「ほっ」と。キャンペーン

カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

totoatsuko.exblog.jp ブログトップ

<   2010年 10月 ( 7 )   > この月の画像一覧

アートの力

クライアントが、深層心理のプロセスやカウンセリングのプロセスを深める手助けをするときに、私は、イメージすることや、色や音を使う。

一般に流通? しているカウンセリングは、
「言葉」 で心象、感情、状態を表そうとし、
「言葉」でサポートし、
「言葉」でもつれた心の糸を紐解こうとしたりする。

ときどき、理性が邪魔をする。

こんなこと言ったら、セラピストに何ておもわれるかな?
辛いけど、そこまで辛くないから、そこまで言うほどのことじゃない、とか。

でも、いまここに抱えている気持ちを心を自分の状態を、言葉で説明するかわりに
色にしてみたら。。。

d0065558_235183.jpgそして、何気なくかいたものが、こんなものだったら?
もう、否定しようもない 苦しみにもがいている自分と対面する。

自分の心の状態が、
辛いけど、そこまでつらくない、って言ってる場合じゃない、ってことが
出て来たものをみたら、すぐ分かるだけではなく、
もういてもいたってもいられなくなる、
こんななぶり殺しにされた死体を、このまま放置してさらに傷つけることを放任することも
置き去りにして逃げることもできない、と。

言葉で話しているだけではなかなか到達できないゆさぶり、みたいなものを自分の心が体験する。
セラピストに何も言われなくても、何も話さなくても、自分の表現したものが、全てを物語り、そして揺り動かされる。

もちろん、心の準備が出来ていないのに、こんなひどいグロテスクな状態といきなり対面するのは、トラウマティックだ。心を危機に立たせてしまう。だからこそ、プロのセラピストがいる。だからこそ、アートをカウンセリングやセラピーなどのプロフェッショナルな道具として使うには、特別な訓練が必要になる。

その人の必要なペースで、その人の心にわだかまっているもの、生きることや、人との関係に支障をきたす元になっているものを、ゆっくり紐解いていくペーシングのような役割もセラピストは担う。


又、何気なくかいたアートを 
ー自分の心象を話すのではなく、あくまで、書いたものを説明する、
という建前でセラピストに説明することによって、自分のことを話す心理的ハードルがぐんっ、と下がる。

するすると、意識していなかった事実や、感情や認識が言葉になっていく。
アートは、クッションや潤滑油のような役割も、セラピープロセスで果たしてくれる。

音楽療法士だから、といって、なにがなんでも持っている道具を使おう、とは思っていない。
ただ、とても有効な道具だから、そして何より、セッションを、プロセスをクライアントが楽しむことも出来るから、やっぱり 自然とほとんど毎セッション使っています。



音楽とアートを使う心理カウンセリング Guided Imagery and Music (GIM) session についてはコチラ

アメリカ発 幼児のための音楽教育 Music together @ 代々木上原クラス 無料体験 受付中。
マクロビおやつ付き。
[PR]
by totoatsuko | 2010-10-27 23:57 | GIM:音楽と深層心理イメージ | Comments(1)

The Giving Tree - 大きな木

シェル・シルヴァスタイン 『おおきな木』 を貰い、最近 村上春樹による新訳で再出版され、話題になっているのを知る。

同じ作者の作品 The missing part - 僕を探しにシリーズは、大好きで、持っていたので、ワクワクしながら、扉をあける。


しかし、まずそこには生気のない目をした少年がいた。
え、なになに? と思いながら読み勧める。

大まかなストーリーは
昔、りんごの木があって、少年(というか幼児っぽい)と木はとても仲良しで、
いつもいつも一緒に遊んでいた。
(ちなみに、英語では、木は ”She” とあらわされ、女性として書かれている)

時は流れ、少年は成長し彼女ができ、木にしばらくの間会いに来なくなる。

ある日、突然少年が木のところへやってくる。
木は昔のように遊ぼう、というが、少年は
「買い物が してみたい。だからお金が ほしいんだ。 おこづかいを くれるかい。」という。
木は困ったけれど、りんごの実をすべて与え
「このりんごを売ってそのお金にしたら」 という。
そして the tree is happy ー 木は幸せでした、と書いてある。

また、しばらく会いにこなかったが、
大人になった少年は家を欲しがり、木はその枝を与え、
the tree is happy ー 木は幸せでした、と書いてある。


年老いた彼は、また突然現れ、船を欲しがり、
木は彼を喜ばせたいがために、愛する彼のために何かをしたいがために、
その幹を与え、切り株になる。
そして the tree is happy....not really. ー 木は幸せでした、、、なわけないですよね、とある。


しばらくして、切り株になった木の前に、よれよれの年老が戻ってくる。

引用
「ぼくはもう、とくになにもひつようとはしない」 と少年は言いました。

###
少年でもなんでもないのに、老人を少年と書いているのは、
木が、彼を一人の大人としてみることができず、いつまでも、自分のかわいいぼうや、でしかない、ことをあらわしている。

もちろん、子供は親にとって、子供であることには変わりない。
しかし、成長していく子供との関係は変わるはずなのに、この木はまるで少年に対する態度を変えていない。
そして、なんでも許してくれる木に精神的にもたれかかる少年の精神性には、何の成長も成熟もみられない。

 
引用
木はいいました。できるだけしゃんと、まっすぐからだをのばしました
「ふるい切りかぶなら、こしをおろしてやすむにはぴったりよ。
いらっしゃい、ぼうや、わたしにおすわりなさい。
すわって、ゆっくりおやすみなさい」

##
老人は肩をおとしてゆっくりと腰掛ける。


そして、本の最後の言葉。
それで木は幸せでした。  おしまい

でも、絵は全然幸せな空気をかもしだしていない。

##########
恐ろしい話だ。
a missing piece のような、生気やポジティブさが、このお話にはない。
1つの物事には、色んな、色んな見方、解釈のしかたがある。
この本が無償の愛、の例として絶賛レビューが沢山あるのをしった。

でも、私には、共依存関係の悲しみにしか、自然を壊していく現代の人間の話としか読み取れなかった。
村上春樹は、愛の光と影を示している、とあとがきで書いている。


木を自然に、少年を人間の象徴として読むと、
人間は、次から次へと木が持っているものを奪っていき、結局木の生命を奪ってしまう。
切り株にしてしまっては、受粉もできないし、実を実らすことも出来ない

この大好きで大事な木、なくてはならない自然、
なくてはならない食料をもたらす、空気をつくる私達生命の源。

その存在に対して、リスペクトはない。
少年に(人間に)、どうやってこの木と、(自然と)長くつきあっていくか、というスタンスはない。

ここに提示されているのはサステナブルではない、人間と自然の関係。
このまま、そこにあるから、と根こそぎ伐採しつづけたら、
自然は壊滅し、人間は食べるものもなくなり、打ちひしがれて枯れはてた自然の中で呆然とするしかない。


そんな警告を、この話から感じる。



そして、これを人間関係としてみたら、先にも書いたように病的である。

自己犠牲にして、全てを与える
という発想でしか相手をつなぎとめることが出来ると信じられない木。

しかも、本当にお互いを思いやる関係が築けていない、ただ利用されてるだけなのに気づかない木。
無心してくるどら息子に、お金を与え続け、息子の真の人としての成長を妨げる木
描かれている木は、どんどん生気がなくなってきて、おどろおどろしい。

相手の心身の成長を助け、相手が自立していく変化の可能性、
それを見守るたのしみ、二人の関係の中身の変化を楽しむ、
という発想はない。

そんなのは、無償の愛ではない。
病的で、自己中心的なな愛だ。
自分が与えたいから、与えてるだけ。
少年が、大きく世界に羽ばたくことすら、本心では望んでいないような、
そんな取り込むような愛。 (枝の形は、まさにそんな形)


切り株になって、はじめて木は気づく。
The tree was happy,,, not really.


永遠に何でもしてあげる、何でも許してあげる 身を削りながら、心を痛めながら。
「「母親」「妻」「彼女」「上司に気に入られたい部下」
他にどんな構図があてはまるかしら?



そして少年は、永遠に成長しなかった。
相手の気持ちを最後まで思いやれない、精神的に自立できない人の例。
どんなに与えてもらっても、与える、ということを学べなかった。
いびつな愛ではあるが、木に愛されることによって、愛することを学ぶこともできなかった。

それは、愛がいびつだったせい?


彼女ができて、家が欲しいってことは、きっと家族もできたのだろうに、
家族を捨てたのか・捨てられたのか、船に乗ってどこかにいきたい、と。

一度も自分の仲間や家族を木に紹介することもない。

最後は、切り株にすわりこむしかない少年。
表情は、暗い。幸せとは、程遠い。

木は、少年の幸せを真に望んでいたのか?
少年は、人としての、真の幸せをたがやす、 という概念すらもっていなかったのか。
その時その時のつぎはぎのニーズを木にみたしてもらって、依存していきてきただけ。

少年にとって、木にとって、人として木として一番だいじなもの、
自分のポリシーは、何だったのか?


困ったときだけ木のところに訪れ、木に無心するだけ。
ありがとう、の言葉もない。
絵に、そういう暖かな相手をおもいやるような表情は描かれていない。


いっちょまえに、あれしたい、これしたい、 と言うが
最後まで、その言葉はそれ以上でもそれ以下でもなく、
せっかく貰ったものを元手に、大きく羽ばたこう、という覚悟はない。

本当に、本当に、その木が大事なら、
お金が欲しいからって、実を全部もっていくか?

その木は、少年のためだけに存在しているのではない、自然の中に生きているのだ
自然の中で、木もまた ”生かされている”のだ。
木に住んでいる生き物、木に守られている大地、みんなかかわりあって生きているのに、
そんな配慮は全くない。

まるで,木は少年のおもちゃのようだ。

家を建てたいからって、枝葉を全部持っていくか?
光をあび、光合成をする、ゆさゆさと音をならしながら風にゆられる楽しみ。
手足を全部奪われたらどんな気持ちか?


困ったことがあったら、全部木にどうにかさせる。
困ったら、自分の大事なものでも、利用できるなら切り崩す。
自分でなんとかしようとせずに。

少年は、木が自分にとって大事な存在だ、という認識がないのかもしれない。

だから、あんなふうに、いつもはほったらかしにして構いもしないくせに、
困ったときだけやってきて、無表情に、木を切り崩して持っていけるのかもしれない。


####
少年が、ちょくちょく木を訪れながら、
自分の人生に起こっていることをシェアして、ともに気遣い、一喜一憂し、
果実がなれば少し頂き、仲間達とシェアし、収穫の喜びを、毎年 毎年分かち合い
落ち葉は腐葉土となり大地を潤し
枝葉が多くなりすぎたら、その分だけ切り取って、
薪にしたりクラフトを作ったり、木の手入れをし、一緒に年月を重ねていく。

周りには、もっと多くのりんごの木が育っていくだろうし、
少年の子供や仲間が、その木と遊ぶことで、
お互いの喜びは、倍増する。

そうやって、お互い健全な体を保ち、
どんなときでも、ずっと相手を思いやり、
相手を思う気持ちを深め合い、
木と少年がいることで、自分達だけでなく、
より周りを幸せにすることだって、木と少年にはできるはずなのだけど。。。。

########
作品をどう受け止めるかは、受け取り手の自由がある。

で、わたしは 
この作品から、
今この時点では、
こんなふうに感じています。
[PR]
by totoatsuko | 2010-10-21 05:04 | Comments(2)

玉三郎 昆劇

友人がいけなくなったので、玉三郎の舞台、一緒に行きませんか?

と誘われ、

ああ!最近、歌舞伎いきたいと思いつつずっと行っていない、いい機会、
と思い、行きます! と即答してから、Webをみたら、
玉三郎プロデュース、主演の、中国の昆劇 「牡丹亭」 だった。

うっすらと、そういえば玉三郎、中国と何かやっている、というのはここ数年間、色んなところで見聞きしたけれど、と思い少し調べてみたら、凄く話題になっているのを知る。

2005年から中国に通い、中国語をマスターし、中国人の観客に絶賛されるまでに至った芸術家魂。
あの年齢で、新しい言語を習得するだけでなく、
明の時代からの歴史をもつユネスコの世界文化遺産に認定されている演劇を、
玉三郎なりに消化し、玉三郎色染めあげてしてしまうのは、ほんとうにものすごいと思う。
それが、どんなプロセスだったか!

以前から、中国と日本の文化交流を夢見ていた玉三郎は、
中国語の勉強や、自分にとってあたらしい演劇の習得は「楽しい苦労です」 と言っていたとか。

その気持ち、分かる!
まったく新しい世界にどっぷりつかって、どっぷりそまって、
そこから、全く独自のものが内面からつむぎだされていくその、深いふかい
内面の根っこのあたりが、ぐわん  と変わっていくプロセス!

しかし、やってることのスケールが違う。

この公演を実現させたことで、
経済的な相乗効果はさることながら、

両国の沢山の作り手たちの、
チームとして1つの新しいものを作っていくことに対するハンパない情熱、
両国の沢山の観客達の深い感動によって、

政治的には、ぎくしゃくしている中国と日本だけど、
それぞれの人の心には、そういうものをとおりこして、

国やそれぞれの文化、というアイデンティティーを背負いつつも、
それらを超えて、お互いに対して、人としての尊敬や感謝の念を喚起している。

政治レベルでは、なかなか導くことができない、自然な一体感、同士感、尊重の念。
心が揺り動かされると、教えられなくても、指導されなくても、
自らもっと知りたい、もっとお近づきになりたい、と思う。

理性や理屈ではどうにも出来なかった、心象 というもの。

心に訴えることが出来る、
いや、魂のレベルまで何かを届けることが出来る文化交流、とは 
こんなことまで出来るのか、としみじみ思った。
[PR]
by totoatsuko | 2010-10-14 16:41 | Comments(1)

切れる寸前

それだけ恵まれてるのに、辛い っていうって おかしいぜ

もっと世の中 辛い思いしてる人 いるんだぜ

辛い気持ちを人に分かってもらえないからって文句言うなよ
自分でそれはかかえておくものだろ


そんなのが自殺したい、って理由にあたいするとは とても思えないね



そういうことを、苦しんでいる本人の家族や友達ですら言ってしまう。

###

辛くて 辛くて 辛くて 

発狂しそうで、おかしくなりそうだから

切れてしまいそうだから

自暴自棄になってしまいそうだから



だから言ってる、死ぬほど辛いって
だから、最悪の選択をしてしまわないようにお願いしてるんじゃない
もうやめて、って。


それなのに、
「常識」からかんがえて、とか
「普通」は何々だから、とか


そんなのと比べられたって、
もっと切れそうになるだけ。

誰かの悲しみや怒りと比べて、
どっちのほうが軽い悲哀だから我慢すべき、
なんてナンセンス。


あまえてる、とか
欲張りだとか、

寄り添ってくれなくて、
批判するような言葉はもっと追い詰められるだけ。


こうするべき、とか
ああいう風に考えるべき、とか
相手やまわりの気持ちもかんがえてみたら、 とか

どれだけ辛いのか、共感しようと試みもせずに、
ここにある辛い気持ちをすっとばして、一般論をかかげられたって、


辛さの中で、
それに自分が飲み込まれて自分を見失い、恐ろしい選択をしてしまわないために

必死で 平常心の部分を保ちながら、
必死に 世間様には マトモそうに振舞っている人の心には届かない。



誰かが死んだって、 死ぬくらいだったら他に色々できただろうに、 
ばかだね、といわれれる。

誰かが死んで、誰かが殺されて初めて、こんなに辛かったんだ、って言う。
悩みは相談されていたけど、そこまでとは、って。


いのちは かえってこない。
そして、みんなすぐ忘れる。

怖い世の中だ。
おそろしい、人とのつながりだ。
[PR]
by totoatsuko | 2010-10-08 10:24 | Comments(0)

Michio

友人を通して、コンテンポラリー ギタリスト Michio とつながる。ハリウッド・ミュージック・アワードにもノミネートされた、作曲も手がけるデュッセルドルフが拠点のアーティスト。

ー 初めての子供を妊娠したとき、これで自分のキャリアがとまってしまうとおもって、悲しくなったものの、
世界を、自分の二つの目だけみるよりも、それぞれの子供がつむぎだすの世界を通じてみれる, 自分ひとりでは行けない世界とつながれたら、もっと楽しくなる! と思ったことがある。

本当に、そのとおりなのを実感してきたけれど、
今回の出会いも、子供を通して出会い、子供関係なくより親しくなった人からのつながり。

日本ツアーの最後に
保育園にきてもらえることになった。

クラッシック・Jazz →フラメンコ を経由して、独自のMichioワールドを築いている、
子供達も、そして大部分の大人にもあまりなじみのないフレージングだったのに、
他の保育園からも集まったKids総勢100人くらい、その中で1歳児ですら、
20分くらいのプログラムを静かにきいていて、Michioも、先生達も びっくりしていた。

やはり本物は分かるのだ。
いつわりも、ごまかしもない、こびもしない、でも本当にスペシャルなもの。
どんなに小さな子供にだって、ディズニーの曲じゃなくっても。

それは、音楽療法士として小さな子供に接していて知っていることなのだけど、
子供達の真剣なまなざしだったり、
複雑なリズムにあわせて、足や手を椅子の中に座っていながら何気なく動かしている子供達。

この企画を受け入れてくれたMichioにも、場所と時間を提供してくれた保育園の先生達にも、大感謝。

それで、子供達って、綺麗な衣装もきっと好きだろうから、
と、ド初心者なのだけど、彼に弾いてもらって、一曲フラメンコを踊りました。

練習着だってまだ揃えてないのに、
今度、こんな企画するのです、とクラスの先輩方に言ったら、
ステキな衣装を何人かが貸してくれて、応援してくれて

他のお母さんが、この企画の宣伝チラシを、とってもカッコよく作って、事前にみんなに配ってくれて、
誰かがビデオとってくれて、(自分のカメラでセルフでとっていたつもりが、電池が途中できれてたみたい・涙)

一つ何かするのでも、
こんな風に、いままでつながっていた人とも、
より違うつながりを見出したり、チーム意識が芽生えたり、
相手の違う側面が発見できたりして、
お互いに対して、もっと深い感情がめばえてきて
とてもとても嬉しかった。

これって、本当に心の栄養。


最後、フラメンコ踊ってみたい人!? っていったら、
男の子も女の子もいーーーっぱい前にでてきて、
あんまり上手に指導? お手本できなかったけど、

「よーーーくMichioの音楽をきいてね。
そして、音楽を体の中にとりいれて、
そしてそのリズムや音を体の動きにしてみて!」

とこえをかけて、
一流の音楽で、私の動きをみようみまねでダンス!


最後に、子供達がMichioにお礼の気持ちをこめて、
雨があがったよ♪ という歌を合唱。
Michioも即席で伴奏。

コンサート終了後終も、フラメンコの手首ぐるぐる回したりして、こども達が余韻をたのしんでいたり、
何曲目の曲が一番すき、といっていた、と先生からきいたり、
家で2歳の子が、少ない語彙と言語能力で、一生懸命その感動を伝えようとしてました、とお母さんからきいたりして、確実に心に残っているのが嬉しかった。

その後、おそばやさんでMichioとランチ。
キューバ人コンテンポラリー ダンサー が妻で、
15年つきあって、結婚して8年、
「never enough」 (永遠に、長すぎるってことはないね) って 
さらっと言ってて、

その余裕がある表現、カッコよすぎました 
[PR]
by totoatsuko | 2010-10-07 13:22 | Comments(0)

タイトルにこだわらない

音楽療法士、
音楽心理療法、

ときどき、その名札や看板が 邪魔に感じることがある。

その名詞に付着する、人々の先入観やイメージが、

雇う人や、
施設や、
これによって、よりよい身体状態になれたり、
今抱えている自覚されてる、自覚されてない、いずれの問題や苦しさの改善になったり、
リラクゼーションやヒーリング体験を自分にもたらすことができる

そのような人たちの足を遠ざけてしまうのは、とても残念だから。


音楽療法や、音楽心理療法、音楽カウンセリングは、
例えば ジムに行って体の調子を整えたり、メインテナンスしたり、新陳代謝をあげたり、リフレッシュしたり、体力や身体機能の強化をはかったりするのと同じような、心の運動、心のジム、のような場でもありうるし、

お医者さんのように、体を診察して、うまくいっていないところの治療をする、
という目的と同じことを、
心に対して行う方法の一つでもある。

音楽療法で行われるプロセスを総称する、
何か色がついていない、先入観がまだ形成されていない、
新しいタイトル ってないかしら、
と思ってみる。
[PR]
by totoatsuko | 2010-10-01 04:36 | Comments(0)

種あり 葡萄

無農薬で、自然に育った たねアリ葡萄をもらった。

種があるからなのか、ひとつひとつ丁寧にたべる感じで、
1個、2個たべると、すごく満足感があるのが、とても不思議におもいながら、
毎日ちょっとづつ食べている。

葡萄の皮も、普段たべるものより厚いのだけど、
噛むといろんな味が出てきて、かわの味もあじわってしまう、、、

作り手・摘む手の思いとか、
大自然の思いが詰まっていたり、
それと私を繋げてくれた、
届けてくれた人を通して、
それらを身近に感じられるからなのか、、

なぜ、ちょっとつまんでこんなに満足して、幸せな気持ちになれるのか分からないのですけれど。。。

そして、古今ではあたりまえの種無し葡萄は、どうやって繁殖しているのだっけ?
と、思う。自然のめぐりでは起こらない展開だ・種がないのだもの。

確かに種がないほうが、するする食べられるんだけど、
久しぶりに種あり葡萄をゆるゆるたべて、
ちょっと食べて幸せな気持ちになって

種 というの存在に思いをはせています。

農作物から種を抹殺する作業
種の存在がめんどくさく感じられる現代の食卓

精子に異変がおきていたり、
精子をアタックする分泌液をだしてしまう膣が存在してきたり

めぐりあわせ、とか
つながっていくこと、とか
矛盾をかかえること、とか

種アリ葡萄が主流だった 子供のころをおもいだしてみたり。

種アリぶどうから、いろんな世界がひろがってます。
[PR]
by totoatsuko | 2010-10-01 03:16 | Comments(0)
line

音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite