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私は逃げることは考えなかった

7月最後の日、日経新聞・私の履歴書欄、
ノーベル賞受賞の生物化学者の下村 修氏の最終回

心に響いたので、一部引用します

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「やりたかったことをやっていて行き詰ったらどうするか」と、聞かれたこともある。
この質問の真意が私にはよく分からない。

すぐあきらめたり、ほかのことに移ってしまったりするのは、それはそのことが本当にやりたかったことにはならないのではないだろうか。

もちろん、人が置かれる状況はそれぞれ異なるだろう。私の場合は生物発光というテーマを与えられ、その不思議さに魅せられつつ、格闘してきた。

ノーベル化学賞の成果となった、緑色蛍光たんぱく質(GFP)の発見までには、同じオワンクラゲからとれた発光たんぱく質のイクオリンや、それ以前に日本で取り組んだウミホタルのルシフェリンの研究が役立った。これらが成功裏に進んだのは、様々な幸運もあったし、巡り合わせが作用した。

しかし、そのような思わぬ偶然を引き寄せることができたのは、少しの失敗は気にせず、あきらめずに努力したためである。試練には何度となく直面したが、私は逃げることは考えなかった。逃げることができなかったといってもいい。

(略)

あらかじめ、予定されている成功などはないのだ。
日本の若い人たちに重ねていいたい。がんばれ、がんばれ。
物事を簡単にあきらめてはだめだ。
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by totoatsuko | 2010-07-31 10:18 | Comments(2)

つらくて、やるせなくて~ がんばって!

d0065558_10231119.jpg 夏休みに入って、ご自身の小学生のお子さんが学校でいじめにあっている、
ということを知ったお母さんから、仲間の女性たちに相談メール。

そうしたら、
実は昔いじめてました・いじめられていました
子供とこんな風にいじめを乗り越えました
今なお学校や地域と格闘中です
以前の新聞にこんな記事が載っていました

と、あっという間に仲間たちから応援の言葉や知恵が集まった。
子供と思う母親たちの、女性たちの熱い思いに、胸が熱くなった。

そうしたら、相談を持ちかけたお母さんが、勇気を出して色んな行動にでた。
ひとつは、今までそつなくやってきた自分の息子をいじめる親との関係が壊れてしまう、
もしかしたら、自分が母親たちからいじめをうけてしまうかも、
もしかしたら、想像を超える意地悪、いやがらせや仕返しを、
想像のつかない相手までもが加担して、
自分や子供にもしてくるようになってくるかもしれない、

そんなさまざまな恐怖を感じつつも、
いじめる子供の親と直接対話を試みる行動をとった彼女。

涙がでそうになった。
がんばって、がんばって、と。

本当に怖いことだとおもう。

自分の子供が他の子供をいじめ続ける事実を知っていても、

あなたの子供がトロイからしょうがないじゃない、
ウチの子だって、いやな思いしてるのよ

と、自分の子供が実際やっていることを見つめようとしない
自分の子供が、誰かの心をズタズタにしている、というまぎれもない事実を知っても
見てみぬ振りや、その状況を放置「することができる」母親が
どんな陰湿な意地悪を自分にしてくるだろうか、と思うと、、、
もし私だったら、身がすくむと思う。

いやな思いを相手に対して持っているからって、
いじめたり、仕返しするのは、絶対間違ってる。

相手を思いやるきもちは、どこへ行ってしまったのか?
嫌な気持ちになるなら、お互いそうならないようにするにはどうすればいいか、コミュニケーションすればいい。相手の態度が気に入らないからって、戦争して、相手の土地に爆弾を落とし続け、相手を破壊する(そしてそれを楽しむ? 他のイライラのはけ口にも利用する)のは絶対に違う!

相談を持ちかけたお母さんの、
みなさんの言葉を読んで涙がでました。
今、これまで親に言わずに我慢してきた息子の寝顔をみながら、ごめんね・ごめんね、と涙する日々。
絶対にあきらめない、がんばる、
という言葉。

自分がこれからどれだけ痛めつけられようと、どんなに中傷されようと、受けてたつ!
絶対にこれ以上子供を傷つけるのは許さない、
そんな強い決意と覚悟と、
きっとその裏にある、これから起こるであろう逆襲のようなものに対する恐怖も察せられて、、、

ただただ、次々と涙が頬をつたい、
メールに向かって、心でがんばって、頑張って! 
どうか、彼らに心静かな、当たり前にあっていい平和な日常が訪れますように、
と、胸に手をあてて祈っている自分がいた。
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by totoatsuko | 2010-07-31 09:31 | Comments(0)

合気道 @ Living Dreams

5月に参加したTED X TOKYO で知った、Living Dreams という、東京の児童養護施設(実の親や家族となんらかの理由で一緒に暮らすことが出来なくなった子供たちを引き取る施設)の子供たちむけの、アートキャンプ、

グループメンターとして参加しています。

私のチームは、7-9歳の男の子と女の子、8人くらい。
でも、他のチームの子供たちとも沢山交流します。

ついつい、職業病でこの子達はどういう経緯で施設に入ったのだろう?
この笑顔の下には、どんな心が置き去りにされているのだろう、、、
と自動的に感じ取ろうとする自分を制して、
音楽心理療法士としての自分はおいといて、
純粋に、初対面のこどもたちと「出会い」「親しみ」「深める」課程を、楽しんでいます。
大人の初対面の人との関係の深まり方とは違うところがあって、面白い。
そのなかで、自分が何を感じているのか観察して、それも楽しんでいます。

プロの写真家や音楽家、ペインティング アーティスト、マジシャン、合気道の先生、ヨガの先生・・・
子供に便乗してワークショップに参加しているけど、
こんなプロフェッショナルな人たちと交流できるのも、とっても楽しい。

今日は合気道。人生で初めてみたのだけれど、哲学の面でものすごくおくが深いことを知る。
日本文化の、相手とマトモに戦わない、攻撃されてもかわしつつ、これ以上自分が攻撃されないていどに相手を床に沈めるが、しずめられる相手も、相手に静められる課程をたのしみ、相手の呼吸をよみながら、自分の負傷を最低限にするために、気を、間を合わせる。

まさに合気道。

アメリカの、あるトランスパーソナル心理学Ph.D プログラムには、合気道が必修のクラスとして名を連ねている。何故だかさっぱり分からなかったけど、実際の合気道をみて、その動き、二人の調和された戦い、というよりは混じりあいの呼吸や哲学が、なんとなくトランスパーソナルな考え方につながるのが少し分かった。

戦わない、正面から相手の攻撃を受けない、相手に致命傷を負わせない、
すごい日本的。

ターミネーターのような、心を持たない残虐な相手だったら、
ーそんな戦い方が、そんな生き方が、そんな人間関係が、今の日本では増えつつあるので
相手を殺すか殺されるか、という殺伐と緊迫した状態だから
そんなことは言っていられなくて、
(それでも、自分のありようが、相手の心を引き出せれば変わるのかもしれないけど。。。)
とにかくどうやったら相手をやっつけられるだろうか、
どうやったら早く相手の息の根を止められるか、
と考えなくてはならない。

そういう鋭い気持ち、というのは、
本当の戦いの場でなくても、私たちは日常の人間関係に持ち込まれているはず。

(まぁ、全力を出し切ってお互いの全てを、相手をかまわず出し切るることによってでしか分からない自分自身の、そして相手の本性、というもはあると思うし、殺しあって、死と再生のプロセスという強烈な体験をすることでのみえられるものもあるが。)

合気道の場合、
みていたら、バン! と凄い音はしてるし、ヒトは空で回転してたりするんだけど、
なんだか猫のじゃれあい、というか
相手に向かっていっているんだけど、殺意も敵意も競争心もなくて、
相手と体をまじえ、相手の体を投げたり、自分が投げられていくなかで、
両者の間で、そして、両者の周りで、エネルギーが回り始め、
最終的に、そのぶつかり合っていたエネルギーが、同じ方向にまわりはじめて、
なんらかの調和をうみだしていくようなプロセス。

ホントは、じゃぁやってみよう!タイムで参加して体で感じてみたかったのだけど、
あいにく巻きスカートだったので断念・・・ 残念。
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by totoatsuko | 2010-07-27 17:35 | Comments(0)

自分のルーツを知る II

夏休みのアクティビティーの一つに、自分の物語をかく、というのをやってみては?

どんなおじいちゃん、おばあちゃんで、
どんな場所に縁があって、
どんな風にいきてきたか。

そして、
どんな父親、母親で、
どんな風に育って、
どんな風に出会って、
どんな風に自分を育て、
どんな風に親のことを感じていたか。

履歴書のように事実を並べるのではなく、
「物語」をかくつもりで書くのがポイント。

そのほうが、いっぽひいて、
事実のみならずそこに渦巻く人間の感情を愛情をもって描写しやすいから
それぞれの千差万別な人生をみつめ、
自分との関係を日常とは異なる視点で捉えることが出来やすいから。

そして、完成した物語を、「ある人生の物語」として読むことにより、
よりbig pictureで自分の生き方をとらえなおしてみれる、
自分の進んできた、
自分がすすんでいくように思える道を
例えばヘリコプターで低空飛行しながら
千年以上つづく海や山や渓谷や畑の様子をみるように、
全体図をみながら、それぞれのつながりを、生態系を確かめながら
自分のルーツを、自分の作ってきた人生を、物語として味わってみる。

誰かに読んでもらって、
その自分という人間の物語が、どんな一人歩きをしていくのか見守るのも面白いかも。

さて、読み手に、自分に、どんな読後感が残るのだろう?

とても興味深いプロセスです。
実際、サイコセラピー、音楽心理療法セッションでも使ったりすることもあるテクニックの一部でもあります。
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by totoatsuko | 2010-07-21 10:09 | Comments(0)

自分のルーツを知る I

久しぶりに母とゆったりした時間を過ごし、
私が子供のころに亡くなった母の母の話になった。

どんな家に育って、
どんな風な親に育てられて、
どんなことに興味があって、
どんなことが好きで、
どんな風に結婚して、
どんな信念をもって生きて、子供を育てて、
そんな母親に育てられた私の母親はどんな風に思っていて、、、

once upon a time, there was a little girl living by the sea.
むかし むかし 海辺に小さな女の子がいました


祖母 という一人の女性の物語
その物語は、まだ続いている。
母を通して、私を通して、彼女と関わった人、物事全てをとおして。

何か社会を変えるような大きな事をなしとげたわけではない。
でも、私にとっては、私の母にとっては、とても とても 大事な彼女の物語。
彼女が一生懸命生きた、その事が、とても とても いとおしく かけがえのないものに感じる。

この物語や、彼女と過ごした時間の記憶は、
今なおもって、私に目には見えないし、直接のアドバイスではないけれど 
心にすっと何かを感じさせてくれる道しるべを示してくれているように感じる。

あの人の、真摯に困難に立ち向かい、心から人生を楽しみ、
強い思いを持って生きた、その思い、気持ちを受け継いでいると感じたとき、
自分の中に「誇り」のようなものを感じた。

自分にとって大事で尊敬し敬愛していた人がはぐくみ、
大切に受け継がれてきたもの、スピリットというか、、、
を受け継いでいる、
その継承者である、という背筋がのびるような、「誇り」のようなもの。


どんなにズタズタな状況になろうとも、
武士が決して武士の誇りを捨てなかったように。


どんな細部も語り継がれるに値する
いい部分も悪い部分も、
誰に語り継がれても恥ずかしくない

そんな物語にするために、自分の人生をいきるのではない。
それは本末転倒。
(それが人生の目的なら、チープで表面的に取り繕った人生にしかなるまい。
誰かに評価される伝説づくりのためだけに命が与えられたのだとは思わないから。)

でも、自分が真摯に、与えられた命を一生懸命生き
心臓が止まり、肉体が風化し、
その人の存在を直接知っている人が少なくなり、
余計なものがそぎ落とされて
大きな軌跡が「結果的に」語り継がれる事になったとき、
その人の生き様は、その人は伝説になる。

伝記になって出版されるような人生であろうと、そうでなかろうと、
その人に関わった個々人にとっては、かけがえのない一人の人間の物語になる。
それは、全ての人にあてはまる。
全ての人生は、特別な物語だ。

精子と卵子が結合し、種が子宮のベッドに植えられたときから、
その種自身のストーリーは始まっている。
どんな環境に芽吹き、どんな葉の形をし、どんな花や実をつけるのかつけないのか、
途中で枯れて、大地の養分になって次世代をはぐくむのか、そうならないのか、
それは、種自身がつくっていくしかない種に託された可能性。

お盆もあと一月弱でやってくる。
その時期に実際に祖母のお墓を訪れることは出来ないのだけれど、
あらためて聞いた「彼女の思いがつまった生き方」に感謝しながら、
彼女の人生に思いをはせながら、私へと脈々と流れているものを感じ、
その感覚に包まれながら迎え火をしたいと思う。
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by totoatsuko | 2010-07-21 09:54 | Comments(0)

ウーマンリブー女らしさの否定ではない

アメリカのウーマンリブが始まったころは、
とにかく女性に与えられていなかった権利や社会的地位、などを手に入れるために

男と女は平等だ、と
同じだ、と

訴えるしかなかった。
それくらいメッセージを単純化しないと、男性にも、女性たち自身にも
男性と女性は、同じ人間である、という意味で平等ではないか、という概念を伝え、
社会的に大きなムーブメントを作れなかったかもしれない?


でもウーマンリブが進化していくと
ー 男女は平等だけど、同じではない。
ー 同じ一人の人間である、ということで
どちらがオンナだから、オトコだから、というだけで人間的に上である、下である、というのはないけれど、
女らしさ、男らしさ、というのは確かに存在し、
女性が男性と対等であるために、女らしさを捨てる、というのは、違う、、、

女性が男のように振舞う
これまでの古いタイプの男性の働き方のように働こうとする、
女性らしさを極力表にださないようにする、という努力をするのは、
かえって自分たちの生まれ持った女性、という性を大事にするどころか
自分たち自身で否定していはしまいか?

という議論も出て来た。
(ウーマンリブの専門ではないので、学術的な視点で書いているのではないので、悪しからず)

先日の投稿でも書いた woman empowering conference のパネルの一人、
北欧の女性は、
「もう女性の権利がどう、とかいう概念は持っていない。
人間としての権利として、古い体質の社会やコミュニティーの中で議論している」 
と言っていましたっけ。

まだまだ、女性からも男性からも、
女性・男性は人間という意味では同じであるが、
性として確実に違ってもいる、という
これまであまり日本では浸透していない、
かなりの矛盾を含んだ、それゆえ真実を捉えていると私は思うこの概念

アメリカのようなウーマンリブ、
あの戦いのようなキャンペーン、現象、
日本社会は経験していない。

矛盾を、相反するものを否定せず、矛盾を内包し続けるのは
この問題にかぎらず
心理的には、なれていなければなおさら大変なことなのだけど、
大人になる、
人間として、
社会として、国として成熟していく、
というのは、そういうことも出来るようになる、
そういう矛盾の複雑な味も、おいしく楽しめるようになる
ということではないか、
と、思った夜でした。
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by totoatsuko | 2010-07-19 22:13 | Comments(0)

シンプリシティー

たまたま出会った建仁寺@京都のHP の管長 小堀 泰厳さんの言葉

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最小限、最低限のもので生活していくというのが私たちのやり方ですね。
贅沢というものは煩悩、妄想であって、それを外すというのが私たちの大きな目標です。眠るのも最低限。寝る場所も畳一畳。寝て一畳、起きて半畳といいますから。
修行道場の禅堂では、みなの生活するところは本当に畳一枚が自分の場所として与えられ、就寝も食事も座禅もそこで行います。持ち物は体にくっつけられるものだけ。余分なものは持たない。それでじゅうぶん、生活できるんです。我慢しているわけではない。不自由ではないんですね。

 簡素に生きる。これがいちばんの贅沢だと思います。なかなかできないかもしれませんが、やってみると一番の贅沢だということがわかると思います。満足の上限をおさえれば、心穏やかでいられます。
  寒い時に寒くなる。当り前のことです。でも、暖房を入れたら、少しでは満足できない。暑い時にも中途半端な涼しさでは満足できない。いっそのこと暑いときには暑い生活をしてしまえばいいんです。庭に水をうつ。
それで涼が得られたんですからね。

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すごく共感。

ただ、なかなか
>我慢しているわけではない。不自由ではないんですね。

という感覚は、周りに理解されにくくて、
概念はステキ、と思う人は沢山いても、
実際やるとなると、あるいは、実践している人をみると、
貧乏くさい、とかかわいそう、て思っちゃったりするんですよね・・・

最後の段落を読んでいるだけで、
打ち水の美しい情景が思い浮かんできて、
涼しい気持ちになりました。
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by totoatsuko | 2010-07-14 10:41 | Comments(0)

音楽療法講座@国立音大

恩師や仲間や music for life (私の好きな本の一つ)のGary Ansdellが
8月3-5日 国立音大に会します!

一般の方も、専門家の方も楽しめる内容構成のようです。
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by totoatsuko | 2010-07-09 11:39 | Comments(0)

先入観

ものごとを見るとき、私たちは絶対に色眼鏡をかけてみている。
人間である以上、色眼鏡をかけずに見ることはできない、といっても過言ではない。

例えば、赤いりんご。
それは、人間の構造としての「人間の目」によってみたら、赤だけど
トンボや犬の目からみたら、モノトーンだったり、平面的にしか見えなかったりする。

私たちは、育っていくなかで、文化とか環境とか親とか、色んなものに影響を受けて自分の価値観や物事にたいする固定概念が形成されていく。

例えば、「男性とおもわれるひと」が正式なパーティーでお化粧をしていなくても、何も思わないが「女性とおもわれるひと」がすっぴんだったら、ちょっとひくだろう。あるいは、ひくところまではいかなくても、「男性」にたいしては思わない 「なぜこの人はこんなフォーマルな場でフォーマルな装いをしているのに、顔だけお化粧していないのだろう?」と、相手の状態をいぶかしく思ってしまう。

それは、私たち

(といっても、全ての文化の全ての人たち、という意味ではなく、civilizeされた日本やアメリカやヨーロッパ、などをざっくりイメージして書いています)

が、男性というもの、女性というもの、 パーティーという場、などに対して、ある一定の期待や概念という色眼鏡を、無意識のうちにかけてみているから。


郷に入れば郷に従え、で
その文化に入れば、みんながかけている色眼鏡をかけなければ理解できないこともあるし
楽しめないこと、意思疎通がうまくいかなくなることだってある。

でも、その便利な色眼鏡。
かけていることを忘れて、
必要じゃない場所や違うカルチャーや価値観、人間関係の中でも、ずっと一つの色眼鏡をかけ続けっぱなしなのは不自然だし、自分でかけたり、はずしたり、自分が主体性をもって「使いわけ」できないと、自分の目は養えない。ちゃんと自分の心の目で物事の真実を捉えることはできなくなるのではないか?

時々は裸眼で物事をみて、
ある特定のカルチャーメガネでは赤に見えるものだけど、
自分には青にしか到底みえない、
という、常に進化し続ける自分の裸眼と色眼鏡のギャップを把握し、
自分の素の感性を退化させず、
常に心の目を忘れず感じ続けることは、
かけている色眼鏡によって自分の世界の捕らえ方やいき方が翻弄されないためにも
自分の本当の目は、何をどう捉えているのか忘れないためにも
とても大事なことではないかと思う。
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by totoatsuko | 2010-07-08 15:47 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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