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制限なのか、選択なのか?

マクロビオティックなスタイルを、食事制限、と表現するマクロビオティックを知らない人がいる。

しかし、マクロビオティックでは、より自由に人生を楽しむための、自由な食事だと桜沢先生(マクロビオティックの元祖)は書いている。

確かに、人口添加物、動物性食品、白砂糖、乳製品、卵、がない食のスタイル・ダイエットは、現代日本の食卓に慣れている人からみたら、ものすごく不自然に見えるのも分かるし、そういう一般的でない食事をする、ということは、何か自分に制限をかけてやっているに違いない、と憶測してしまうのも分かる。

こういう捕らえ方をする、ということは、すなわち現代日本の一般的な食事をすることが、マクロビオティックなスタイルをとるより、食事に関して自由であり、自分の意思や好みと合致する食品を選択することができている、というアイデアが根底にあるからかもしれない。

かつては現代日本の食文化に染まっていたけれど、ここのところマクロビオティイクなごはんが心地いい私は、
マクロビオティックがどうのこうの、というより自分が美味しいとおもうものを「選択」していったら、結果的にそれがマクロビオティイクな食事・食との関係、といわれるものと同じだった、という感覚を感じている。

これは食べちゃダメ、これはこういう風に料理すべき、という制約・知識が先にあって、それにそって食べるものを決めているのではなくて、食べたいものを食べている、という感じ。マクロビオティックの理念という知識がが先だっているのではない。(マクロビオティックをはじめたてのころは、マクロビオティックの知識に踊らされてしまう現象はよく起こるけれど。)

だから、かわいそう、と哀れんでいただくことはない。
その言葉は、添加物が入っていないもの、心を不安定にする白砂糖、体に負担をかける乳製品などが入っていないものを手に入れにくい - 選択することが出来ない、という現状におかれている方にそっくりお返ししたい。

無添加のもの、ホルモン剤を使っていないもの、などというものがそもそもお店に無い、そもそもそういう選択肢がある、ということを知らせれていない、お肉やお魚、砂糖や乳製品がのらない食卓は寂しい・バランスが悪い、と何となく思ってしまうようにCMや生活環境、学校教育の中から思い込まされてしまっている現代日本人のほうが、暗にものすごい食事の制約をうけているのではないか、と思うのだ。

食べなくてもいいもの、を食べなきゃいけないように思わされたり、
人口添加物で調味された味でないと舌や目が満足しないように中毒にさせられたり、、、と
努力をしないと、地球と共存、人間も生物、という視点からはとても無茶なことを生物にも植物にも自分達にもするような形でしか、食事ができない。

多くの人はいう。
添加物は嫌だけど、しょうがないよね。見てみぬふりするしかないよ。だって、入ってないもの売ってないでしょ、近所のスーパーには。スーパーに、買うものの選択を制限されている。

そして、この食文化環境は、将来私たちは決定的にしかし、今と同じように直接誰かに言われるのではなく、堀をうめられるように気付かないうちに制限を受ける。食糧難、だ。

今はあふれるほど、捨てるほど食料があるという夢を見させられている。
どんなに横で食糧難はやってくる、と言われても耳に入らないくらい深い夢に。

結果的にマクロビオティイクな食事をしている私だけれど、私は選択することができているのだ。
選ぼうとおもえば、お肉だって、お魚だって、お砂糖が入っているものだって、人口添加物入りのものだって選べる。私の選択を批判する権利も、食事の制限をする権利も誰も持っていない。私は好きなものを食べる権利を持っている。自分工添加物入りのものも選べるし、そうでないものも選べる。選択肢は広い。すくなくとも、私にマクロビオティックって食事制限してるみたいでかわいそう、と言いながら、食品会社の思惑にのせられたままだったり、お肉やお魚がないと、あるいは化学調味料を使わなかったら味に文句を言う家族の顔を思い浮かべながら、なんとなくの日本の標準的食卓を再現し続けている人より相当広いと思う。

自分の心と体の食の関係がより見えるように・感じ取れるようになった今、マクロビオティックを知らなかったときより、随分と食のなかで私は自由になったし、心と体がよりいっそう食によって満たされるようになった、と感じている。

私は、制限されているとは感じない。
食事制限しているとも感じない。
選択肢が広がった今、コマーシャルや時代の流れだけに影響されず、自分の内なる声、体からのメッセージを聞きながら、主体的に自分の体に取り込むものを選択することができる、という感覚を実感している。
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by totoatsuko | 2009-06-23 02:15 | Comments(0)

セラピューティック レター

心理療法の手法に、therapeutic letter なるものがある。
何か伝えたいけど伝えられなかった相手、伝えたいけど何かの事情で伝えられない相手、伝えるつもりは全く無いけど、様々な思いを交錯させている相手に、手紙をかく、というプロセス。

過去の自分へ・未来の自分へ・自分を攻撃してくる自分へ・泣いている自分へ
あるいは、
確執のある・あった相手へ、架空の人物へ。

その手紙を実際出すか出さないかは、別の話。

手紙を書く、というプロセス自体に意味がある。

書いている過程で、色んな考えや思いが鮮明に浮かび上がってくる。
もやもやした気持ちや考えや意見がはっきりしてくる。
悲しみや怒りや喜びが心にあふれてくる。

その気持ち、どうにかしないと。と真剣に思う。
自分で何とかできる場合もあるし、セラピストと一緒にまったく新しい角度からその気持ちにスポットライトをあてて再検証・再確認してみるのも、新たな展開を生む。

こんな過程をとおして、心の浄化がおこったり、手に余った相手に対してやるせない気持ちを自分なりに消化する手立てがみつかったり、相手との関わり方にヒントが生まれたりする。
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by totoatsuko | 2009-06-18 22:03 | Comments(0)

人 という文字

人という文字は、支えあっている というのを象徴している、といわれている。

支えあっている、というよりは左側が傾いてて、右側がつっかえ棒みたいに支えてる、という感じにも見えるけど。
あるいは、象形文字として、二つのものが交じり合って一つになっているとか、
二本足でしっかり土台を固めて上部を支えているとか、にもみえる。

もし、つっかえ棒が世間の常識、という性質もので、その事実に対して無意識だったら、もう一方の自分は、得体の知れない世間の常識、とやら言われるものに振り回されることになりはしないか。

もし、自分の一部である、片割、あるいは片足が、世間の常識とやら言われるものであれば、それに振り回されることになりはしないか。

実際、私達の意思決定や振る舞いは「世間の常識と”自分が”思い込んでいるもの」に大きく左右されている。
こうするものだ、と小さい頃から深いところへすりこまれているので、どこら辺が刷り込まれたもので、どこら辺が自分の心底からの意思か、区別がつかない。いや、区別をつけるべきものではないのだけど。

今こうある自分が、どのくらい「無意識のうちに刷り込まれたもの」を「自分なりに消化することなく」オートマティックに、あたかも自分のユニークな意思と捕らえているのか。
そもそも、そんな事を自分に問うたことがないのか。

こんなことを思うのは、自分の考えと思っているが、実は刷り込まれた 世間の常識とラベルを貼られた価値観によって、自分で自分をものすごく縛ってしまって苦しくなってしまう自分やそういう人をみかけるから。
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by totoatsuko | 2009-06-17 23:58 | Comments(0)

バトル

例えば風邪を引き起こすウイルスが空気や皮膚接触を通して体内に入ってきたとして、私たちの体は免疫力を使ったりして戦い、撃退する、というイメージ。体力がなかったりして、その戦いみ負けてしまったら、健康な状態をのっとられ、少しの間、ウイルスの支配下に体が置かれ、咳やくしゃみや、熱という症状と付き合わされることになる。

ただ、占領が長引かれては困るので、薬などで自分の体のもつ兵士を力づけて、戦う。

でも、ふと思う。戦わないで風邪にならない形があるのではないかと。
病原体が増殖できない体内環境であれば、病原体自体が増殖する前に自ら退いてくれる、という図式もありではないかと。

そう夢想していると、日頃の人間関係や、物事にも同じことが言えるのではないか、と思った。
攻撃してくる、と感じる相手から売られたケンカを買い攻撃し返すのか、
攻撃しても意味がないような自分の在りよう・反応であるのか。

それは、攻撃から身を守るために引きこもり身を固く閉ざしてダメージを最小限に留めようとしている図ではなく、侵入にオープンでありながら相手が攻撃しようとする気持ちを萎えさせてしまうような在りよう。攻撃するよりは、むしろ仲良くしたくなってしまうようなありよう。

ワクチンみたいなイメージかしら。
最初は相容れない関係なんだけど、いったん手をつないでみると、味方・免疫力という戦力を担ってくれる。

戦わないといけない時もある。
戦わねばならない時もある。
でも、無駄な戦いはしたくない、と思うのです。
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by totoatsuko | 2009-06-11 10:50 | Comments(0)

97歳 大往生

祖父が97年の人生を閉じた。
遠くに住んでいたので、その幕引きの様子を近くで寄り添うことは出来なかった。

聞くところによると、2ヶ月位前に肺炎で入院。
退院後、食欲がなくなったので、胃に穴をあけて栄養を注入出来るよう、手術ー入院。
退院後、痰が詰まるようになったので、痰除去器具を購入して、1時間後とに吸引。
その1週間後、永眠。

食欲がなくなり、祖父が人生を大幕を引こうとしているところに、97年魂を宿し、今ようやく休息の時を迎えようとしている肉体にメスを入れて、何が何でもからだに栄養を注入しようとした理由が、個人的には理解できないし、悲しかった。それが医師の提案だったのか、家族の希望だったかも知らない。祖父とちゃんと対話して、祖父が自ら希望した手術かどうかも知らない。

家族としては、一日でも長く生きて欲しかったのか。
家族は、肺炎や食欲不振などが祖父の肉体と魂が幕をひこうとしていた現象だとは思っていなかったし、今も思っていないので、祖父の死はものすごく唐突に感じ、衝撃をうけたそうだ。

亡くなる1日前、もう長い間つけっぱなしだった点滴をはずして欲しいと、反対されても、頑なに希望したそうだ。何故、この期に及んで、祖父の希望をすんなり受け入れてあげられなかったのか。やはり、それが祖父が死への準備をしている、と察しなかったからではないだろうか。

もちろん、祖父とその家族の間で、死につての対話はなかったそうだ。

断っておくが、このような人生の幕引きはよくない、といいたいのではない。
彼らは、彼らなりの考えがあって、97年という人生の幕引きシーンの中でそういう役を演じたのだから。
そして、そういう家族との関わり方、そういう幕引きの仕方は、祖父の人生らしかったのかもしれない。
元気なころ、あまり家族と会話していないのに、死ぬ前になっていきなり家族とコミュニケーションを頻繁にとる、というのは祖父の人生らしくない。

彼らにとっては、この一連の死への流れはごく自然で、
ただ、「私にとっては」残念な幕引きに「みえた」というだけのこと。

お葬式を終えて、私は自分の家族にお願いした。
私が死へ向かって歩き始めたら、西洋医学や東洋医学その他色々あるけれど、そういうものを使って、何としてでも引きとめようとはしないで欲しい、どんなに別れが悲しくても、どんなに誰かが引き止めるよう進言してきたとしても、と。私の人生の尊厳を認め、私が私のペースで死んでいくく歩みを見守って欲しいと。

みなさんは、自分や家族の死、死んでいくことについて、家族とまじめに話したことありますか?
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by totoatsuko | 2009-06-05 23:41 | Comments(2)

批判にさらされて - 草食 vs 肉食~よしえさんのコメントを受けて

マクロビオティックが、日本より欧米で市民権を得ているのは、よしえさんが言う「文化的な側面」も作用しているのでしょうね。

栄養士の方が
離乳食をマクロビオティックでやるなんて・・・
離乳食は人生で最初に食べるもので凄くだいじだから、せめて「ちゃんとしたもの」を与えないと成長に問題をきたしますよ、
とおっしゃられているのをききました。
「ちゃんとしたもの」って何、、、

マクロビオティックの何がちゃんとしていない、と思うのかなぁ、
マクロビオティックのマのじも知らないのだから、たとえ栄養の専門家であっても、知らないことに対して批判しないで欲しいなぁ、と思いました。

マクロをやっている人は貧血など体調不良になるんじゃないかと栄養のプロとして心配していらっしゃいました。心配になるのも当然ですよね、「この」栄養士さんの理屈ではマクロビオティックは「ちゃんとした」食事では無いことになっているですから。

マクロビオティックで離乳食の時から育てられたら、ちゃんと育つはずが無い、という印象をもたれていたので、想像からくる誤解はといていただきたいと思って、マクロで育って病気もせず何の問題も無く成長している人はたくさん存じております、というと、その栄養士さんは驚かれているようでした。

マクロビオティックをやっていると、この栄養士さんのような周りからの目やお言葉は日常茶飯事で、凄く悩んでしまう人が沢山います。自分にとってマクロビオティックの食事が凄く体にあうと感じているのに、栄養学や日本の常識と照らし合わせて、「おかしい」「まちがってる」と言われ、その狭間でマクロも食べれない、でも今までのような食事はマクロを体験してしまった体がもう受け付けない、では何をたべたらいいか・・・分からなくなってしまう、という苦しい状況。

私も周りからお言葉をいただくことはあるので、そのつど食のスタイルは違ってOKではないですか?肉食もマクロビアンも仲良くしましょう、というメッセージを相手が分かりやすい言葉にする訓練をさせてもらっています。

周りから偏見をもたれている、理解が無い、という点では音楽療法やグリーフカウンセリングにも通じます。

私は、自分が興味を持つとき、取り組み始める時はまったく自覚がないのですが、小学生の頃から、周りからは は? と思われるような事に興味を持ってきました。
だから、恒常的に、は? という反応や、もう少しアグレッシブな攻撃があるのが日常のようになっていました。
それでも、やっぱり 私がやっている事は何なのか知ろうとする努力はみじんもしないで
は?あなた間違っているわよ、という頭ごなしの批判や、には傷つきます。
でも、傷ついて泣いてるだけじゃ、自分のやりたいことは永遠に出来ない、というのも学びました。

音楽療法もグリーフカウンセリングも、うさんくさい、と思う人は沢山いる。
どんなに音楽療法士同士で、「やっぱり音楽って偉大だね」と話しているだけでは、決してより多くの人に、音楽療法を理解し、より多くの人にその恩恵を体験してもらうことにはならず、音楽療法という学問の成長にも繋がらない。

私達療法士が、セッションの中で、限りなくクライアントが使うコミュニケーションツール(体の動きやエネルギー、言葉、声 etc)を理解しようとし、クライアントが理解できるやりかたで繋がろうと試みるのと同じ。

批判する相手が理解しがたいから、自分とはソリが合わないから、という理由で、相手を「批判し返し」たり、コニュニケーションを絶ってしまったら、それ以上お互いの事は知りえない。それでいいのなら、それっぽっちの関係なら、それでいいとおもう。

でも、例えばそのままでは、自分の信じていることを続けられないような(精神的・肉体的・経済的)妨害(といったら言葉は悪いですが)を受けるのなら、対話を続けるしかない。批判だけして歩み去る相手の背中を追ったり、相手の理屈や感情を理解し、寄り添う努力・(賛同してくれなくてもいいから)せめて、自分が信じていることを実践する・自分らしい生き方を探求する事への阻害だけはしないように納得してもらう努力をするしかない。

そう 思っています。

もし、自分が本当にそれをやりたい、と思っていたら、
そういう努力を
相手との対話の積み重ね(決して1回では終わらない)を
自分の大切なもの・信念 を守るために
やり続けるしかない。

****
ゴールのないマラソンって、大変。
でも、その大変さがまた、人生を豊かにしてくれているのだと思います。
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by totoatsuko | 2009-06-01 22:02 | Comments(2)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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