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カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

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成長過程は逆説を内包する

d0065558_934088.jpgWinnicott はattachiment therapyの論理を確立したことでよく知られています。

彼の言葉。
「一人でいられる能力の基盤は逆説である。

誰か他の人と一緒にいるときにも、
‘一人でいる‘ to be alone 
という体験が
一人でいられる能力なのである」 

ーこのセンテンスには、
関係の中にあるとき、
誰かとともにありつつ自分一人でもある、という
心理的なパラドックスが潜在しています。

誰かとともにいるとき、
自分がその人との関係の中で失われるのではなく、
またその人と一体となるのでもなく、
自分自身のSelfを感じながら、
その人との関係を‘主体的‘に生きる、楽しむ、発展させる、というスタンス。

誰かと一緒にいるとき、
誰かと一緒にいる自分と、自分ひとりである、
という相反する感覚を内包することにより
より深くその人間関係にかかわれるのだ。

誰かと一緒にいるとき「自分」を感じるというのは、
一体感を感じられなくて、疎外感を感じるのではないか、という人がいるかもしれない。

そういう場合もあるかもしれない、受動的でもあり主体でもある矛盾を含んだ自分の関わり方を相手が受け入れられなかったら。あるいは、‘自分ひとり‘という感覚が強すぎて、相手とのつながりを自分が見出せなかったら。

しかし、可能なのだ、自分一人という感覚を持ちながらにして、その関係でとても強い一体感を感じることは。
個をはっきりさせない日本文化では、個を殺してこそ一体感が得られる、という考えが強いような気がする。
関係の中で、自分と相手の境界線がぼやけて交じり合っている状態だ。

一方で、自分自身、という感覚をも併せ持ってかかわると、今まで体験したことがないような、相手との一体感を感じることも出来るだろう。。

セラピストとクライアントがお互いに一人でありつつ二人でいる、というのは、必須だ。
少なくとも、セラピストはそういうスタンスでいないと、クライアントにいとも簡単に引き込まれてしまい、クライアントのプロセスを阻害してしまうことになる。

滝川一廣氏は「家庭のなかの子ども、学校のなかのこども」 でこう語っている。

成長、成熟の過程を「運命の無垢な犠牲者・被害者」という受動的で他律的な位相をどこかで脱して、
その運命をみずから生きる主体としての位相へ抜け出すような、ひそかな転換」の過程ととらえ、
さらに、この変換の過程には「だれかの存在が必要」である一方、
「心の中でなにかかくみかわっていく」
その経験そのものは、一人のもの、自分のうちでひそかに経験していくしかないものである。


この指摘は、Winnicottの「一人でいる」ということに繋がる。
親子関係でも、セラピスト・クライアント関係でも、成長過程における対人関係でも、
「誰かとともにありつつ一人である」 
「自由であると同時に保護された関係」
が必要なのだ。

先の投稿でも述べたとおり、セラピーは問題の答えを出すのが目的ではない。
少なくとも、私のセラピースタイルではない。

生きていれば、問題は、問いは常にあがってくる。

矛盾は、生きていること自体に内在する基本的な性質だ。
ー生命は保っていても、ミクロのレベルでは細胞は死に続けている。
大人になっても、子ども的な自分は存在する。

それゆえ、矛盾は解消されるべきもと、というよりは、
いかに向かい合い引き受けるか、というもの。

一人では大変すぎて引き受けられない、あるいは自分の身体・精神状態のバランスを破壊することもできる「葛藤の育成」「葛藤の保持」のプロセス。セラピーではクライアントが葛藤や、その中に隠されている闇・シャドウに飲み込まれず保持するサポートをプロフェッショナルに行うことで、クライアントの心理プロセスを、成熟を、ユングの言うindividuationを促す。

逆説や矛盾と向かい合い、それぞれのパーツの居場所を自分の中でちゃんと作れる心の状態になるには、相当の葛藤を通り越さねばならない。本当に言葉では語りつくせないほど大変な作業だが、それを乗り越えて逆説を内包し共存していく努力を重ねていく、というのは豊かにいきていくために必須なプロセスだと思う。
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by totoatsuko | 2010-05-29 09:57 | Comments(0)

一貫性

d0065558_22564235.jpg 自分の中で一貫性があり、その一貫性を自分自身がしっかりと感じることが出来ていたら、いろんなことに手を出して、今の時点では、まとまりがなく何が繋がっているのかはっきりは捕らえることができなくても、取り組んでいることに対して、真剣になれると思う。あるいは、ほんとうに一貫性のないものには、衝動や雰囲気や流行にのせられてのってしまう、手をひろげすぎてしまう、ということも不用意にしなくてすむかもしれない。

取り組んでいることに対して、取り組まないことに対して、個人や団体から”常識的ではない”という理由で批判されたり、疑問をなげかけられても、自分の中でこれは自分にとって大事なのだ、と直感的に分かっていれば、批判はつらいし、傷はついても、ちゃんと自分を守りながら続けていくエネルギーを自分の中で生み続けることができるだろう。

マクロビオティックのクラスをとり始め、勉強し始めたとき、
陰陽に極度に振れずに中庸に近い食事バランスを心がけ、体の状態を中庸に保つのがいい、と教えられた。
そうすると、女らしさ〔中国の陰陽五行、で考えれば女が陰で男が陽という考え方〕というのは、マクロビオティックな食事に変換する中で失われていくんじゃないか?
人からぬきんでた個性やエッジ、クリエーティブな発想が出来なくなるんじゃないか? と思いました。
そんなの嫌だなぁ、と。

先生の言ったことを鵜呑みに出来ないのが私の性分で、
とりあえず聞いて。それから自分で実験してみて自分なりの体験や見解が内から生まれてくるまで、いやその後もずっと保留にしておいて、人生のいろんな場面で思い出して光の当てる角度を変えて捉えなおしたりします。失敗もいっぱい重ねながら。そこから又、学びながら。

あれから数年、
自分の生活にマクロビオティックなスタイルがなじんできた今思っているのは、
自分が持っているエッジは、自分らしさ、は
食・体・精神が中庸で安定していることによって、
例えば口にするものの影響によって、体調や精神状態が無駄にふりまわされるのをおさえ、
他の事 プラス、食事スタイルも加えて 心と体をいい状態に保つことを強化できる事により、
より主体的に自分の思うように自分の持っているエッジを使えるのではないか? 

自分の個性というのは、お肉や乳製品やお砂糖や人口添加物を食べないことによって失われるものではない、と考えるようになってきました。
健康なときは感じませんが、体や心に痛みがない状態、というのは本当にありがたいことです。
自分の食べたい食べ物を食べて、それが心や体にとっても害のないものであるに越したことはない。

それと、やっぱり私は地球に”生かされてる”と思うので、
地球にやさしい食べ方をなるべくしたいから、
マクロビオティックを取り入れた生活は、自分の理念とライフスタイルが繋がって、きもちいい。

一般的に何が正解か、というのは私にとってはそんなに大事じゃない。
自分が正解、と思えれば、自分にとっては正解。
しかし、全ての人にとっての正解、というのは決して見つからないし、
正解を見つけることが人生の目的なら、人生はつまらないものになってしまいそう。
だって、正解が見つかるまでの道のり、ずっと耐えてずっとつらいだけなのでしょう?

私にとっては正解を見つけることが人生においてそんなに重要ではなくて
迷いながらもその過程で迷いのプロセスを味わい、
迷いのプロセスの中で、自分を見失わず、
迷いで生じる人生の苦味も味わいつつ、
主体的に人生を積み重ねていけたらいいなぁ、と思っています。

そういう意味では、私の中では、マクロビオティックも、職業の音楽心理療法も、ドラミングも、霊気も、グリーフカウンセリングワークも、フラメンコも、ヨガも、友達も、家族も、他にも沢山、なにか芯のようなもので全てが繋がっているように感じてします。それらを深めていく過程が、私をホリスティック〔全体的〕に深く広くしていってくれるような感じです。
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by totoatsuko | 2010-05-28 22:56 | Comments(1)

操る楽しみ、作る楽しみ

d0065558_21585140.jpgどんどんモノが増えてきた。
どんどん便利になった。

ゼロから自分の手をつかって創作しなくても、
とりあえず出来上がった面白そうなものがあふれてる。

創る楽しみよりも、
操作する楽しみ、が多くなってきた気がする。

ゼロから創作するなんてめんどくさいことは出来るだけ省いて
効率よくやりたい心理。

でも、人生において、操作しているうちは、
ゲーム感覚で生きてるうちは
決して生身を生きれない.
決して生身の生き生きとした感情体験を味わうことができない。

ゲームをやるように、ゲームの世界の外から操作しているような生き方。
ヤバくなったら、リセットボタン。
それに慣れたら、いちいち感情なんか感じて、一喜一憂するのがめんどくさくなる。
感情を感じる、というのはときとしてとても大変なことだから。

今のキャラがきにいらなくなったら、
出来上がってる提示されてるキャラから選らんで何度でもチェンジ。

過去にあまりにも辛い体験をした人は、そうでしか自分を心理的に守りながら社会生活を送ることが出来なくなる場合もある。でも、時間はかかるけどセラピーのプロセスを通して自分の過去やまだうずく傷をみつめることによって、人生を自分のものとして、生きれるようになっていくのは見たことがある。

あまりにも辛い体験をすると飽和状態になり、もう自分の中でそれ以上の攻撃や刺激を受け止めることができなくなって、生きることをやめて、映画をみるようにゲームをするように、自分の人生を見る。ヤバそうな画面になったら、リセットボタンか、画面を変えるか、プレーヤーを変えるか、シールドをはって感覚をミュートにする。

人生は、操作するものでなく、創るもの、生きながら創ってゆくもの、
生身で生きることは大変なことだ。
ゲームと違って、殺されたら、生き返られない。
でも、やっぱり一度しかない今回の私の命に与えられた人生、
操作じゃなく創作していきたい
私はそう思う。

###
そうそう、子育ても
何となくその親が主観的にイメージしている”いい子に育てよう”とするために、
親が習い事をつめこんだり、いろんな試みを必死にやって、という現象をきくと、
子どもの成長スピードや内容を操作しているような感覚を持つことがある。

親はただ必死で、子どものために一生懸命で、
操作する、という自覚はこれっぽっちもない場合が多いのだが、
親の「自分の人生を自分で作っている感」が薄かったりしたら、
無意識のうちに、子どもにとっては「神」的な存在である親の立場を、これもまた無意識にだが利用して、子どもを操ることで、自分のニーズを満たしている、というメカニズムも起こっている。

子どもが思春期になって、子どもが心理バランスを崩したり、家族内で問題が持ち上がったとき
「あんなことはやって欲しくなかった。」
「あんなに一生懸命お金も時間もエネルギーも尽くしてあげたのに」
という認識の差異は、よくきく話だ。

子どもの成長は、操作しようとするのではなく、
できるだけその個が自発的に向かう方向に伸びていくのを見守ることが出来たら、
どの方向に伸びていっても、批判的にならず、過剰な助けを出さないようにしたい、
と自戒もこめて、ここに記す。
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by totoatsuko | 2010-05-27 23:07 | Comments(0)

祈る - そして心理療法と両義性

私の専門分野であるGuided Imagery and Music (GIM - 音楽心理療法の分野の一つ)の基礎を作った人が昨夜亡くなったしらせ。

Her daughter Bea Bonny Stoner, wrote this about Helen:

"She anticipates the next life with deep faith and a sense of empowerment in being able to move on. And so she expresses joy fulfillment, as well as peace.... She has enjoyed 89th birthday cards and messages of gratitude and love from so many and feels well connected with all of us. We invite only your prayers/meditations for her smooth transition to the place her Spirit yearns to be."

ヘレンの娘の言葉が心に響く。
her smooth transition to the place her spirit yearns to be...

ヘレンには会ったことがない。
私がアメリカにいたときは、フロリダでもう隠居生活していた。

89歳。
彼女が作ったものが、世界に広がり、私の一部として流れていて、でも、彼女の魂は昨夜その肉体をはなれ、今どこかへ移行していっているのだろう。まだ、彼女の魂はこちらの世界に繋がっている感じがする。
涙が頬をつたう。

新年早々、親友を失ったのをはじめに、今年はまだ半年もたっていないのにいろんなことが起こる。
私にとって、浄化プロセス & transformation を行う年なのだろうか?

すべては繋がっている。
すべてに意味がある。
あとからしか、それは見えない場合がおおいけど。

クライアントは言う。
どうしてこんな辛いことに遭遇しなくてはならないのか、と
その意味が分からない、というのが加圧して、ヘルプレスに感じる。
一歩さきも暗闇で、光がみえなくて、手探りで。

初めての場所を、地図もなく歩くというのは、とても不安なものだ。
どこか初めての場所に行くとき、例え地図を持っていても、道のりがとても遠く感じられるものだ。

そんなとき、昔語り継がれてきた神話や昔話のストーリーに主人公のヒーローに、自分を見出すことが出来たら、ストーリーに苦しみを乗り越える知恵やモデルを見つけるのは、おおきな励みになる。

そんなとき、セラピーを受けていると、セラピストは一緒にその暗闇で手をつないでいてくれる。
先人がたどった、踏み鳴らしてくれた道を、心の深いレベルで発見するのを手助けしてくれる。
ただ「物語」や「武勇伝」や「歴史」を読んで、ふーーーん、とスルーさせるのではなく、そのストーリーの感情レベルまでリンクする手助け。

痛みが闇が、それ自体が自分の中で何かに変わっていくプロセスを、
自分ひとりでは辛すぎて待てなかったり、自虐的になって、折角の変容のチャンスを殺してしまわないよう、
セラピーのプロセスは助けてくれる。

サイコセラピーは、問題を直したり、解明するのが、目的ではない。
そういうことは、プロセスの過程で起こるかもしれないが、
クライアントが人生の過程を自分自身で「発見的」に歩むチョイスを提示すること。

以下は、徳田 完二氏の 心理療法と両義性、という論文より抜粋 ()は私の注。
自分ではどうにもならない問いが、自分の力でどうにかなりそうな問いに変化すること、
すなわち、「答えの獲得」ではなく「問いの変容」を目的としたものだといえるのではなかろうか?
悩みをなくしたいと望んで心理療法を求めるクライアントは少なくないが、悩みをなくすというよりも悩み悩みやすい形に変容させるのが心理療法の実態であり、治療者の役割は、クラインとの問いがクライアント自らの力で問えるような形になるまで〔何が自分の悩みを起こしているのか? 何に自分は悩み、何に自分hの心は苦しめられているのか、というのをひとつ深い意識のレベルで把握する〕クライアントに付き合うことだ、といえるかもしれない。

このように、心理療法における「答え」とは新たな「問い」である、ということもまた両義的な事態といえよう。

生きている限り問いから逃れることはできない。
そして治療者もまた心理療法とは何かをめぐって発見的に歩みつづけなければならないのであろう。ただ、それによってもたらされる発見は、新規な理論や技法の創出につながるものであるよりはむしろ、あたりまえのことの再発見や再認識であることのほうがはるかに多いかもしれないのだがー。
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ヘレンは亡くなった。しかし、亡くなることによって、より一層GIMコミュニティーには彼女の存在が強く印象つけられ、彼女の伝説が語りはじめられる。死にも両義性がある。
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by totoatsuko | 2010-05-26 08:22 | Comments(0)

昔つくって途中でとまっているこのブログの目次・・・

d0065558_12174339.jpgとりあえず、日の目にだしてみることにしました。
昔かいた記事を読み返すと、今とは少し感覚がちがっているものも。
あえて手直しせず、過去にかいたものとして残しておくことにします。

記事のカテゴリ分けも、もう随分やっていないので、カテゴリをクリックしても関連投稿記事は全て出てきませんこと、どうぞご理解くださいませ。

このサイトの目次

音楽療法とは?
1.自分探しのために (GIM セッション)
2.リハビリのために
3.障害をもつ子供との音楽療法
4.聴覚障害をもつ子供との音楽療法
5.死と向かい合って

ヒーリングって何?
地図無きこれまでの旅
活動に関する記事
音楽とイメージを使って:ガイデッドイマジェリー アンド ミュージック
ピアノレッスン
Guided Imagery and Music セッションの流れ
GIMトレーニングの内容について
霊気とGIMセッション
理屈はいらない
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by totoatsuko | 2010-05-25 12:11 | Comments(0)

想像力の病

d0065558_1530819.jpg自分の感情を機能させながら想像することができない、
想像している内容を心理的に実体験できない場合、
自分の攻撃を受ける相手の心の傷つきや、相手の痛みを想像することができない。

相手が「痛い。もうやめて。死にそう」 と言っているのを聞いても、
泣き叫んでいるのを聞いても
(正常心で以下を読んでもその感覚が理解できないかもしれないが、)
相手が生死の境をさまようほどまでに傷ついているのだ、という認識は出来ず
まぁちょっと痛がってる、あるいは痛いフリをしている、くらいにしか受け止められなくて
相手の痛みを、自分の過去経験した痛みと重ね合わせて想像する、ということも出来なくて
ーそもそも、自分の心で自分の五感が痛みで悲痛な叫び声をあげている、という自分の危機的状態に向かい合ったことがなかったら、痛みの概念すら分からないからしょうがない
何気なく、相手を痛めつけ続けられる。

相手が死んでしまっても、相手を殺してしまった、という認識がしっかりできず、自分がやったことに罪悪感も感じられなかったりする。

境界性人格障害と診断された人にかぎらず、、、どの人もかかりうる想像力の病のせいだ。

自分の無意識・意識層に存在している怒りを心理的に体験することを通して認識する、ということが出来ないまま、その怒りを行動化してしまう。しかし、そもそも想像力を使うことをしらないので、負傷したり地面に崩れ落ちている相手に対して何の感情もいだかない。

だからこそ、執拗に相手を攻撃できる。どんなに残酷なことも出来る。
ごめんね、と誤れば相手の傷は癒える、と勘違いできる。

この心理説明は、戦争という大きな現象から、いじめ、虐待、など個人の人間関係の説明にも当てはめられるとおもう。本当の自分は相手と友達になりたかったり、子供や親といい関係を築きたい、と思っているのに、リアル感情想像力欠如の「病」によって、本当の自分は望まない行動を自分が犯してしまい、本当の自分は望んでいない人生へと曲がっていってしまうのはやるせなさすぎる。

相手を思いやりなさい、という教育はされたけど
自分の気持ちをおもいやりなさい、という教育は私の子供のころはなかったな。
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by totoatsuko | 2010-05-24 15:30 | Comments(0)

ハーモニーのための宗教

d0065558_0161073.jpg作家、宗教家である Karen Armstrong @ Tedx Tokyo

the Abrahamic religions -- Islam, Judaism, Christianity -- have been diverted from the moral purpose they share to foster compassion. She has seen a yearning to change this fact. People want to be religious, she says; we should act to help make religion a force for harmony.

宗教に属し、その教えに従って生きることにより、心の支えや平穏などを得ることができる。
しかし、宗教にかかわる戦争は絶えない。
それは、大きな喪失、悲しみと怒りを生む。

何かの宗教に属することが、
あるいは、何か自分にとって大事なもの、譲れないもの、を持って生きることが
対立や、攻撃をうまなければよいのに、と思う。

そもそも宗教は、憎しみを生むために生まれたものではないはずだもの。
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by totoatsuko | 2010-05-20 00:16 | Comments(0)

リソースはここにある

d0065558_2421626.jpg社会活動家のBib Stilgerが Ted x Tokyoで話したこと

彼は、アフリカ、南米などから日本にいたるまで、さまざまな種類と規模のコミュニティーの活性化を促進させるアドバイザー、ファシリテーターとして活躍している。

彼がいっていたのは、そのコミュニティーが例えばリーダーを必要としているとしたら、そういう人を外から連れてくるのではなく、そのコミュニティーを良く知っているコミュニティーメンバーの中でリーダーとなり得る可能性を持った人を探し、コミュニティーと一緒にそだてていくのが、うまくいく秘訣だ、ただし時間はかかる、でも一歩づつ大事にstep by step で進めていけば、確実にそのコミュニティーが必要とするリーダーが生まれるし、その副産物として、リーダーをサポートする人たちも、コミュニティーの中で育ち、コミュニティー全体の団結力も高まる、ということ。

地元に基づいたコミュニティーでは、会社と比べて、人々の文化、土地への執着、からみあう感情がものすごく強いから、外から人を連れてきて、首をすぱすぱ切ってがらっとかえる、というのはワークしないのだと。だって、きられた土着の人は、行くところが無い、し故郷に戻りたい、という気持ちは戦争だって起こしうるから。

会社に首を切られるのはつらいが、故郷を失うのとではわけが違う。
会社は故郷ではないから、他だって探せる。
その故郷はそこにしかない。

音楽心理療法にきて、とにかくこの辛い状態を直して欲しい、といわれることがあって、そういう時、私はいつも謝る。「ごめんなさい、私には誰かを治す、なんておおそれたことは出来ないのです。あなたのことを大して知らないし、知りうることができないのに。」

例えば、人間の意識・心・Self があって、4パーセントしか把握していないとしよう。
〔この数字は、人間は今のところ宇宙の4パーセントのことしか分かっていない、という事実から便宜的に借りている。〕
自分自身がそうなのだから、他人の私にそれ以上のものが見えるはずがない。
ましてや、残りの96パーセント、4パーセントに裏から働きかけてその人の行動に多大な影響を与えているものを、アルミを曲げるように自在に変化させられるわけが無い。そもそも、そんなことをするような専門的なトレーニングを受けてはいない。

できるのは、その人が94パーセントの何パーセントかに気づくお手伝いをすることである。
未知の94パーセントには眠っている。金鉱のイメージ。自分で自分のバランスを良くする、今の自分をよくするために必要なきらめく要素は必ず存在するのだから。

例えば、転職したり、引越ししたり、髪型を変えたり、目に見える変化によって、自分の人生に変化をもたらすこともできるだろう。でも、自分の中に眠っている金やダイヤを発掘するすこし骨が折れる作業をとおして得た、見つけた自分の要素は、永遠にその後の人生に波紋を投げ続け、次の波紋につなげていく、自分の内側から。

新しい髪形も、新しい引越しも、新しい職場も、時がたてば慣れてきて、飽きたりする。
そうして、また新しいものをさがしていって、みつけて、リフレッシュして、チャレンジする。
しっかりした自分があったら、それも楽しめることができるだろう。趣味として。
でも、引越し続きの人生は、なかなか自分がやりたいことを究極的に深めることはできない。
もったいない。
自分自身が94パーセント分の、一生かかっても解明することはできないであろうおおきな探検場所をすでに目の前に自分の中に用意してくれているのに。

いやいや、どういう風に人生をつくっていくかは、本人の自由だ。
私に、ある主のやり方に対してもったいない、という権利はない。

変わりたかったら、まず自分が自分たちがもっているリソースをもういちどしっかりみてみるべきだ、そこには必ず変化に必要なものが見つかる、 Bob Stiller はそういっていた。
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by totoatsuko | 2010-05-16 16:36 | Comments(0)

文楽ー目の保養

d0065558_2301676.jpg文楽午前の部、行ってきました。

今回は、キレイなお姫様が色々でてきたし、舞台も華やかな装飾だったので、見ごたえあり。
時代物(町人の話)、歴史物も、内なるビューティーがあり、深い味わいがあっていいのだけど、
やっぱり美男美女は、短絡的だけど目の保養をしてくれるので、

時々昔の美男美女オンパレードのアメリカ映画を見てるときに感じる
視覚からの満足度貢献
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by totoatsuko | 2010-05-16 16:35 | Comments(0)

宇宙の96%は未知

d0065558_23431995.jpgTed x Tokyo Mr. Hitoshi Murayama's presentation
人類は80年かけて宇宙の96パーセントは未知、dark なのだと理解したのだとか。

すると友人の石川さんが、僕は大学ではこの分野を研究していたんだけど、20年前は、未知な割合が50-99%の間、というあいまいで、でもその後の研究で、宇宙の年齢が明らかになることによって、96%という数字が導き出されたんだよ、と解説してくれる。

ああ、心も同じだな、とユング〔心理学者の一人〕系の私はおもう。

たぶん、私たちが意識できてる、把握できてる、と思えている自分というのは、ほんの数パーセント。
え、そんなに少ないの? という反応があるかもしれないけど、きっとそれくらい小さい。
それゆえ、その知らない部分に、ほんの数パーセントの意識は、無意識のうちに多大な影響をうけ、しかしながらその事実を把握していない・認めていないので、どうして自分がそういう行動や考え方をするのか、どうしてこんなにも気分に左右されるのか分からなかったりする、という心の状態の考え方がある。

音楽心理療法や、ユング派のセラピーでは、その分かっている幅を広げようとする試みをすることにより、自分の無意識、それは世界の森羅万象ともつながっているもの、とのコミュニケーションを喚起し、自分をよりよくしり、個人のindividuation をうながし、望ましくないsimptomに変化を起こすプロセスでもある。

Mr.Murayamaのプレゼンテーションのくくり。
まず、dark side があることを認めなくてはならない〔それを、科学者たちはなかなか出来なかった〕
認めたら、もっと知ろうという取り組み、アクションを起こすことが出来る、
そして、それと戦うことにより〔スターウォーズの、ダースベーダーと、スカイウォーカーのファイティングシーンがスクリーンに映し出される〕
Dark sideを恐れなくてよくなる。
Dark Matters.


そしたら、その後話した茂木 健一郎が、全てはcuriousityから始まった。知りたい、という気持ちが自分をかきたてた。科学が面白いのは、どんどん分かってくるにつれ、どれだけ分かっていないか分かってくるところです、と。Dark Matters.
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by totoatsuko | 2010-05-16 04:32 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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