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なにも、ぶっとんでなくても・・・

大竹しのぶと、名前は忘れてしまった女性演出家の対談を読みながら、自分と重ね合わせてしまうところがあって、くすくす笑ってしまった。

大竹しのぶが、子ども達にいろんなことを学んだ、と言っていて・・・
下の娘が、もうやだ。ウチのお母さん毎日よる遅く帰ってくるし、さんまの娘とかいわれるし、ぶちぶち ぶちぶち言っていると、ある日上の息子が、
「いいか、よく聞け。ウチのお母さんは、普通じゃないんだ。
お母さんのこと、普通のおかあさんだと思うと色々腹がたつことばかりだけど、
普通じゃない、って思ったら、そういう風に思わなくなるよ。」

という内容のことを言っているのを、大竹しのぶが小耳にはさんだのだそう。

ふふふ。
笑える。
そっか、あいつ 普通じゃないんだ。じゃぁしょうがないよね。こんなこと出来ないのも、あんなことやっちゃうのも。
そっか あいつ 普通じゃないんだ。じゃぁしょうがないよね、なんな変な考え方してたり、あんな生き方してるのも。

あたしらがこんなとこでぶちぶち文句言っても、あのひとはもうぶっ飛んでんだから、
あの人のこと理解できないあたしらが悪いんじゃなくて、
もうしょうがないんだよ、あのひと そのままを受け入れるしか。

そんな感じ。

中途半場に人と違うより、ぶっとんでたほうが相手に受け入れてもらい易い?
相手に、自分と比較して批判したり、言動を変えさせようとするのを止めてもらいやすい?

私も、よく「普通はね、 クドクド クドクド クドクド クドクド クドクド クドクド・・・」
と今も昔も言われるですが、もうこの人は普通って概念ないんだぁ、普通が何か、とか考えて自分の行動l決めてないんだぁ、とか自分の常識とこの人の生き方を照らし合わせてどうこうするのやめよう、
と思ってもらえたら、相手も私ももうちょっと楽になるんじゃないかな、と思うのでした。

「普通はね、 クドクド クドクド クドクド クドクド クドクド クドクド・・・」 と言われる母親
「あなたの普通は私の普通でなく、私の普通もきっとあなたにとっては普通ではないと思うわ。それでいいじゃない?と言う母親に育てられている私の子どもたちは、私をどんな風に捉えるようになるのでしょう。
例えば、将来、どんなに「お母さん、お願いだから普通になって」と言われても、それだけはなれないなぁ。
だって、あなたの普通って何なの? なんであなたの思う普通に会わせて私の生きる哲学を変えなきゃいけないの?普通じゃない感じのお母さんを普通になるふりをさせることはあなたにとってどういう意味を持つの?って思っちゃうもの。なるんだったら、自分ひとりで自分の思う普通になればー、それはそれでいいじゃない?って。

なにもぶっとんでなくても、相手と自分の微妙な違いを肯定的にとらえられる、
あるいは違うという事実を受け入れ同じになることを諦めることって、
もうちょっと簡単に気楽にできないかしら。

相手が違う生き方をしていることに対して、嫌な気持ちや批判的にならないでいることは出来ないのだろうか?

相手が日本人じゃなかったら、日本人も相手が自分と同じ感覚をもっていなくても違和感を感じず違いを「ガイジンだから」ってことですんなり受け入れ、違うという事実に批判的にならないような気がする。日本人同士だって違って当然なのに。違うバックグラウンドで育ってきているのだから当然なのに、同じ日本人でしょ、って思ってしまい違いをその人の歴史の蓄積とみれず、その人のありのままの姿を色眼鏡をかけてでしかみれなくなるのは残念だ。
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by totoatsuko | 2009-07-27 16:05 | Comments(0)

なかなか出来ない引き算

ケミカルたっぷりな食生活をしている両親に(そういう食生活が悪い、と言いたいのでは決してない。ただ、私とは違う食のスタイルだという記述なので、どうぞ誤解なさらずに。)、私たちが口に入れるものだけでいいから、ケミカルフリーにして欲しいのだけど、と話してはいるものの、実現には遠そうな道のりを歩んでいる。実家においてある醤油は砂糖入り、醤油や味噌やお酢や芥子など基本調味料からして化学薬品入り。まぁ、たまにした訪れない私の家族のためにわざわざ添加物フリーな基本調味料を買う、というのもね・・・というのはとても理解できる。ならば持参すればいいのだけど、毎回バタバタと訪問するので持参する余裕が無く、結果的に塩のみの味付け料理を自分で作って食べたりしてます。

しかし、私のウチに来たときでも子ども達に私の目をかいくぐってでも店屋物とかケミカル入りのものを食べさせたいという母の努力は、共感するのに難しい。そんな粗末な食生活はカワイそう、と思っている(し、実際私にそう言ってくる)のであるから、色々食べさそうとしたくなる、という理屈は分かる。

ーまぁそれ以前に、私の生き方や信念に対して実の親からでさえリスペクトしてもらえないのは残念なのだけど、、、そういう関係は今にはじまったことではない。リスペクトを親から欲しいという気持ちは永遠に消えないけれども、自分自身のサイコセラピーを経てやっとある程度あきらめることは出来きました。とても時間とエネルギーを要した心理プロセスでした。


子どもと私のある日の会話。
「このおせんべい食べたい」
「だめ。このおせんべいにはお薬がはいっているから。」

「なんで?」
「だってねお薬はひどい病気の時だけしか飲まないでしょ。
お薬入りのおせんべいは食べるものじゃないよ。体によくないの。」

「どうしておせんべいにお薬なんか入れるんだろうねぇ。」
「どうしてかねぇ。どうしてかは私にも分からないよ。」

どうしてなんでしょ。
引き算って難しい。

現状に問題意識があった時、足すことで何とかしようとする考え方が大半な世の中だ。
でも、引き算だって、足し算と同等に扱われてもいいんじゃないだろうか。
喜びと同じように、悲しみも大事な感情だ、というのと同じように。

なんで化学薬品入れるんでしょう。
美容整形みたいに、いったん始めると、止められなくなるのでしょうかね。手を入れて自然な形から遠ざかることに麻痺しているような気がします、作り手も買い手も。

心のケアも、お薬も有効な場合も勿論あるけれど、
本当はお薬は必要なくて、サイコセラピーによって、ありのままの姿を受け入れることが出来るようになれば、生きていくうちに付随してきた見栄とかプライドとか傷とか装飾とかを見つめて、本当に必要なもの意外をそぎ落としていけば、
そのプロセスは大変な道のりの場合もあるのですが・・・
心がありのままのシンプルで無理をしない状態に戻れる場合もあると、
飾り立てない自分を受け入れ、自然体で生きていく姿勢を見つけることが出来ると信じています。
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by totoatsuko | 2009-07-24 23:13 | Comments(0)

兄としてのプライド

先日長男4歳の担任の先生と面談。
保育園でおままごとをやると、率先して赤ちゃん役になって、あぶー、と甘えたり、おっぱい飲ませて、と言ったりしてます。 と言われたので
えー、そうなんですか?家で次男がおっぱいだぁーと興味深々にしてるときでもそ知らぬ顔してるので意外です。
と言うと、
あー、それは兄としてのプライドがあるから、弟の前では出来ないんですよ、きっと。
と言われハッ、とした。

そこに兄弟がいる限り ライバルリー(兄弟間のライバル意識)は常に存在する。アドラーが唱えたsibling rivalryは知識として知っているし、音楽心理療法のクライアントの家族関係を分析し仮定を考えるときは使うけれど、自分自身の長男と次男の関係を見る時、この知識を反映させたことは無かった。

いかに知識と実生活の場が簡単に分離してしまい、それに気づかないでいられるか、というのを痛感。

そして、いかに彼の弟に対するプライドとも言われるが実は「見栄」が、彼自身の素直な心のニーズ=甘えたい、を満たそうとする本能的な行動を妨げているか、ボク甘えたいんだ、と弟の前では素直に言えなくさせているか、というのに気づかされた。
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by totoatsuko | 2009-07-21 22:56 | Comments(0)

プライドー誇りをもつことってどういうこと?

プライドー誇りをもつことってどういうこと?
と自問してみる。

プライドとかくと、何かネガティブな要素を感じてしまうが、
誇り、とかくといい印象だけを感じるのは、私だけか?

Coco ChanelはÉtienne Balsan という御曹司に見込まれ何不自由のない生活を提供される中、帽子つくりをはじめる。それが当時の貴族婦人達の評判となるが、彼は自分の愛人が「仕事をする」のが許せない、と言った。当時、女性が働くのは家計が苦しいがゆえにしぶしぶ、というのが大半だったから、自分が一人の女も養えない男だと見られるのが嫌だったのだ。

本当はそうではないのに。
彼が一人どころか、何十人だって養えるお金持ちであることは、誰でも知っていること。
彼は「養う」という言葉を使ったが、彼が恐れていたのは、彼女が自分の思い通りになる女ではなくなってしまうのが怖かったのだ。彼女が自分の店を持ち、自分でお金を稼ぐようになり、彼女が「Étienne Balsan の愛人」ではなく、「Coco Chanel」 として世間に存在することに、男のプライドが傷ついたのかもしれない。自分が必要とされなくなるかもしれない、という無意識の巨大な不安があったのかもしれない。

そして、ココも男の所有物、と見られるのは自分のプライドが許さなかった。

男のプライドは、女が働くことなんかでは傷つかないはずなのに。
私には、それはプライドではなく、見栄にしかみえない。
すごく魅力的な女性が自分のものである、と世間に見せたい見栄。
男性にだまってかしづく女性の態度をもってでしか、その女性が彼のものだと受け取れなかった世間に対する見栄。そもそも女性は男性の所有物ではないのに、当時はそういう見方しか男女の関係をみることが出来なかったし、Étienne Balsan はその世間の目に躍らされて、そういう関係しかココとの間に見出せなかった。

勿体無い。

彼女を愛していたのなら世間がどうあれ、
彼女を愛している自分、
というプライドにかけて、愛することができたらよかったのに。

彼と別れた後、やりたいことをやることによって、もっともっと彼女らしく生き生きと、もっともっと魅力的になっていくココをBFという距離から感じ、喜び、ともに辛苦を共にすることは出来なかった。

帽子作りなんて道楽だ
(よくも帽子つくりにエネルギーを注いでいる愛する人に対してそんな暴言が吐けるものだわ!)、
と彼はココに言い
ココは、これは戦いなの、古びれたファッションに対する私の戦いなの、と言い返す。

彼は、ココの帽子作りに対するプライドを感じ取る事が出来ず、ココも伝えきることができなかった。

プライドを持って生きることは思っている以上に大変なことかもしれない。
常に、プライドを傷つけられ、心を痛ませねばならない環境にさらされているから。
そんなプライドなら捨てちまえ! と。

心が痛むのを恐れていたらそうなってしまう。

でも、私はプライドを持って生きたい。
何度もプライドをずたずたにされて、心もボロボロ ボロボロと涙をながした。
行動や思想に対する自負心さえ、やっている事に対する誇りさえもっていなかったら、相手に主ねいたりこびたりして、攻撃をかわすことが出来たであろう傷や涙。

でも、プライドは捨てきれない。
自分が自分である、というプライド。
沢山泣いて少し学んだ。
自分のプライドを捨てずに、相手に道筋をすこし譲りながら、自分自身がブレないやり方を。
見栄をすて、恥をかくこと、なりふり構わず頑張ることは、プライドを傷つけず、本質的には自分の本当に守りたい芯のところにある誇りをまもることにも繋がる。

まだまだ勉強中。
まだまだうまく出来ないときが沢山あるけれど。

そんなプライド・こんなプライドだけど、いま一度一つ一つのプライドを見つめなおし、そのプライドたちと対話をして、彼ら、という私の誇りを大事にしていきたいと思う。
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by totoatsuko | 2009-07-17 10:21 | Comments(0)

自分らしくある、というプライド

プライド、というのは時としてやっかいなものだ。
あの人はプライドが高くてやな感じ、とか
プライドだけ高くて中身がない、とか
そんな風にネガティブに使われることが多い。

こう評されてしまうのは、自分自身でもっている自分に対するプライドが、他者にたいする見栄、というものに自分の中で知らないうちにすりかわってしまっているかもしれない。

自分のプライドにかけて取り組む仕事、役柄。
手抜きは自分自身が一番許せないはず。

例えば社長というプライドがあるなら、会社を背負う社長という役柄を担っている、ということは決して忘れることは出来ず、自分の言動・選択をいい加減にはできない。社長であることの辛さも喜びも味わう。人の上に立つことの快楽や権力への執着だけが全面にでていたら、それはプライドが見栄にすり替わっていくプロセスが起こっているのかもしれない。

会計士が不正会計に手を染めてしまったら、その人には会計士としてのプライドは無いのかもしれない。
それとも、会計のプロとして不正会計を完璧に隠す仕事にプライドを感じているのかもしれない。

プライド -ではなく見栄っぱりなゆえに、「そんな事は出来ない」とか言ってしまってチャンスを逃してしまったり、本当はやりたいと思っていることができなかったりはしないか?

プライドを持つって、素晴らしいことだと思う。自分が自分らしくあるというプライド。
自分がじぶんらしくあることへの執着。
自分が自分らしくあり、それを自分自身が肯定的に受け止めるには、まず自分自身が自分自身の選択に納得していないといけない。
納得できないことをなんとなくやっている事に対しては、プライドは持てない。
プライドがあれば、その事柄に一生懸命取り組む。試行錯誤する。自分のベストをつくす。

だって、プライドがかかっているのですもの。

そして、そのプライドを保つためには自分以外に多くなくていいから絶対的な無条件の愛を注いでくれるサポーターも必要。自分だけで自分のプライドを守るのは、出来ないことはない、と思うけど、辛すぎる。

どんなに世間一般から、あるいは家族からこき降ろされようと、自分のプライドを守るための血がにじむ努力を見守り、記憶し、決して見捨てない誰か。なかなか見つかるものではないけれど、そんな人がいたら、周りからどういわれようと、自分の本心が望む、自分らしいあり方、生き方を追い求めることができるのではないだろうか。

そんな事を書いていると、
自分はプロフェッショナルとして、音楽心理療法士としてのプライドは意識したことがあり、それゆえプロフェッショナルな仕事をしようと真剣に取り組んでいるけれど、
母親や妻や女性としてのプライド、って意識したことが無かった。

母親としてのプロフェッショナル意識を持ったなら・・・
なにげなく、あるいは勢いで子どもを叱るのが減るかも。だって、そんな母親でありたくないから。そういう母親である自分が母親であるといのは、プロフェッショナルな母親としてのプライドー誇り、を感じられないから。

妻である、女性である、ということに誇りをもって、その役割・生を生きているなら、出来ること、出来ないこと、感じる喜びや苦しみの大きさの変化が起きそうだ。

完璧主義は自分を苦しめる。
もっと自分に優しくなろうよ、出来ない自分を許してあげようよ、という傾向が悪いとは思わない。

でも、自分が生きている自分の沢山の役割に対してそれぞれのプライドを自覚したら、
もっとその役割を楽しめたり、
もっと自分の本心に耳を傾けようとし、
回りにながされて何となくまあいっか、あんまりそういうの好きじゃないけど、まあいっか

じゃなくて、

私はこうしたい。
こんな生き方がしたい。
自分のこだわりを実現できる大きな喜びを味わいたい。

それに対しての批判も異論も受け止める覚悟はする・プライドを持って生きる代償として。
(どうして未だに日本は人と違うと攻撃されちゃうんだろ?)

そんな風な生き方の・心境の変化がおきはしないか。

自分らしくていいじゃない。
世界に一人しかいない「自分」にプライドもっていいじゃない。
それくらい、真剣に生きているんだから。
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by totoatsuko | 2009-07-16 22:59 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


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