれる Suddenly という歌を、
自分の膝で安心して眠るコゼットに歌いかける。
この子をおいて、警察に出頭するわけいはいかない。

彼は、神の司教の愛によって生まれ変わり、
コゼットへの愛によって、また生まれ変わる。


その間、シャベールは執拗に居場所を嗅ぎ付けてくる。

そして、革命の夜。
バルジャンは、自分を追い詰め、命を狙う警官 シャベールの命を助ける。
そこでシャベールを殺せるチャンスだった。
そうすれば、自分はもう追われることもなく、安心して残りの人生を暮らすことができる。
それなのに、シャベールを逃がす。

それは、命がけの許し だと思う。
自分を陥れるかもしれない人に対して、自分の命をかけて許す ことができるか?
あるいは、命を懸けて相手を信じる・・・ということができるか?

命がけで、ということは、自分の心の、あるいは実際の命を落とすことにもなるわけだ。


その後、助けられたシャベールは、自分を助けたバルジャンをまた追い回し、殺そうとする。

どんなに許しを与えられても、その愛を受け止め、自分を顧みることができない人もいるのだ。
ストーリーでは、そのシャベールにバルジャンは殺されることなく、
また、シャベールは、ある日自分のして来たことに気づき自殺し、
ジャン バルジャンは、コゼットに見守られ安らかな最後の日々を送ることができる。

現実の世界では、そうそう、善と悪に白黒つけられる訳ではない。
慈悲をいただきながらも、気持ちを受け取れず、心に闇を抱えたまま墓場まで持っていくことだって沢山あるはずだ。


愛には色んなものがある、と思う。
神の愛 といわれるような、なにか大きなものに守られている、生かされている、というう愛の存在。

そして、日々 人と交わる中で交換する相手を思う、愛の気持ち。

この映画と監督のインタビューによって、
自分の子どもたちが、どれだけ私を変えてくれたか、 

彼らの存在の大きさに愕然と気づいた、改めて。

親は子どもの事をおもっている。
それは知ってるし、色んなところで読むし、
日々のなかで子どもたちの preciousness というのは自分自身で感じているけれど、

また違うレベルで、彼らの存在の大きさ、というのを感じたのでした。


そして、私のまわりにる人に対する、あるいはその人たちが私を気にかけてくれる、
そういう思いの大きさ、重さにも。


だから、感じてるだけじゃなくって、
もっともっと彼らに対する行動に、言動に繋げたい、そうしないと後悔する、と思いました。


”愛がこんなにも人の人生をかえるなんてね” という監督の言葉。

愛は、恋愛の愛だけではなく (これ自体にも無数の愛の形があるとおもうが)、
人と人や、人と周り、全てのものの間で交換されている様々な愛があり、
その中にも、数えきれないレイヤーと奥行きと質感をもつことを強く意識しました。

ほんとうに様々な 見えない ”相手を思う気持ち” 
あるいは、”その気持ちが行動かされたもの”、が、
人を、自分を全部変えることがあるのだと感じています。



余談ですが、監督は、映画の中で歌われる歌のライブ録音についても、以下のように語っている。
”アフレコでは、どんなに唇の動きに合わせても観客は口パクに気づくだろう。僕は、その瞬間に歌が口をついて生れ出るかのように撮りたかった”

ほんとうに自然に、言葉がメロディーにのり、そして歌になっていく瞬間 瞬間に 心が躍りました。
[PR]
by totoatsuko | 2013-01-29 14:09 | Comments(0)

選択の重なりの上にある ”今”

d0065558_1992170.jpgある映画の主人公、成功した小説家。
大きな講堂で、聴衆に向かってストーリーを話している。

実は、それは彼自身が経験したストーリーであることを誰も知らずに、
著名な作家が話す面白い話 として聞いている。

若いころ売れない物書きだった。
小説をかいて出版社に送っても、どこからも返事がない。
恋人との関係はずっと素晴らしいものだったが、生活は苦しく、一念発起して出版社に勤めることにする。
定期的に収入が入るようになり、彼女と結婚し、パリに新婚旅行に行く。
旅行先の骨董屋で、古い皮のバッグを買う。

NYにもどって、日常が戻る。
ある日、その古いカバンのなかに、古い紙が入っているのを発見する。小説だった。
ストーリーは素晴らしく、その言葉を一字一句味わいたくなり、そのまま彼はタイプし直す。

色々あった先、彼はその作品を自分のものとして出版社に持込み、すぐに出版がきまり、一躍大有名人になる。 数日後、公園のベンチで佇んでいると、ある老人が話しかけてくる。その老人はストーリーを話はじめる、自分の。 そして、自分を若手有名作家にした、古い鞄の中にあった作品は、目の前のよぼよぼの老人が若いころ書いて紛失したものだったことが分かる。子どもを失い、妻とも別れてしまうことになった自分の人生すべてが詰まっているモノだったと。

若者は自責の念や様々な感情を体験するが、
老人も翌年 訴訟することもなく亡くなり、その作家は、自分は人の作品を奪ったんだ、ということを妻 (このことが原因で別居することになった最愛の人)以外には誰にもその真実を知られることなく、自分も壮年期に入る。

     ーーーー妻は、自分の最愛の人がそういう嘘を行う人だ、というのに耐えられなかった、
           愛していた?愛している?がゆえに。


大衆には、成功者として讃えられ、素晴らしい家に住み、文句のない生活をしている。
一つの大きな偽りの上に、あるいはその延長線上にある今の自分、この成功、この暮らし。

その分厚い顔の皮のしたに、誰にも言えない事実と良心がものすごい勢いで、一秒たりとも彼が自分が行ったことを忘れさせることなくPokeし続けているのが、映画を見ていて分かる。


若者は、老人に告訴されることで、懺悔をしゼロからスタートすることを願った。
しかし、自分から自分がやったことを世間に公表しその責任を全うする選択はしなかった。出版社やマスコミなど、様々な人を傷つけながらその人たちの人生や生活にも影響を及ぼし、それに対して謝罪しながら、自分の選択に責任をもつ勇気がなかった。


黙っていれば、誰も何も失わない。
この有名作家になった自分が、そういう事をする人間であることなど、誰も疑わない。


なぜ自分を告訴しないのだ、と老人に尋ねた時、
成功のスタートを切り始めた若者に対して次のように言う。

その言葉に心が疼いた。


You always make choices.
You made a choice.
And you have to live with it no matter how terrible it is.

- 人は常に選択をしながら、自分で決断しながら生きている。
   そして、その選択がどんなに酷いものであろうと、
   どんなに痛みを伴うものであろうと、
   間違ったものであろうと、
   人はその痛みと一緒に残りの人生を生きていかなくてはならないのだ。

       *******


No matter how sad things happened to me,
I have to live with it.

どんなに悲しいことが人生に起こったとしても
私はそれから逃げることができない。 痛みを抱えて生きていくのだ。

But I believe I can change the terribleness to better meanings in my future.
でも、自分が行ったこと、自分の人生に起こった事の意味を、
意味があるものであったと思える将来にすることが出来る, と、私は信じている。

それは、とてもエネルギーがいることだけれど、信じたい、、、
いや信じている。
[PR]
by totoatsuko | 2013-01-23 14:28 | Comments(0)

南無地獄大菩薩 By 白隠

禅師の白隠の作品の展覧会に行きました。

全て、墨の濃淡で書かれた人物、仏たち、戯画、文字。
墨だけで、こんなに世界が捉えられるのだ。

豪快な筆づかい。
若い頃の繊細で神経質なラインの作品から、晩年は、下書きのラインから大きく外れて完成品がつくられる。


天国も地獄も紙一重、その人の心の中でどうとでもなる。
地獄は天国、天国は地獄になりうる。

仏になるために自分とみつめあうより、
自分の中の仏を見つけるための精進せよ、と説く。


南無阿弥陀仏 ならぬ、 南無”地獄”菩薩。

大勢の人は騙せても、
分かる人には分かる、
ましてや自分を偽りきる事は出来ない。
[PR]
by totoatsuko | 2013-01-15 21:00 | Comments(0)

その存在に感動する

フラメンコを習っているのですが、私の先生の師匠の、スペイン人フラメンコ界の巨匠の一人 と呼ばれるマノロ マリン が日本に公演できています。もう70代くらいではないだろうか・・・

公演では、若い新進気鋭のスペイン人の弟子たちも最高にかっこよかったし、
ボレロをソリストと群舞で踊ったフラメンコなんて、ブルブル震えるように感じたけれど、

祭りが終わった後というか・・・もう大して激しい足のステップをしないのに、ただ腕を上げるそのたたずまいだけで、心をじわじわ っとわしづかみにするようなフラメンコをマノロ マリンは見せる。

アートっていうのは、生きる っているのは、その人の中でずっと進化するものなのだと、体がほてったような公演後の余韻。


その数日後、フラメンコのクラスに行ったら、こう言っては言葉が悪く失礼なのだけど
男性にしてはかなり小柄で、ずんぐりした外国人が、クラスの真っ最中にひょっこり 顔をだし、
一瞬にしてクラスの雰囲気がはじけるエネルギーに変わりました。

マノロが来たのでした。

私は、どうしてか分からないのだけど、涙があふれてきました。

先生とマノロがスペイン語でふざけあった掛け合いをしていて、
クラスメイト(このクラスは平均年齢70歳!)たちが、かけよっていく。

なんだか、もうその光景が目の前で繰り広げられている事に感動して。
それぞれが、それぞれの人生をあゆんできて、いろんなものを背負っていながら
”いま” ”ここで” それぞれが その場の自分で 人生の歴史(といったら大げさだけど)を作ってる。

マノロが、じゃぁ、簡単な振り付けを教えてあげるよ、と予定にはいっていない事なのだけどちょっと踊って見せる・スリッパで(苦笑) 真似してごごらん、と一緒に踊ってみるが

マノロがやるとカッコイイのに
私たちがやると、ただ右と左の手を交互に胸にあてていて、胸がいたいのか!? という感じで滑稽。

アートというのは、本当に嘘をつかない、というか、
その人が重ねてきたものが、ホンの指先の微細な動きからも表現されていくのだ、と思っていたら、
また涙があふれてきました。


パーソナルには全く知らない人なのに、
マノロがあのクラスに来た、というだけで言葉にできない何かを感じて心がいっぱいになった私。


そこに存在しているだけで、人を感動させる人っている。


クラスの後その余韻を味わっていたら、理性的な自分が言う。

彼は、私の目の前にいた時間、
”ただそこに彼として存在する、普通にしゃべって、動いて、ふるまって”
それだけで、たくさんのものを受け取らせてもらったし、自分をなにかインスパイアさせる強いものを持った。

でも、私はマノロの具体的な事を何も知らない。


どんなに、人を感動させたりインスパイアさせる何かを持っていても
世の中に素晴らしく何か功績を残すような人でも
違う人との関係では、例えば犯罪を犯すような存在でもありうる、という矛盾。


大人気のスポーツ選手や芸能人が家族にDVしていたとか、誰かを殺すとか。


誰かにとっては星であり希望の光であるのに、
同じ人が、誰かを肉体的に、あるいは精神的にいたぶるようなことをしているケースが
”現実に”  ”沢山” ある。


自分の子どもがそんな大きなギャップを持つような人になってしまったらどうしよう、、、
と不安がよぎる。一生懸命、自分なりに成長をサポートしているつもり。
でも、どんな大人になるかは、彼ら自身が選んでいくことだから・・・
心配することは意味ないですね。


人間て矛盾だらけ。
その矛盾を受け止めるのは、その人との距離や依存が大きいほど苦しくなるのではないだろうか?


自分にとって光の人は、プライベートを知ってしまわない方がいいのかもしれない、と思う。
光は、自分から少し遠くにいて、自分を導き励ましてくれる存在にとどめておいた方がいいのかも。


光を放つほどの何かを持っている、その強いものに自分が傷つけられてしまっては
光からもらえる勇気やエネルギーは受け取れなくなってしまう。



憧れは憧れのままで。
憧れにインスパイアされて自分は進化することができるけれど、
憧れの存在に近づいて、それとは同化する必要はないのだ。
[PR]
by totoatsuko | 2013-01-11 10:16 | Comments(0)

映画 レ・ミゼラブル

山田孝男という評論家が書いている文の一部を以下引用。

この映画は今、猛烈な勢いで観客動員数を伸ばしている。老若男女の涙を絞っている。無償の愛、報われざる徳行が、いつか人を変え、社会を動かすというビクトル・ユゴーの原作の主題が、大震災後の日本人を揺さぶっている。

しかも、物語の背景は復古政治だ。
フランス革命に疲れた民衆は、ナポレオンの帝政と戦乱を経て王政復古に安定を求めたが、うまくいかない。

1814年、ルイ18世が即位したが、時の首相タレーランの言う「なにひとつ(経験に)学ばず、なにひとつ(特権を)忘れぬ」王族の時代錯誤が次の暴動を呼ぶ。「民主党革命」からようやく政権を奪還した自民党にとって、これほど教訓に満ちた史劇はあるまい。

引用終わり。


「なにひとつ(経験に)学ばず、なにひとつ(特権を)忘れぬ」人たち、
いつの時代にも、どこに国にも、会社にも、コミュニティーにも、どの家庭にも存在しうる。


民衆は負けながら社会を動かす・・・。 

沢山の死があって、悲惨な状況になって、全てを失って、絶望し、
その苦しさから何かを学び、あきらず変化を求め続けたら、
やっと少し社会が、何かが変わるのか。


それは、とても悲しいことだけれど、
そうやって行くしかないのかもしれない。

そういう歴史を、もう何千年も人間は繰り返してきたのだから。


見たい、この映画。
[PR]
by totoatsuko | 2013-01-09 21:08 | Comments(0)

子どもたちは 日々遊んで、戦って、学んでいる

八重の桜 第一回で 西田敏行演じる家老のセリフの趣旨

「子どもが喧嘩をするのは止めんのです、 そうやって子どもはつようなっていくんです。
でも隠れたり嘘をついたり卑怯なマネをするのは絶対許さんのです。」

同感。
どんどん喧嘩すればいい、議論を戦わせればいい。
その過程で言葉を習得し、操り、体も使い、アタマも使う。

でも、そういう切磋琢磨できる表面的な強さは持っていない子ども、
戦いが嫌いな子、そういうサバイバルでの学び方が苦手な子はどうしていたんだろう、
いまみたいな喧嘩の仲裁や丁寧な指導がない昔は。

それでも生きていかねばならないから、
戦わなくてぶつからなくて生きていくしぶとさや知恵、みたいなのを嫌がおうにも身に付けていっていたのか?



会津藩の殿様のセリフの趣旨。
「木登りもまた、子どもらの戦いであろう。」

同感。
ほんとうに、子どもたちは、遊びのなかで、”色んな人と関わること” で沢山のもの、生きていくすべを学んでいっていると思う。サバイバルだ。

おとなになってからの “頑張る” という感覚と、子どもの頃のそれは、また違う・・・のか?
いや、頑張る、という感覚は、おとな子ども関係なく、その人の心のありさまによって全く違うように体験されるものだと、今、このように書きながら気付く。


親や大人が ”言葉” では教えられない、体で感じて学ぶこと。 
泣いて笑って、怪我もしながら、生きていく、強くなっていく。


子どもが成人していくにまでには様々な危機が実は降りかかっている。
体の成長とともに複雑になっていく精神。
自分の中の矛盾や葛藤に気付いていく。

まっこうからそれにぶつかっていったら病気になってしまうくらい、大きなものを抱える。
それを、どうにかこうにかして、本当に奇跡的に大人になった人たちは潜り抜けてきているのだ、

私たちが、何万の精子と卵子が出会って受精卵となり胎児として生まれることができることが
実は、そのメカニズムを少し学ぶととても奇跡的なことだと分かるのと同じくらい。


精神的にキレたり、喧嘩やスポーツをしている中で大けがをする、
それは、特別なことではない日常だと思っている。
だから、命さえあれば、何が起こっても本当は驚くことはないんだと、頭では思う。
(交通事故の死傷者が、日本で1日2千人ちょっと、と知ってビックリしました。)

だから、いつも感謝する。
今日も一日、無事に夜を迎えることができる事を。
[PR]
by totoatsuko | 2013-01-08 19:30 | Comments(0)

子育て中 - 余白を残しておく

年末年始、仕事から、毎日のルーティーンから離れて、
いつもとは違う事をやり
いつもとは違う時間の流れで、違う日々を送ることで
考えさせられたり、思い出さされたり、感動したり、、、

それぞれ、その瞬間に感じていたことを自分なりに解釈したり味わう余裕もなく、
また日常が戻ってきて来ます。

休暇中、TVで様々なシーンで活躍してきた人のインタビューやその姿や言葉をきいて
よーし、私も自分がギリギリのところまで頑張ろう、 という気持ちにさせられたのですが、

小さな子どもを育てる毎日、 というのは、全力疾走していては無理だな今の私には、
と、これまでの日々を振り返りながら思いました。

精神的にも、体力的にも、ある程度余裕がないと、
少なくとも自分が自分にいい状態、と評価できるコンディションで安定して子どもに接することができない。

余白を残しておいても、仕事や子どものニーズやストレス、日々の様々な出来事ですぐ塗りつぶされて
感情的な、あるいは体力的なリミットまでピンが跳ね上がって、
自分が苦しくなりそうになる、いや実際苦しくなる。

自分ひとりだったら、全力疾走したらいい。
辛くなれば、仕事が休みの日には寝込めばいい。
自分のペースをある程度コントロールできる。

でも、子どもを育てている時期、というのは、それが出来ないのだから・・・

全力疾走しないこと、 
頑張りすぎないで、
我慢しすぎないで、
自分のやりたいこと、やらなくてはならない事をやる道筋をつくること、
心が穏やかで、カラダも辛くない状態を保つために、
周りの人に協力してもらったり、理解して貰えるよう努力すること。

”スピードダウンしながらも失速せず、微調整しながら速度や走り方を安定させていく”、
という努力をして、余白部分で予期しない出来事を楽しみ、そこから学び糧にする。

そうやって自分を、そして子どもたちを守り成長を見守っていきたい。


オオカミのこどもの雨と雪 という映画をつくった細田監督が、インタヴューで

この映画を製作するにあたって、いろんな人に母という事についてインタヴューした、
欧米では、日本と比べて、子育てをしている母親について ヒーロー のように語られることがよくあった、

という趣旨のことを言っていました。


”お母さん”という立場の人たちが、トータルに その人にとっての ”いい状態” で子どもを育てる事が出来る現実を願ってやみません。

子どもが生まれる事で、”母”という役割を与えられて、
はじめはある意味受動的に、それを受け取って、
それでも、自分なりにその役を演じていくなかで、いろんなことが起きて私の人生が展開してきました。


そうそう、人生の中で役を ”演じる”、という事についても、
平田オリザの舞台みて、彼の本を読んで色々考えた休暇でした。


また時間をみつけて、そのことについても書いてみたいと思います。
ではまた!
[PR]
by totoatsuko | 2013-01-08 00:19 | Comments(0)
line

音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite