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shadowを見据えて

d0065558_13142552.jpgオランダ在住の日本人の方の話。
オランダは、歴史的にロシア、ドイツなどに囲まれていたので、政治的にうまく立ち回らないと独立国として生き残れなかったという背景があるので、とても合理主義なのだそうだ。

オランダでは麻薬が合法化されている、というのはよく知られている話。
そして売春も、合法化されている。
よって、麻薬は医師の処方箋があれば簡単に誰でも手に入れることが出来るが、
一方で、どこに住む誰がどういう麻薬を使っているか、誰が中毒者なのか政府が把握できる、という仕組みだ。

売春も同じ。売春婦を不当に扱うことを避けることができるし、どの売春婦がどういう病気をもっているか、というのも政府が知ることが出来る。

麻薬とか売春とか、日本では話題にするのもはばかる空気だし、そういう世界で実際どういうことが起こっているか把握している人は少ない。いわゆる、shadow- 社会の影の部分。
日本では、何か大きな事件が起きない限り、そこにスポットライトが当たり、論議を提起することはない。

オランダは、事件云々以前に、そこにあえて光をあてて、暗闇を太陽のもとにさらし、現実に対応しようとする。見てみぬふりはしない。あっても見なかったことにもしない。

そこで、質問。
オランダは川がとても多い国で、子供が川に落ちて死んでしまう事件が多発しました。
国は、どういう対策をとったでしょう?

私のGuessは、ネットを張って落ちないようにした?
でしたが、ブブー

正解は、全ての子供に服を着たまま遊泳出来るようになる教育プログラムを作った
でした。

さすが、合理主義・オランダ。
川、という時として危険な存在を、危険でないものに変えようとする、すくなくとも危険には見えないような細工をする、という無駄な抵抗はやめて、川のありのままの姿を受け入れる。
川(shadow)はそこにある。それと共存するには、どうするか考える、共存するための手段を習得する。

人間、なかなかshoadow aspectをきちんと見据えて、
そのために「自分が」何ができるか、「自分が」どう変わりたいか、取り組めない。
痛みを伴うから。
shadowを見るのはいつだって・誰だって 楽しいものではない場合が多いから。

でも、気休めに川にネットをはって、転落事故を防いだ気になるよりは
転落はしょうがない、川がいっぱいあるんだから -
なら、自分達が、落ちたときに自分を自分で助けることが出来る様になろう、
そういう対応が、他の場面でもできるといいな、と思った。

それは、サイコセラピーのプロセスでも行なうこと。
自分のshadow (ほとんどの人は、その存在や実態を知らない。心のどこかで知っているにしても極力関わらないようにしている)ーどろどろしていて、下手に関わると自分自身が飲まれてしまうようなもの を専門家のサポートを受けながら 知っていく・互いを肯定しながら共存していく術をみつけていくプロセス。
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by totoatsuko | 2008-12-27 23:08 | Comments(0)

生演奏を聞きながら寝る

d0065558_1315821.jpg久しぶりにオーケストラを聴きに行った。
チケットをいただいたのです。
プログラムは、師走の日本でもっともポピュラーなシーズン曲の一つ、ベートーベンの「第九」。
けれど私にとっては初めて通しで、かつ生演奏。
特に好きな曲でもないけれど、やっぱり生を聞きにこれる、というのは考えただけでも嬉しい。

会場のドアが開くと、天井の高いホールの空間が広がり、舞台にはオーケストラの楽器達が所狭しとならぶ。昔はとても身近で見慣れた光景だけど、今は中々コンサートに来る機会が作れないので、新鮮な気持ちで、それらがとても美しいと思った。

ちょっと、音大時代のことが走馬灯のように脳裏をかすめる。
音に、音色に、テクニックに凄くこだわっていた時期。

調弦の音が鳴り始める。
音の厚みがどんどん増していく。
音色がホール全体に響き渡っていく。
そして、静かに第九が始まる。

レースを編みこんでいくような細やかな音の重なり模様。
瞼が重くなってくる。
目を閉じると、音がダイレクトに体にしみこんでくる。
ゆらゆらと体が前後して、音が遠くなってくる。

ふと目をあけて、自分が数分?十数分? 眠っていたことに気づく。
なんだかとても満たされた気持ち。かつまだ目の前で音楽がつづいていて、いま一度音楽に身をゆだねることが出来る。

以前は、人が寝ていたらもったいないなぁ、と思っていたけれど、実際自分がやってみると、もの凄く気持ちいい体験だった。

白寿ホールでリクライニング・コンサート というのを以前みつけて、わざわざ眠りのためのコンサート企画するんだ、と思ったことがあったのだけど、
実際生演奏で寝てみて、納得。

オケも合唱団もよくて、素直に演奏を楽しむことができました。
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by totoatsuko | 2008-12-24 12:52 | Comments(0)

声を荒げる裁判官

自分の中学生の娘を売春させて、その報酬は自分のために使っていた母親の公判で、裁判官が 「少女がどんな気持ちでいたと思うのか。その言葉を聞いて、少女が新しい一歩を踏み出せると思うのか」 と声を荒げた、という報道。

裁判員制度が来年から始まり、一般人への召集レターが届き始めていますが、
裁判官って、判決を読み上げるだけではなく、被告に対して声を荒げたり、教育的?な指導の役割もとるのでしょうか。この世界に詳しくない私には、この報道・ちょっと驚きでした。

裁判官が公の場でこの母親を叱咤したからって、母親が、自責の念を一時的に強めることは仮にあるとしても、生まれ変わるるきっかけになるとは、思えない。そもそも、大の大人が人前で叱咤されるなんて、結構屈辱的な体験で、母親の人格を尊重しているとは思えない。

司法の世界では、犯罪を引き起こす「半必然的な心理状態」についての知識や理解がまだまだ進んでいないのだと感じました。

叱ったからって、その人が変わるわけない。

この母親自身、少女時代に自分の母親から売春をさせられていた経験をもつ。
この人が生まれ変わるのに必要なのは、
裁判官からの叱咤でも、懲役5年10万円の罰金では決してなく、
専門家による、心が自分自身が生まれ変わる・過去の慣習や思い込みからの脱皮に必要なプロセスだと思うのですが。

そして、売春をさせられた少女の心のケアについて本格的には何も準備されていない(さすが日本!)、というのも気になります。自分に売春をさせた母親が有罪になったからといって、彼女の心は決して癒えないのに。
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by totoatsuko | 2008-12-05 10:10 | Comments(2)

記憶で食べる - 記憶が意思決定のベースになる

先日、リマクッキングスクール(マクロビオティックの料理教室)の師範科を卒業。
だからといって、何が変わった、というのは特にない。
すーごく努力して得た卒業や何がしらの達成をした時は、爽快感とか、ヤマをひとつ上って降りたな、という感覚があるのだけど、料理とか食事・食物に関してのクラスとの付き合いは、日常と平行して積み重ねられてきたものなので、この「師範科コース終了」を持ってしても、その学びはこれまでと同じように日常に絡み合いながら消化・発展していくものだと感じている。

師範をとるくらいだから、限りなくマクロビオティックな生活を送っているのかというと、そうでもない。動物性(特にお肉)、白砂糖、脂肪分が多い乳製品、人口添加物が入っている食品を食べると(そう、時々食べてるんです)、毎回体調を崩したり気分が不安定になる。そういう体質に自分の体が明らかに変化している。だけど、食事・食物の摂取って、生命をつなぐため・体調万全状態維持のだけの行為ではない。食事は気持にも大いに作用する。

たとえば、かつてマクロビオティックでなかったお肉のうまみを楽しんでいた「記憶」が、
「ジューシーなお肉が食べたい!」と突如として強く主張する。
(こないだのフィレステーキ、美味しかった・・・その後ホント辛かったけど・汗)

今、自分の体が欲しているもの・必要としているもの
ー 例えば外に長時間いて体がものすごく冷えているなら、
体を締めて暖め、血行をよくして、造血作用のある食材を、その食材の力を生かす調理法でつくられたお料理

を摂取したい、という体の欲求をいとも簡単に掻き消す。
そして、記憶の欲求に従って食べるものを選ぶ。
すーごく美味しい!とお肉のお料理を楽しむ。
目も舌も記憶も気持も満たされる。
しかしその後、私の場合体調を崩しがち。
でも、やめられない・やめようとも思わない、時として「記憶」の欲求に従うことを。

体調が悪くなるのは、日常生活・仕事に影響するし、自分も本当に辛いし、回りにも迷惑かけるから、出来るだけ避けたいんだけど。


何も、食事だけではない。
音楽もそうだし、香りも洋服も、その他様々な些細な意思決定の根拠は、
その場にふさわしいから、求められているから、という以外の自分の無意識の欲求、という要素がすごく影響している。

例えば虐待を子どもの頃受けた人は、虐待の経験は精神的にも肉体的にも辛いものだったはずなのだけど、自分のパートナーや子どもとの関係で、虐待を再現してしまう傾向がある。

辛いのだけど、それが自分の「おふくろの味」=「心が帰る場所」。

虐待関係に限らず、親との関係・親から受け継いだ価値観・などは、例え自分が親と全く違う文化やジェネレーション・環境・関係に生きていても、
ーそれはもう完全に無意識のレベルでなのだけど、
凄く影響されながら、自分の意思決定・日常の言動をdefineしている。
その恐ろしい事実(自分は、自分の意思で自分の人生を生きている・形成している、と思っているのに、実は子どもの頃の経験が凄い影響してる・しかも無意識に、って凄く怖くないですか) に気付く方法・瞬間は、人それぞれだけど、私の場合は、深層心理のプロセス・音楽心理療法だった。

いかに過去の経験が今の自分の世界の見方に影響しているか、ということに気付いたからってそれがすぐ変わるわけではない。が、ゆっくりと、無意識に影響されている体質・自分のありようは、変わる。

あー、私の記憶がお肉を呼んでいる、と思いながらお肉を食べるということは、
「記憶」の欲求を、頭ごなしに理屈で「アンタの価値観・欲求は間違ってる。お肉食べたら気持ち悪くなるの、体に迷惑かけてるの、まだ分からないの?!」と否定するのではなく、ちゃんとその素直で悪気のない欲求に耳を傾けながら、体の欲求と記憶が断絶してるんだな、と自覚しながら食べる、ということ。

だからその後の体調の変化の理由も納得出来るし、
その経験を繰り返しながら、記憶と体が、今後どんな関係を作っていきたいのか対話させることが出来る。例えば、時々、お肉が食べたい、と思うけれど、昔のようにしょっちゅうではなくなった、という変化は、記憶と体が対話を続けてきたから起こった変化。自然と記憶の欲求と体の欲求が似通って・歩み寄ってきたということ。

心と体と魂に積み重ねられた経験というのは、本当に根強い。
それが、無意識の層・奥深く存在するほど、力強い。

時々、「じゃぁ、親として自分はどういう風に子どもを育てたらいいんでしょう」と尋ねられる。
私の大抵の答えは、特別なことはする必要がないと思う。
だって、どんなによかれと思ってやってあげたことも、どんなに失敗したー、と思う接し方をしても、それを受け取る側の子どもは、自分とは違う生命体。どういう風に受け止め、消化し、どういう形で無意識の層に蓄積し、それらを自分の価値形成・意思決定に影響させていくか、というのは、親がコントロール出来る物ではない。

記憶がもつ、「今」=HERE AND NOWへの影響って、ものすごい。
それに翻弄されずに、でも大事大事にしながらつきあっていきたいと思う。
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by totoatsuko | 2008-12-05 09:11 | Comments(2)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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