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tomさんの非公開コメントを読んで・塔を組みなおす作業

そうですね、「虐待」って言葉がカバーする関係って、ほんとうに千差万別。
そして、その心の構造って、長い間色んな要因で培ってきて出来たものだから、
その構造を変えようとするのは、本当に大変な作業。


生まれたときの状況とか、家庭環境とか、文化とか、そのコミュニティーや出会った人の価値観とか、
本当にさまざまなものに無意識に影響されながら、私たちは自分が生まれ持った要素を化学反応させたり、表面にペンキを塗ったり、剥いだりしながら、自分の状態がつくられていく。

そこで、結果的に相手に対して虐待的な関係を相手が変わっても、変わらなくても、
相手をひどく傷つけることを繰り返してしまう
相手の体を心を瀕死の状態においやっておいて、
ごめんね ごめんね ごめんね 本当に愛しているんだ、大事なんだ、ほんとうに反省してる
そして、同じことが繰してしまう、心の構造がつくられていく。

相手の心を殺す、相手の心が死んでしまっても、
それは、なかなか視覚的にはみえないけれど、

例えば、誰もが目で捉えることが出来る、相手の肉体の死を持ってしても
自分の心の構造が病的だと思わないし、
たまたま運が悪かった、
ついやりすぎてしまった、
という感じで号泣 & 猛反省だったりする。

今までの日本は、
それは心の専門家のところに行くべきことに相当する状態だ、と言ってあげる人もいなかったし
そういう人の心の構造を根本から変えるサポートが出来る専門家も少なかったし、
そういう専門家のところに行く、ということ自体、人の目を気にしたりして行き難いと思っている人は多い。

そして、又他の相手と虐待関係は再現されるし、
自分がその虐待関係の中でどんなに嫌な思いをしていても、
子供やパートナーにも、再現してしまう。

でも、でも、でも、ほんとうに気づかない、本人は。
相手にどういうことをやっているのか。
そして、やっぱりこれもすごいことなんだけど、
ほんとうに虐待のメカニズムは巧妙だから、
虐待されてる人も、辛い、と思いながらも時折示される相手の愛情を信じて
これは虐待・病的なものではない、と自分を言い聞かせてしまうんですよね。

やっぱり、自分が大事だと思っているひとには、愛されたいもの、愛したいもの。
どんなに嫌な思いをさせられても、
やっぱり、「愛しているんだ」と伝えられれば、それを信じてしまう、信じたくなってしまうもの。

今日たまたま人と何気なく喋っているときに出て来た例えが、
虐待の心の構造は、決して一人では変えられない。
それは、例えるなら、ブロックを何千万と積み重ねてきた塔。
それは、何かの拍子に内側で崩れたり、爆発したり、バランスを崩しそうになったりするので、
もっと安定したものに変えたいと思う。
でも、自分ひとりで出来ること、というのは、どんなに努力しても、表面をいじったり、上のほうをいじったりすることしか出来ない。

土台から組みなおそう、根本的なところの内部もみてみよう、という試みを一人でするとなると、
いったん自分が崩壊するしかない。
life changing eventなどは、そういう役割をしてくれるわけだ。

でも、自分が日々の生活をまわしながら、土台から変えていくには、
専門家に塔が崩れないように、どこかで支えてもらいながら、あるいは支柱の一部になってもらいながら、
とても注意深く土台のあたりを解体して何がそこにあって、それぞれの要素がどういう働きを持って、それぞれがどのように関係していて、どういう力学を生んでいたのか・例えるならそういう作業をして、そして、もう一回、自分の手で組み上げる作業。

子供のときは、無意識に、そしてほんとうにスポンジのように受身で組み上げた自分を、もう一回、自分の持っている素材と、新しい素材を使いながら、成長した自分自身でひとつひとつ組み上げていく作業。

それは、とても大変だけど、、、、でも、そこまでしないと、虐待の、いやそれだけではない心の構造って、変わらない、
ものすごいものだと思っています。
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by totoatsuko | 2010-06-29 17:59 | Comments(1)

似たような心理メカニズム・振り込め詐欺&虐待

新聞で、「振り込めさぎの手口に引っかかるな特集」

虐待のワナにひっかかるな、と、思わず心の中で言い換えていた。


振り込めさぎに引っかかってしまう心理も、虐待関係に舞い戻ってしまう心理も、共通点多し。

1.自分はそういうのには引っかからない、自分の関係はそんなのとは違う、という確信に満ちた先入観  
2.相手の言葉は、巧妙に心理的弱みをうまく突いているので、
相手の言葉に「感情がゆりうごかされ」、信じてお金を振り込む、
何度も相当傷つけられてきた虐待的な関係であるのに、こんどこそはきっと本当に心を入れ替えてくれたのだ、と信じて、舞い戻る。

シェルターに逃げた女性や子供も、虐待者のもとへ 「自ら」 戻る決定をする確率がとても高いのだ。

両者が異なるのは、同じ相手との間で1回きりのイベントか、連続的に繰り返されていることか?


振り込め詐欺、の場合、それは「詐欺ですよ」と誰かに言われたら、やめることが出来る。

でも、虐待関係にある場合は、「それは明らかに虐待されてますよ」と言われても、
「でも、本当に心から謝ってくれているんです」
「でも、それと同じことが過去に何度も繰り返されてきたんですよね?
謝ってくれて、愛してるよ、と言ってくれて、、、そしてまた痛めつけられる、ってことが。」
「ええ、でも一回、一回、状況とか、起こった理由とか違ってて、私が悪かったときもあるし、、、」
(相手が自分を痛めつけるのは、自分が悪かったせい、という思考回路が始まるのも、よくあるパターン)
「分かりました。でも、本当につらいんですよね?嫌なんですよね。それは事実なんですよね」
「ハイ、、、、でも、彼いいところいっぱいあるし。私には彼しかいないし・・・」
(注:クライアントとの会話ではありません)

それに、虐待している側の人は、自分は「虐待者」に分類される、自分がやっていることは「病的」なことだ、とはつゆも思っていない場合が多い。ついやってしまう、程度だと、そうしてしまう自分を根本的に変える策をとろうとは思わないけど、自分が、ニュースでも騒がれている「あの、虐待、というものを実践しているんだ」と、自分が相手に対してやっていることの恐ろしさを本当に気づいたら、専門的な介入を探し始めるなりなんなり、いてもたってもいられなくなるはず。


虐待者も、虐待される側も、その事実を誰にも言わなかったり、本当に親しい友人一人とか二人とかにしか言わず、しかも酷さを差し引いて話す場合が多いので、ことの重大さを認識しにくい。自分自身も、周りも。
でも、ほんの些細な悩みだったら、いろんな人に話して話を聞いてもらうことによって、自分の気持ちを再確認したり、いろんな視点を貰ったりするのだから、どんどん話していったらいいのではないかと思う。(ああ、でもそれによって、”バラしたな!!! と更なる虐待をされる場合があるので、本当に注意深くする必要もあるのだけど・・・・” )

虐待は、関わっている人の過去から構築された心の構造が絡み合って起こっていることがあるので、
振り込め詐欺解決のようには、一筋縄ではいかないのが現状で、
それは社会的な問題として、今はまだまだ表には出きっていないけれど
(昔に比べれば、随分認知度は上がったけれど)
これからますます大きくなっていくのではないかと思っている。
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by totoatsuko | 2010-06-26 10:01 | Comments(1)

マクロをやってる人にも相手を尊重できない人はいっぱいいる

またまたjagapockle さんの新しいコメントを読んで思ったこと。
inspiring なコメント、ありがとうございます。


お肉やお酒を飲むことを潜在的に悪いと思っているかどうかは、その人にしか分からないことだと思っています。本当に。それに、お肉やお酒を飲むことが絶対的に悪いと思いなさい、とはマクロビオティックは教えていない、と私は思っています。

そう、マクロをやってる人にも相手を尊重できない人はいっぱいいるんです。
マクロじゃない食事スタイルをしている人を、なんか悪く思ってしまい、
ニュートラルに、「自分と違う食や生きかたのポリシーを持っている人」と、相手を思えない。

マクロをやっていない人に対して、否定したり、攻撃したくなってしまう。
宗教間、国同士の闘争は歴史的に繰り返されていますから、その避けがたい現象は歴史が証明してくれていますね。

まぁ、自分にダメージを与え続けてくる相手にたいして、やり返したくなる気持ちになるのも、当然といえば当然なのですが、それでは憎しみしか生まない。それは、マクロビオティックを創始した桜沢先生他、の方々の本意ではない。マクロビオティックの哲学ではない、と私は思います。



「自分”たち”」と違うことを「堂々と」する人が目の前にいる、というのは、「自分たちが大事だと思っている形の” 和”」(調和にも、いろんな形があると思うのですが、そういう発想はあまりない)を乱されるのが嫌で、だから、違う要素を持つ人と、新しいハーモニーを創造するためにはどうしたらいいのだろう、という視点をもつよりは、「集団で」攻撃や否定したくなるのではないかと思っています。

でも、私は新しいハーモニーを探求していきたい、私を否定する人たちとも、決してあきらめずに。そのプロセスはとても大変だと分かっているけど、そのプロセスでしか生まれない素晴らしいものがあると信じているから。

自分と同じ価値観の人とだけで固まっていたら、それが最初はどんなにクリエーティブなものでも、すぐ退化していくと思うので。

マクロビオティック、ってなんか宗教みたいなイメージを持つ人もいるのですが、
宗教のように自分を導いてくれるグルもいないし、「-せねばならない」という教えもない点で全くちがっていると思います。マクロビオティックのクラスで学んだことは、自分で「感じて」「考えて」「実践して」いく中で、日々自分の中で変化していくものなので、「自分」がなかったらとてもやりにくいと思います。

かたや、常に否定的な目を投げる人との関係も同時に取り組む必要があり、そういう人たちは、どうしていいかわからない、迷っている状態を暖かくはなかなか見守ってくれませんから。。。何をどうやるのが「正しいか」というのを、マクロビオティックは与えてくれないから、本当に自分との対話をせざるをえなくなるし、その中で自分と向かい合い、マクロビオティックを自分のものにしていくプロセスを踏んでいかなければならない。

それはそれは大変なプロセスでもあり、しかし、自分らしく生きていく、クリエーティブに物事に対してよりオープンになっていける、有意義なプロセスにもなりうると思います。

心理療法、あるいはわたしの仕事である音楽心理療法では、そういう大変な自己探求や、うまくいかないことへの自分らしいひもときの方法を見つけていくプロセスを専門家としてサポートしていくので、
その道のりは大変ではあるのですが、少なくとも、一人で立ち向かい、一人で穴にはまって苦しんで自分がもしかしたら腐ってしまうのを避け、自分の心が必要としているプロセスを行うことに集中できる環境を整える役割をセラピストはしています。
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by totoatsuko | 2010-06-22 14:24 | Comments(2)

individuation process

Jagapockleさんのコメントを読んで、
自分と、人とのかかわりの中で、刻々と変化してきて、刻々と変化していっている自分自身のマクロビオティックとの関わりを思いながら、感じたこと。

日本でマクロビオティックを自分の中に取り入れて生きていくのって、ほんとうに大変なことだと実感しています。アメリカだとベジタリアンと肉食のカップルがいて、違うものを食べて仲良くしてるし、何かの集まりでも、違う食のスタイルの人が、なんの障害もなく人間関係を築いていっている。人と違うこと、がそもそも当たり前な文化と、人と同じであることが当たり前な文化、という違いからなのでしょうか。

マクロビオティックに限らず、人と違う自分であることは、ものすごい攻撃や批判やいじめにあいます、日本では。いままで自分にとって大事な人からも。とても辛くて大変なプロセスだと思います。


個人レベルから社会レベルまで全ての段階で、
人と違うこと、やDiversityを内包する内的強さをはぐくんできていない歴史を持つ日本社会で、
マクロビオティックを個人のライフスタイルに取り入れていく、というのは相当なチャレンジだと思います。

しかし、これまで人の目や常識、など外の声や空気に知らないうちに取り込まれていた自分が、
マクロビオティックに出会い、それを通して自分の心や体の内なる声により耳を傾けようとしていくプロセスは、ユングのいうindividuation process -自己実現のプロセス を喚起することになるのではないか、と最近思っています。

individuationは、セラピストというプロフェッショナルのサポートをもってしてサイコセラピーのプロセスの中で展開していくことができる、個人でやるには不可能な心のプロセスです。自分は誰なのか、自分探しのプロセス。よく間違われるのですが、individuation processが進み、自分らしくあることを認めることができるようになる、ということは、とても自己中心的になる、ということではないのです。自分をよりよく知ることで、新しい周りとのかかわり方も開けてくる。。。と書きつつ、なんだか違う、それだけではない、と感じていますが、それがこの投稿のメインテーマではないので、ここら辺で切り上げて・・・



自分の心や体に耳を傾け、地球とどうかかわって生きて生きたいか、という視点に重点をおいたら、すぐさま家族や友達や社会との調和を乱す、その上、あなたの態度は人の気分を害する、とまで言われてしまうことも多いと思いいます。

人と違うことは、人を批判することでも、否定することでもないのに、
今まで自分とある一定の価値観が違う、という人と真剣に向かい合ったり、
異質なものをいかに内包するか、という取り扱い方を一般的には家族も学校も社会もモデルを示してはいず、(示されるのは、どう排除するか、潰すか、ということでしょうか)
異質なものに侵略されるのか、自分が染められてしまうのか、不安が恐怖になり、出来るだけ早くつまはじきにしよう、という力学が働きがちです、この「人と同じ」ことが大事な日本は。

マクロビオティックをやる、ということはただ食事のスタイルを変える、ということではなくて、
体の状態にセンシティブになり、体や心の声を今まで以上に聞こうとし、
今までの自分の生き方、自分の前後のジェネレーション、自分とつながっている先祖のことまで
あらゆることに思考、思想が広がっていきます。思いをめぐらせていると、地球から宇宙の法則までつながっていきます。自分を批判していくる人々も、また、自分の闇の部分をrepresentしているわけですから、切り離すものでも、否定するものでもありません。

人と違うことがこわい、それはそれで、その人にとって真実であり、
そういう恐怖は、マクロビオティックをやっている、いない、にかかわらず、
どの人の心にも必ず存在するものです。

だから、目の前で自分、あるいは”自分達”と違うポリシーをもって生きている人にであったら、
自動的に不安感が無意識のうちに自分の心を覆い、
無意識のうちに、”違う人”を”攻撃”してしまい、
そうすることによって、自分の正当性を示そうとする心のパターンがあります。

本当に残念だなぁ、と思います。
その”違う”とみなされた人は、目の前の”自分と違う”(けど、その社会ではマジョリティー)人を否定しようとも、不安に陥れようともしていなくて、ただ、自分の信じている生き方をしているだけで、たまたまそれがマジョリティーの形とは違っていただけ、というだけなのに。。。

マクロビオティックの考え方が自分にしっくりして、それを取り入れて生きていこうとおもったら、人と違うことで向かい合わなくてはならない、自分自身の「人と違うこと」に対する恐怖を乗り切らなくてはつづきません。恐怖を感じ、でも自分の信念も感じ、そのつらいつらい長い葛藤のなかから、知らなかった新しい自分が生まれてきます。

マクロビオティックをやること、あるいは、自分の信念を持ってそれを生き方に反映していくこと、それは、本当にこの日本では危険な行為だと思います。日本以外でやるのは全く問題ない、というか、いちいち話題すらならないissueだとおもいますが。 だって、いろーーんな食の生き方のスタイルの人がいるのが、当たり前だし、同じがボトムライン、という日本を含むアジアの国々でも、外国人としてその国の人と違うことをするのは、例外的に認められるから。

その辛さに耐えられなかったら、周りの攻撃に耐えられず、周りに自分の信念をうまく伝えられなかったり、うまく受け止めてもらえなかったら、自分が納得する生き方を捨てて、周りがいいという、いわゆる”あたりまえ”な生き方、食べ方に戻す人も多いです。でも、一度”あたりまえ”な食べ方に疑問をもってしまったら、周りの攻撃に耐えかねてもとに戻しても、火種はずっと自分の心の中でくすぶっています。その火種は、自分がふたをして見ないようにしているがゆえに、その状態を常に把握できないため、時折爆発したりして、自分自身や、まわりの人に大やけどを負わせてしまいます。

セラピーのプロセスとまさに同じ。自分のみたくないものを見なくてはならないときがある。自分の弱さや汚いところ。今まで見ないようにふたをしてきたもの、表面に色を塗ってはたからはカッコイイものに見せていたもの、それをちゃんと受け止め浄化・消化・昇華していく作業。 それは、ものすごく大変なプロセス。はんぱではない、決して一人では出来ない、中途半端な気持ちでもできないプロセス。でも、本当の自分を知り、どんな側面の自分も認め、矛盾する自分を内包できる強さをはぐくむためには不可欠な作業だと思います。
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by totoatsuko | 2010-06-15 10:57 | Comments(1)

パパは子育てのサポーターではなく、対等なチームメート

父親の子供参加について、女性の国際会議のパネルの一人だったfathering Japan の安藤さんと会話する。 今の日本の多くの父親には 子育てプロジェクトで自身がco-partner という自覚がなく、せめてsupporter の役回りをしていると自己満足。子育ての当事者意識、あるいは、co-partner という重要なポストに自分がいる、という自覚がないか、発想すらないのか、そういう意識はあっても、行動が伴わないのか。

ノルウェーでは12週間の育児休暇をとる男性は90パーセント、日本は3パーセント(日本の数字は正確ではないが一桁だったことは確か。あしからず)くらい。

また、サポーターとして自分がどれだけ役立ってるか妻に評価してほしい、という願望がよくあるときく。
また、妻が評価してくれなくて、妻が子育て大変で化粧もおしゃれもしなくなった、と愚痴人が多いときく。

そして、浮気。
よくあるパターンなのだそうだ。

何度かの離婚の危機をのりこえた安藤さんが言っていた。
自分で育児休暇とって自分ひとりで子供見てみることをすすめる。
子育てしていると、化粧とかおしゃれとか、そんなこと言ってる気持ちも時間の余裕もなくなる、って事が、やってみて初めて理論だけじゃなくて、気持ちの面から男が共感する。 いかに大変か、そしていかにfruitfulな時間か実体験することによって、妻への本当の思いやりが、共感が生まれるのだと。そうして初めて、自分が主体的に子育てにかかわることで、子供との関係も濃く、色合い豊かになり、かつ妻の負担が軽減され精神状態もよくなり、夫へ愛情をそそいだり、お洒落する余裕も生まれる、と。

子育て期間中の離婚って、離婚の3分の1くらいだとか。
多くは、父親が外にオンナつくるのが理由らしい。子供、という二人の関係に新たに加わった因子により生まれる二人の間でおこるいざこざが嫌になり、そのいざこざいを、一度は愛したパートナーと向かい合って乗り切ろうというめんどくさい事をするよりは、外へ逃避する。子供が小さい、一番手がかかる時期に、一番父親・夫との共同チームワーク、チームメートとしての自覚とクリエーティビティーと問題解決能力が必要とされている時期なのに。一番子供たちが母親と一緒に父親が実質的にかかわる時間を必要としているときなのに。。。違う価値観をもつ、人間がdeep commitment することによって子供の学びの幅の広さや提示できる世界の深さと広さは、掛け算できるのに。まぁ、広くて深いのがいいとも限らないが。

一生のうち、「人間の土台が出来上がっていくプロセス」という、ビッグプロジェクトに深くかかわれる乳幼児期はとても限られているときに家を出て行ったり、妻とのプロジェクトから抜ける人が多いという現実。

でも、最近いくつか離婚したお母さんと話す機会が偶然あって、家の中で男性モデルがいなくても、男女関係をモデルできなくても、学校や社会や地域で見つけることだって出来るのだから、お互いをリスペクトしてない、あるいは関係にtruely コミットしていない男女関係を身近で子供に提示しつづけつつ婚姻関係・同居関係を続けることがonly one choiceではないよね、という話をしたところでもありました。
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by totoatsuko | 2010-06-12 23:21 | Comments(0)

国際会議:女性のエンパワーメント = Diversity

国際会議:女性のエンパワーメント@ セルバンティス文化センター に行ってきました。
プログラム

心をつかんだテーマの一つはdiversity - 多様性.
新しいものを生むために不可欠。男社会に女性が進出するのも多様性を加える。似たもの同士がアイデアこねくり回していても、 出てくるアイデアは限られている。

Diversityがなければ、なかなか真のイノベーションは起こせない。そして、変化が起こるとき、というのは必ず抵抗が起こり、真に新しいものに生まれ変わるには時間がかかる。多くの場合、極端にふれて(Ex,過激なウーマンリブ・自身の女性性を否定して、あたかも男性と同じようになろう、なるべき、という意識の出現)、それから、振れ過ぎで起こった弊害を人々が吟味し、ゆっくり中心に戻ってくるが、もといた形よりは、一段成熟したものになる(現代のジェンダーに対する考え方・態度)。この極端に振れながら新しい中庸を見いだしていくプロセスについては、モデレーターの一人藤沢 久美さんんも、ヘーゲルを引用してコメントしていらっしゃいました。

物事はスパイラルのように変わっていく。横からみたら右に振れ、左に振れているように見えるけど、ビックピクチャーでみたら、螺旋を書きながら、一定方向へ(上だったろ、下だったり、横だったり)向かっていっているーprogress している、と。

日本に比べて、他国と隣接し異文化との交流が歴史的にさかんなヨーロッパでも変化に対して抵抗が強いなら、「人と違う事」がむちゃくちゃネガティブに受け止められる、個々人が「人と違う」ことに対して不安や不快を感じる。これまで文化的なdiversityをヨーロッパのようには経験した事がない日本という国が、会社が、地域が、家庭が、個々人が、多様性を受け入れ、新しい形を生み出そうとするには、人々に相当な心理的チャレンジをすることになる。

日産の高橋さんによると、日産がルノーと提携を組んだとき、日本人エグゼクティブの男性がルノーに若い女性エグゼクティブ多いのにカルチャーショックを受けたそうだ。最初は、秘書か事務の女の子だろ、と見なしていたら、自分と同じ地位で自分の会議相手でびっくり、と。

で、日本に帰ったそのエグゼクティブは「フランス人女性の管理職ならOK.でも日本人女性はダメ、ここは日本だ。」というようなコメントをしていたらしく、刺激をうけても自分たちの変革の起爆剤にはならず、、、しかしそんな事では会社として成長はない。ゴーン氏が入って、それまで日産Onlyだったカルチャーから、社員の意識を変え、新しいルノー&日産、というカルチャーをつくり、日産は生まれ変わった、と。
しかし、思い出してみれば、ゴーン氏むっちゃくちゃマスコミに叩かれてた時期ありましたよね。

新しい事を提案する、導入する、組織をそちらに導いていく、というのはどんなに批判されようとも自分を信じ続ける力と、と強さたとえそのチームが非協力的であり自分を攻撃してきても、なお必ず生まれ変われる、生まれ変わる事が必要で、チームにとってBenefitである、と他の誰一人として信じなくなってもなお、心から信じつづけ、生まれ変わるプロセスを導き遂げる覚悟と忍耐が必要なのでしょうか。


ノルウェーでOnmiという会社を子供が2歳のとき設立し、グローバルカンパニーに育てたグリー・ヴィーグレは、新しく物事を始めるとき必要なものは、
local fan of you such as your family, friend and community 
そしてbest team mates for the projects.

新しい事を実行する、興す、というのは先ほども書いたように、相当な抵抗や攻撃を受けるし障害が持ちうけている。そんな時、まず自分をunconditional に応援してくれる家族をはじめとする、自分の身近な仲間の存在はとても貴重。これは、女性が新しい事を始めようとするケースに限らず、男性にだって言えること。

そして、ひとたびプロジェクトをはじめたなら、自分ひとりでは不可能な、プロジェクトを進めるために必要な「ベストな」(中途半端な知識や経験ではグローバル戦力にならない)智恵や技術をもっている仲間を集める事。


Again, 出るくいは打たれる、人と違う事が怖い、普通がいい、そんな感じの日本カルチャーの中で、人があまりやっていないこと、なじみのないもの、新しい事、などを試みる、というのは本当に大変なことだろう。まず、チャレンジする自分をエンパワーしてくれることができるもっとも身近な自分のサポーターになりうる、家族からの反対から足元が崩される場合だってあるのだから。

日本の政治状況も、足のひっぱりあいや、権力の駆け引きにエネルギーが吸い取られてるような印象をうける。
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by totoatsuko | 2010-06-12 23:06 | Comments(0)

CMとかTVとか

口臭があるひとには薬局で売っている口腔洗浄液ってやっぱりいいんですか? とCMを思い浮かべながら最近ヨーロッパの最新歯科事情についての講習会をうけてきたばかりの衛生士さんにきくと、
いえあの手のものは、口臭を引き起こしているバイオフィルム(歯の表面を覆っているばい菌が住んで増殖する薄い膜)内にすむばい菌(においのもと)には届かない上に、良いばい菌まで殺してしまうし、毎日強い刺激のものを使っていると口腔内の悪いばい菌に耐性も付いてきます。CMみたら、すごくいいものみたいにみえますよねー。口臭は、バイオフィルムを丁寧な歯磨きでとってあげて、歯の下のほうに入り込んで歯ブラシでとれないものを歯医者さんでとってもらえば、簡単に根本的になくなりますよ、
とのコメント。

田舎で無農薬畑を数十年つづけている80近いおばあちゃんは、
TVで言ってる事はみんな嘘じゃ。二毛作したら畑が疲れるとか、いい肥料を使わないと、作物が続けて収穫できない、って、そんなことない。土の表面におるこの虫さえまめにとって、この虫が上にあがってこんかったら、肥料あげんでもちゃんと育つ、と断言する。

どちらも現場で長年やってきている人の弁だから、そこに一定の真実はあると思う。
その考え方が全てだとは思わない。
ただ、歯の治療も農業も、個人差、環境差、経験差があるにしろ、両方ともがTVという世間ではクレディビリティーがある情報を提供していると考えられているものと真っ向から反した考え方をしているのが興味深い。


添加物のおそろしさの話とか、成長ホルモンを与えられて育てられた動物たちの肉の話とか、回転寿司のネタの作られ方の話とか、牛乳の話とか、、

世の中、本質的な事や、真実は、どうして広がらないんだろう? 
どうしてうまくマーケティングに乗れないケースが多いのだろう?

消費者、製作者、業者、団体、政府などが複雑にからみあい、それらが利害関係にあるって、凄い事だ。

心のケアの業界もそう。
表面的に心をケアする、サポートレベルのアプローチは病院で取り入れられていたり、国家資格になったりして普及しているが、本人のコミットメントを要する心の深いところを扱うアプローチはメジャーにならない、雑誌もTVも他のアプローチとくらべて、滅多にとりあげない。

真実は知る人ぞ知る?多くの人が共有するものではない?
なぜ?
求めてないから?真実をみることを?
真実を見る事は、時に心がとても痛むから?
世界の見方を変える事を自分に強いなければならなくなるから?

手軽じゃないから?


口臭をなくすために、日々の歯磨きスタイルを根本から見直し、歯医者に何度か通う、よりは毎日ミントの液体でうがいをすればOK,って気になれるなら、それにこしたことない。
朝から晩まで手で虫の駆除をするよりは、農薬などを使うほうが経済効果もあるだろうし、体力も消耗しない。
セラピーなんて訳分からないかんじのものへお金はらって、自分の心の底、みたくもないどろどろしたものやみたくもない心の闇と命がけでとっくみあうプロセスにエネルギーを使うより、投薬で一時的に眠れたり不安感が解消されたり、目先の物の見方を変えるアドバイスを貰って、数日すこし明るくすごせるようになる気になるほうが、どんなにか楽に克服できた、と自分を誤魔化せるか・・・

物事の本質を見つけること、それと向かい合うこと、は時間がかかるし、自分の心と体を使って与えられた情報を自分で吟味しながら確かめていかなくてはならないから、凄くエネルギーがいる。じっくり腰をすえて物事と取り組み、時間をかけて消化し、消化したものをオペレートして、自分がなっとくする結論や方向を見つけていくプロセスは、スピードを求める現代の生活スタイルや考え方に合反するかもしれない。まわりの人は、一連のプロセスの進行の遅さに待ちきれなくてイライラして、その人のプロセスの途中でプロセスを中断させたり、プロセスをぶっ壊したり、むりやりひん曲げて結論に突っ込ませたくなるかもしれない。

残念なことだ。
与えられた答えが、あたかも自分にとっての答えだと丸呑みしてしまう習慣は、恐ろしいことだ。
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by totoatsuko | 2010-06-09 22:33 | Comments(0)

強い人

d0065558_2239217.jpg本当に強いひと、というのは自分の弱さを自分自身できっちり認め、そこから強い側面を派生させはぐくんでいる人なのか?

自分の弱さを否定していない人、自分が弱いというのを肯定できてる人。

強がっている人、とは根本的に違う。
傍から見たら、なかなか強がってる人と、本当に強い人の違いは、分からないかもしれないけれど。

うーん、それにしても、人の心の状態を、その人の表情や振る舞いだけみて分かっている気になる人がいかに多いことか! 例えば、中絶したり誕生死を経験した女性が、悲しみはしても、時折微笑んで会話をしていたからといって、「この人大丈夫だ」っておもっちゃう。いじめを受けた子の話、虐待をされた、した親子の話をきいて、「でも大丈夫です、頑張れます(微笑み)」「虐待したくないんですよ、本当は努力してるんです (真剣な顔)」を見聞きして、「大丈夫なんだ」っておもっちゃう。誰かが自殺して初めて、その人が、日ごろの振る舞いとはうらはらに深く傷つき悩んでいたと気づく。

そもそも大丈夫、ってなに?
そもそも強い人、ってどういう定義?

心の状態は、客観的に他人にどう、ってdefineされるには、宇宙のように無限に広く深すぎる。。。
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by totoatsuko | 2010-06-08 22:37 | Comments(0)

マットレスの可能性

d0065558_136061.jpg私はベッドで育ったけど、布団派だ。
布団、といってもいわゆる典型的な敷布団ではなく、マットレスを使っているのだけど、アメリカでもずっとそうだった。移動できるから、ベッドを設置するのと比べて、日中スペースがクリエーティブに使える。

子供がマットレスを組み合わせて遊んでいて、そのクリエーティビティーに驚いた。
いくつか組み合わせて、上にシーツをかけて、洞窟風にしたり、
トンネルにしたり、
その空間をマットの組み合わせによって、ちっちゃくしたり、中で部屋が別れている感じの家にしたり、
崖っぽくマットレスを壁に立てかけて、そこからジャンプしたり、
いくつかマットを重ねて、トランボリンにしたり、
斜めにして、角度をかえて、いろんな斜面、長さの滑り台にしたり、
レーシングカーになったり、ファミリーカーになったり、
美容院の洗髪台にみたてて、美容院ごっこ
診察台にみたてて、お医者さんごっこ。
ベッドは形も位置もあるていど固定されているから、ここまで七変化できない。

家を作れば、そこから七匹のこやぎごっこがはじまり、
トランボリンからは、ピーターパンのフック船長と戦っていて、下にはワニが待ち構えている空間が広がる。

美容院ごっこは、最初くしで髪をといたり、髪をすこししめらせてスタイリングしていたのが、エスカレートしてきて、バケツに水をくんできて、タオルに水を浸して、マットに横たわっている子の髪にかけようとしたので、お水を使いたいならお風呂場に行って、とお願いするはめに

しかし、彼らのその信じる力がすごい。
素材はマットレス以外の何物でもないのだけど、遊んでる本人たちは、その遊びをしているときは、完全に心の中で、マットレスが家であったり、トランボリンになっている。マットレスをマットレスとしかみれなかったら、ちっとも面白いものではないけれど、だれもがもっていた子供の想像力によって、こんなにも楽しいものになるなんて、なんて楽しいんだろう、と思う。

大人になったって失うとは限らないその想像力、信じる力、クリエーティビティー。
コロンブスの卵的発想の豊かさは、子供の特権ではない。
それをもってすれば、日常のつまんないこと、嫌なこと、気になること、行き詰ってること、それらを全く違った側面から、それらが持つ異なる側面を発見し、別物として捉え、新たな関係が築けるのだとおもう。
そう、そういえばセラピーのプロセスでは、そんなこともやってます・そんな現象、自然と発生してきます。
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by totoatsuko | 2010-06-08 10:23 | Comments(0)

光に反射する水面のように

d0065558_12542266.jpgぶれないね、安定している、どっしり構えていと言われることもあれば
頑固だ、人のいうことをきかない、協調性がない、と言われることもあれば
you are shy, really listen to what I say (アメリカの友人達の場合)

クリエーティブ、と言われることもあれば
おかしい、変、と言われることも在る

全く違う表されたかをする。

どれも、受け止める人にとっては真実の体験だ。

受け止める人の状態、立場、心理的ニーズ、価値観、先入観、評価基準、その人に期待するものによって評価は変わる。一人の人の心の中でも、その時とその人の状態によって、その人の”像””印象”は刻々と変わっているし、変わらない場合もある。


人の評価がどんなに割れようと、一人の人の中でどれだけ像が分裂しようと、
私という人間は、私だ。
私は分裂しない。
私、という存在は、様々な矛盾や共鳴しあう側面を内包している。
全て、私だ。


どの人だってそう。
あなた、はあなた、でしかありえない。
成長するにつれ、いろんな変化はあるが、本質的なところは、滅多にかわらない。
どんな評価を人にされようと、その評価があなたを真実に捕らえているとは限らない。
いい、悪い関係なく、
必ず、受け止めるひとの投影・先入観、などの色眼鏡をとおした評だ。
そんな評価に一喜一憂し、カメレオンのように自分を変えれたら一見生きやすいように見えるかもしれないが、カメレオンのように自分の表層を変える自分を見失わずに生きるには、そうとうな図太い幹を自分の中にもっていないと、自分の重心が表層のほうへ移り、まるで心てきには、根無し草のような生き方をするようになる。自分のHOMEはどこ?本当の自分はどの色?

そんな疑問を内包しつつ生きるのは、そうとう大変なことだから、自分に問うのをやめる、主体的に自分を生きるのをやめる。自分という体があるのに、自分がない、そんな矛盾を抱えるのは大変なことだ。自分がない、という概念を捨てたことにすれば(自分の心がある限り、決して捨てられないのだが)自問して、自分の存在を自分で脅かすことはやめることが出来る、意識の表層では。

人の評価の重圧によって、自分が分裂したり、一部の自分が否定されてそれが引き金で、自分全体が壊れそうになる、壊れてしまう、自己嫌悪になる、自己否定してしまう、さらには生きるのが嫌になる、のはよく起こる現象だ。自分で自分の中心をしっかり感じることが出来ていなかったり、自分に自信が無かったら、人に何をいわれようと自分で自分のコアの部分を肯定することができる心がなかったら、人の何気ない評価・言葉は、鋭いナイフが自分の心に突き刺さり、血が流れ、崩れ落ちる。

評論などは、その筆者の主観が必ず入る。
セラピストも、出来るだけ中立的な態度で、クライアントのプロセスにかかわろうとするが、主観を排除することは、セラピストが人間である以上、不可能である。

大事なのは、限られた人達の主観、自分の先入観e.t.c. という色眼鏡を通して捕らえられた評価・見解を鵜呑みにせず、常にオープンであるこなのか? そういえば、アメリカでは、ある事例について、賛成・反対グループにわかれて、皆がどちらの立場も体験してディスカッションする、という教育方法が日常的に存在する。個人的にその事例に賛成、と思っていても反対グループにいるときは、反対グループの理論や感情を必死に「想像」して、どうしてそんなに反対したいのか、その気持ちを理論が「疑似体験」することになる。

日本では、相手の気持ちをおもんばかりなさい、相手の立場にたってかんがえてみなさい、
という教育はあるが、
「実際に」相手の立場になって、自分と同じ立場に立っている人と対話をする、という試みはない。
想像を試みるのと、じっさい違う考えの人の立場になりきって振舞う、相手になりきってその気持ちを自分の口をつかって「感情をこめて」喋ってみるのとでは、学びのレベルが全く異なる。
(セラピーでは、心のプロセスに必要とあれば、違う立場になりきって対話をするアプローチーゲシュタルト手法ーをつかうこともある。)


自分の意見とは反対の意見の人に実際なりきってみる心の体験をすることでしかわからない、
自分の賛成への固執する気持ちや、そう信じるに至る心の歴史だったり、反対意見や、賛成・反対だけでは割り切れない考え方への可能性が自分にオープンになる。

自分の「賛成」という立場にたっているだけでは、世界は見えてるつもりでも、見ることの出来ない部分が残る。

そう、太陽に反射する水面のように、
光の角度や空気の温度、水の中の、空気の動きによって、
私たちは、全てのものごとはきらきらと、あるいはどろどろと、様々な色を同時にもっている。
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by totoatsuko | 2010-06-08 09:53 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


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