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子供に包丁を使わせる

数ヵ月後に4歳になる息子。
最近やたらと料理を手伝いたがる。

ある日、子供用の包丁・ピーラーを発見。
存在するのは知っていたけど、まだ早いだろうと思って買わなかったけど、
そろそろやらせてみようかな、と購入。

実行予定日に納豆巻きつくって、というので巻き簾で巻くところは手伝ってもらって、いざ包丁。
これまでも、私がざくざく切っている手の上に手を添えさせてあげて、切る疑似体験をしたことがあるけど、自分が切る、ってのは訳が違う・

いっぽ間違ったらざくっ、といってしまうのだ。
子供の包丁だからって、切れ味は同じ。ただ、サイズが子供の手に合うように作られているだけ。

左手で納豆巻きをおさえて、右手で包丁をもって、前後に動かしながら下におして切る。
下まで押し切らなかったら、海苔がつながってるし、
前後させずに押して切ると、納豆巻きの切り口がぐちゃー、っとなってしまう。

やり始めははしゃいで、包丁もったまま腕をふりまわして私を激怒させていた子供も、
切りはじめたら、これはちゃんと「切ること」に集中してやらないとほんとうにマズイことになる、と自分でわかり、おのずともの凄い神妙・真剣顔に。部屋の空気もピキンと張り詰め、静寂が訪れた。

刃物が神様 (昔は、正月3ヶ日は刃物の神様に休んでもらうため、刃物を使用せずすごした)なんだ、というのを、子供に包丁を持たせて初めて、それが持つ怖さと威力を実感した。いっぽ間違うと命さえ奪ってしまうモノ。その怖さを、包丁とちゃんと向かい合わず無造作に扱っている子供の姿をみて痛感した。

私は真剣な顔で(むしろコワイ顔)見守って、子供に指示を出す。
ほらもうちょっと前後に動かしてごらん・ 左手もうちょっと寄せないと、包丁にあたっちゃうよ。

ちょっとづつ上手になって、私の助言の数も少なくなる。

ってところで、集中力切れ。
切り残した長い納豆巻きにかぶりついてた。

まだfine mortar skill(手先を細やかに動かす能力)は年齢相応に発達していないから危なっかしいのだけど、fine mortar skillを磨くと同時に、
もの凄く集中する、(集中しない=身の危険が生じる)
自分が食べるものの調理に関わる、
親子の真剣な関わりをもつ、
そしていつかは自分の指を切ってしまう、
という体験が出来るという意味では、包丁を使わせる意義は大いにある、と思いました。

自分でやってしまう方が、10分の一くらいの時間とエネルギーですむけれど、
今度は、出来上がったものを切るんじゃなくて、お味噌汁の具とかを切ってもらおうと思う。
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by totoatsuko | 2009-03-31 15:49 | Comments(0)

音楽療法ワークショップ;4.19 Sunday


アートセラピスト・折り紙研究家の小林 利子さんの一時帰国の機会に合わせておこなった先週末の集まりには
アート・ドラマ・プレイ・ミュージックセラピスト達、心理系の大学院生の方々、芸術療法に興味のあるご家族、報道関係の方などにお集まりいただき、それぞれがそれぞれの体験・会話をすることが出来た場をもてたことを嬉しく思います。こういう集まりでは、出会いのきっかけになっても、なかなか一人の方と深い話は(他にも人が沢山いるし、時間も限られているから)出来ないのですが、この場が、今後の広がりの種まきになれば、と思っています。

土鍋炊き上げ玄米で握った、ホッカホカお結びの差し入れがとても好評で、
ADHD(多動)や精神不安定な状態と食の関係をマクロビオティックの視点からお話しする、という予想外の展開もあり食べることを見直すきっかけになった、とおっしゃっていただき嬉しかったです。

4月には、長江さん(ノードフロビンズ認定音楽療法士・NYU 大学院卒・Analytical music therapy勉強中・NY在住)が一時帰国されます。
また、同じような集まりを持ちたいと思いますので、興味のある方はご連絡ください。
四月19日 16-19時 @東京都渋谷区
letsmusicing@gmail.com

前回は行なわなかったグループ即興音楽の時間など、体験の場を織り交ぜたいと思っています。
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by totoatsuko | 2009-03-31 15:30 | Comments(0)

見ないこと・見守ること


先日保育園でお別れ遠足があった。
卒園していくお姉さん・お兄さんとみーーんな一緒。
持参のお弁当は、学年を超えた縦割り班で輪になって食べた。

当日あさ、
子供は前夜、自分自身が捏ねて、形をつくって、オーブンで焼いたクッキーをもって行く!
というので(とてもproudだったみたい)、
じゃぁ、みんなにもあげようね、うん、そうだね、そうしよう!
と6個可愛いクッキーバックに入れる。

夕方お迎えに行ったら、「クッキー、ぜーんぶ食べたんだよ!!!」
というから 嘘でしょう(汗)・信じられない・・・と思いながら先生にきいたら、ずーーともぐもぐ食べてましたよ(笑)、と言われるではないですか。
よっぽど楽しかっただろうなぁ、と思う。誰にもなーんにも言われず、ある分だけ全部食べれた喜び。いつもは一度に一個か二個だから。
私が横にいなくてよかった。私にはその喜びを体験するチャンスは与えてあげられないだろうから。ついね、もうやめときなさい、とか、オトモダチにも分けてあげたら?って言っちゃう。
まぁ、親って子供にとってそういう役割を演じる役目もあるからしょうがない。

見ないことって、大事だなぁと思った。
見てしまうと、こちらも口出ししたくなるし、気持ちがかき乱されるし、あちら(子供)も私に気をつかい、自由のなかの自由なキブンは色合いは違ってくるだろう。
一緒にいる時は、みっちり親密かつ、家庭や親子のルールを提示するけど、そんな世界から離れて、まったく違うルールで成り立ってる世界に一人で対峙し、home base から離れることの自由や危険を体験するのは、とても意味があると改めて思う。

ただ、親から離れたその場に「見守る人」がいるのは凄く大事だとおもう。
知らない世界を自分の感覚をつかって冒険し、知らない世界の中で自分の世界を作っていくのはとてもクリエーティブなプロセスで楽しい。同時に、危険でもある。
変な例えだけど、例えばクッキー6個が致死量だった場合、死の淵、という極限を体験するのはとてもとても重要で意味がある(そういうのを通して生きることの重みを感じることができる)と私は思うけど、
そばでその過程を見守り、死の淵から死へ落ちる直前に救ってくれる人が絶対に必要。そして、死の淵から生還したあと、その体験を一緒に振り替える手助けをしてくれる人。
こわかったね、死ぬかとおもったね、でもクッキー6個ほうばるのって、すんごい楽しかったね・・・と。
それは、親でもいいかもしれないけど、他人であることも重要ではないかと私は思う。
自分のホームベースに存在する人には知られていない、「秘密」である、というのも、自分自身の世界を確立していくのに意味ある要素。

子供に近しい人間・親・だから出来ることと、絶対に出来ない、やってあげられないことってある。
自分が、あの遠足の時の子供で、お弁当の御飯をちょっと残して、クッキーお腹いっぱい食べてるのを想像してみたら感じる・
ただでさえ楽しい遠足で、いつもと非日常で、みんなに自慢しながら自分が好きなクッキーを好きなだけクッキーをほうばる喜び!

積極的に、関わらない時間、と、見守ってくれる人とのネットワークをこれからも作っていきたいな、と思う。

きっと、これは親子(成人した子供と親の関係も含み)の関係だけではなく、夫婦とか恋人とか友達とか同僚などの親密な関係の中にも必要な要素だと感じた。

セラピーの過程や、その関係にもこの要素が存在する。
セラピストは、決してクライアントを守り、その心を見通して転ばぬ先の杖的なアドバイスを与えるだけの役割ではない。
クライアントが、その生きている生きにくいと感じている社会や人や自分自身との関係・世界で、いかに自分らしさを楽しみ、いかに自分を解放し、自分の世界を確立していくか、
その過程を見守り、必要な手助けをでしゃばらず、しかし必要な時は必ず差し出す。

見ない、見てないふり、見守る、ことで提供できる安心感と関わる時のタイミング。
簡単なことではないけれど、クライアントと音楽との関係・過程の中で大事に扱っている要素でもあります。
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by totoatsuko | 2009-03-31 10:44 | Comments(0)

図書館の本屋化 望む

今の本屋さんと私が子供の頃の本屋さんは、随分と本の売り方・ディスプレイの仕方が違う。

自分たちの客層を把握して(本屋さんによって、主婦が多かったり、ビジネスマンが多かったり)、その人達が興味をもちそうな本をスペースを使って目立つように配置する。出版社と売り手をつなぐニュートラルな立場を取るのではなく、積極的に「ウチはこの本、オススメです」というカラーを出している。積極的にマーケティングしいる。

この戦略は、ネットの本屋さんの方が早く取り入れていたと思う。
過去こういうものを買ったあなたは、こういう本がオススメ、とHPにいくと提示される。

これは、自分のことを人間としてよく分かってくれている美容師さんとの関係に似ていると思う。10言わなくても、その時の気分や自分の内面の変化に合わせて、髪形を提案してくれたり、コメントしてくれたりして、inspiringな関係.

話がそれそうになったところで、本にもどって、、、
こんな積極的なマーケティングとは言わないまでも、公営である図書館もそんなディスプレイをしてくれたらいいのに、と思う。そういうのをしたからってお金が儲かるわけでもないし、彼らはディスプレイや営業のプロとして雇われている訳ではないから、求めるのは難しいのかもしれないけれど、せっかく沢山の蔵書があって、無料で素晴らしいリソースを全ての人と分かち合うサービスなのだから、それを最大限社会に貢献させるために、色々な工夫がなされてもいいと思うのだが。

図書館に行っていつも思うのだ。
どの本が面白いのか行っただけでは分からない。
事前に「これを借りよう」と思っていかなければ、なかなか読みたい、と思う本に出合えない。

ある都内の小学校の図書室は、予算の関係で週に2日しかOpenしていないそうだ。
本が読みたい子、図書室で勉強したい子の意欲や好奇心にこたえられない、すぐそこに図書室があるにもかかわらず。PTAがボランティアで当番する、といっても今のところ受け入れてもらえていないそうだ。

お金、という利益がからんでこないと、時代と共に変化していくニーズに応えるために自分たちが出来るサービスをよりよいものに進化させるための努力をするインセンティブが生まれにくいのだろうか。いや、そんな事はないはず。

中立性 というのはとても大事な時と場合があるけれど、
折角だから、図書館も本屋並に積極的に各自のカラーを打ち出して、本を宣伝していって欲しいと思う。
使い勝手がよりよい、子供も大人も本を手に取りたくなるような図書館が増えることを願う。
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by totoatsuko | 2009-03-24 00:56 | Comments(2)

トラウマティック・ストレス学会・報告

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NY在住のアートセラピスト、小林 利子さんが学会で、折り紙セラピーのワークショップを行いました。
あわせて利子さんを含むNYのCJCAT*のメンバーと、東京在住の私が一緒にSkypeで連絡を取り合いながら共同制作して、学会で出したポスターはこんな感じ→

他のポスターは、グラフや数字が多かったのですが、わたし達のポスターだけ、three D でカラフルでしある意味目だっていました :) これは、良し悪し。
わたし達は、数字では表しきれない微妙な心理の変化を扱っている・扱うことが出来ることにより、数字では表せきれないクライアントの心の豊かさが生まれる手助けをすることができる、という反面、

わたし達は、これだけ心理研究者・セラピスト・医師が、その効果を実証するのに使う道具=数字、をもっと上手に使いこなして、その価値を提示できるようにならなければ、といつもながらですが思いました。

*CJCATとは

日本人クリエーティブアーツ・セラピスト・コミュニティー
Community of Japanese Creative Arts Therapists(CJCAT)

日本人のクリエーティブアーツ・セラピストの月例スーパービジョングループや、メーリングリストによる情報や意見交換を行うグループとして、ニューヨークを本拠地とし2003年に発足しました。現在は、米国各地の大学院や専門機関で学んだ専門家や勉強中の学生が米国と日本各地に約60名点在しています。日本人に適したクリエーティブ・アーツセラピーの実践と普及を目指し、精神医療における専門職として勉強会を行ったり、講演会や体験会、学会発表、専門文献ライブラリーの構築などに取り組んでいます。NYでは、医療ネットワークJAMSNETのメンバーとしてNY在住の日本人一般のメンタルヘルスケアの一端を担い、またセントラルパークにおけるJapan Dayでのボランティア、領事館の邦人援護のサポートなど地道に活動の場を広げています。

クリエーティブアーツセラピー(言葉以外の道具 - アート、音楽、ドラマ、プレイセラピーなど)に興味がある方のお問い合わせ、受け付けています。
cjcat@gmail.com (CJCATの問い合わせ先)
letsmusicing@gmail.com (私のアドレス)
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by totoatsuko | 2009-03-17 09:35 | Comments(0)

ゲシュタルト手法 を使ってGIM

私はゲシュタルトのトレーニングは受けたことがないけれど、昨年何度かクライアントとしてゲシュタルト手法を体験した。ゲシュタルト手法はいかなるものか、というのは私はゲシュタルトの専門化ではないので控えるとして、私の例を紹介しようと思う。ただ、こういう手法だけがゲシュタルトではない、これは一例にすぎない、というの念頭においておいてくださいね。

ある日私がもったイメージに、
少女の私が立っている目の前に黄色い道がずっと先まで続いていっている
というのがあった。

それを紙にえがいてみると、その道は道ではなく、大きな大きな立ちはだかる壁・あるいはドアのように見えた。そこで、セラピストが私に「lets try to be the wall and speak as the wall」(壁になって、壁として喋ってみて) と言う。

私は話始める「私は黄色い分厚い壁です。彼女(少女の私)の行く手を阻んでいる。絶対 通さないぞ。通すもんか。私の後ろしある世界に、お前は入ってきて欲しくない。侵入しないで欲しい。怒ってるぞ ・・・」

だんだん壁になりきって、壁としての感情を感じるし、壁としての意見がいっぱいでてくる。

壁になりきってみてどうやらその壁と少女はいい関係ではなさそうだ、という事がわかった。
=私の中で 壁に象徴される何かと、少女に象徴される何かが深層心理の中で対立・あるいはミスコミュニケーションに陥っている。

今度は少女になりきって話してみる。
「私は、赤いドレスを着た5歳の女の子です。壁さんはすごく怒ってるようにみえる。どうしてだろう。ちょっと怖いな。威圧的。話かけても、応えてくれなそう。昨日はこんな壁、ここになかったのに。この先にあるりんごの木からりんごをいくつかもぎとって帰りたいのだけど、今日はやめにしようかな。・・・」

どうやら、少女は壁が守ろうとしているものには興味がなくて、いつも自分が行っていた場所に行きたい、あのりんごでのどを潤したい、と思っているだけのようだ。でも、それが壁に伝わらないみたいだし、壁が守りたいものは何か知らないみたいだし、知ろうともしない。 第一お互いがお互いを恐れていて、会話出来てないんだな、ということが、壁と少女になりきってみて初めて分かった。

加えて、絵を描く前の私の表層意識は、壁を道、と認識していたのだから、トライアングルでお互いがお互いのことを誤解していたわけだ。道と壁では、意味が大きく異なる。


そして、ふとこのアプローチをGIMのイメージ体験に取り入れることもできるなと思いつく。
(続)
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by totoatsuko | 2009-03-12 10:52 | Comments(0)

巣立っていったあと

子供達が、実家の母につれられて、私の実家に行ってしまった。
行ってしまった、って書いたけれど、別に不本意ではなく、合意の上で。
子供達はルンルン♪
飛行機乗るんだよー!
おまけに、飛行機型のクッキーを出かける前に焼いてあげたものだから、気分も盛り上がる。
クッキーをぶーーーん、と飛ばして、これはブルーのANA!とご満悦。

空港行きのバスに乗るのを見送ったら、急にとても寂しい気持ちに。
数日後、すぐ会えるのに。
去年の夏、子供達を実家に預けてアメリカに行ったりしたこともあったのに。
でも、自分が子供から取り残されて家に一人、という状態は初めてなのだ。

ああ、子供達が成長して家を出て行ったら、この寂しさの何倍もの気持ちを味わう可能性、初めて自分の心で感じてみて、実感。家は静かだし、食事の準備もお迎えもいらない。一日の流れに節目がなくなり、心にぽっかり空間ができた感じで、気も抜けた感じ。独身の時、子供生む前、こんなかんじだったっけ? 私は、子供だけが生きがい、というタイプではないと思っていたけれど、改めて、自分の中で、家族ってすごくすごく大事なんだな、と、今日の感情体験を通して思ったのでした。

ということで、来週 広島にいます。
14日(土)は、東京で日本トラウマ学会 でポスター発表の担当しています。
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by totoatsuko | 2009-03-05 22:54 | Comments(0)

だめーーー!!!

随分前アメリカ人の友人宅に泊まった際、traditional Japanese Breakfastを明日つくってよ、と提案され、夕方スーパーに一緒に買い物に行った。料理をしない家だったので、基本の調味料から揃えてたのを覚えてる。自分たち料理しないのに、こんな醤油瓶買ってどうするんだろう・残り、と思いながら。

翌朝、一人台所にたって料理する。
6歳の女の子が寄ってきて、何か手伝いたい、と言うので、じゃぁ御飯をよそおって、と言おうとしたら、お母さんが台所に近づいちゃだめ、と女の子に言い、私にウチでは危ないからまだ火や包丁に近寄らさないようにしてるの、と言う。へぇ、そうなんだ、じゃぁ、この子も料理しない家庭をつくっちゃうのかな、と思いながら作業が忙しかったので聞き流したのを思い出す。

このエピソードを思い出したきっかけは、今日鍋から料理をよそおっていたら、横で、かちっ と音がしたのでそちらの方をみると、2歳の息子がガスをひねって火をつけていたではないか!びっくりして、だめ!!!!! とおっきいこえで叱りそうになって、ダ 、と言ったところで 一息のみこんで、彼の目線にしゃがみこんで、「ここはさわっちゃだめだよ、危ないの、火をつけたらね。もうやらないでね。」「(申し訳無さそうに)うん。」

という会話をやったばかり。

私は、ときどき手をそえたり、ちょっとしたヘルプをしながら、子供に包丁を使わせたり、煮えている鍋にモノを入れて貰ったり、南部鉄器の鯛焼型をつかって、鯛焼き作りを手伝ってもらったり、と子供に火や刃物を触れさせる。クッキーの型ヌキとか、まぜまぜするのと比べて危険といえば危険なのだけど、子供は手伝いたがるし、やってもらうとすんごく楽しそうなので、一緒にやるのを楽しむ。ほんと、危なっかしいし、こっちも相当ハラハラするし、怪我しないようできるだけ見守ろうとするから神経張ってる。にもかかわらず、実際熱いのをさわっちゃって泣いてしまうこともあるのだけど。とりあえず、まだ指を切り落としたり、大やけどで入院とか、火事とかは起こってない。

話は元に戻って、、、だから2歳の息子は、多分、何の悪気もなくいつも私がやっているのを真似したくて好奇心でガスのボタンをひねったんだと思う。でも、私はビックリしてしまって、私がいない時勝手に火をつけたら危ないじゃん!!!!と自分の恐怖心から彼を罵倒しそうになってしまった。

よかった、一呼吸 飲み込む心の余裕があって。
だって、私がどなったら、きっと彼は わーーーん、って泣いて、悲しみでいっぱいいっぱい、泣くので混乱して、何が悪いのかとかちゃんと内省できなかったと思うから。まだ言葉が沢山喋れないから、例えば「ちょっとやってみたかったんだ」とか、何故やりたかったか、というのを彼は私に言葉で伝えられないのだけど。とりあえず私は彼にやっちゃいけない理由を伝えることが出来てよかったな、と思ったのでした。

そして、今度は私が頭ごなしに怒られたことを思い出した。
アメリカで初めて車の運転をするとき、日本でもほとんどペーパードライバーだったので、助手席に座ってもらってならし運転をしていた。車線が日本とアメリカは反対だし、車のハンドルも左だし、慣れないことだらけ。おぼつかない運転をしていたら、助手席から怒りのコメントが飛ぶ。ちゃんと見ないと危ない! さっきも言ったじゃん。ごめんね、分かってる、分かってるよ、危険な運転やっちゃってるの。でも、しょうがないじゃん、初心者なんだから。本当は助手席に座っている人に見守られながら、足りないところを教えてもらいながら、運転に慣れていきたかったのに、恐怖心からくる非難台詞を浴びることで相手に対しての怒りで心がいっぱいになって、運転どころではなくなってしまった。下手な運転で怖くて心臓がとまりそうな思いをさせてしまってるのは申し訳ないと思うけど、そしてその恐怖心から怒鳴ってしまうのは分かるけど、そんなに怒られてばっかりだとk、ムカついて運転に集中できないし、学ぼうという気にもなれないよ。

そんな会話をしたのを思い出した。

今日の私と息子は、立場が逆なだけ。
私は、自分の恐怖心で、ガスをひねった息子をどなりそうになったけど、
どなったら彼は何も学ばなかっただろうし、私からのメッセージは伝わらなかっただろうし、私も彼の好奇心に気づくことができなかっただろうし、わたし達の関係も、少しこじれてしまっていたと思う。
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by totoatsuko | 2009-03-05 22:43 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


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