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from solitting to integration

d0065558_16115647.jpgNYに4年いて、日本で結婚式をすることになった時の私は、内面が完全にsplitしていた。

NYの4年間は、私は新しいidentityや価値観を産み・育てた。
それは、日本・実家の広島で育くまれた19年間の自分や、東京での大学時代4年間で生まれ育った自分と、全く別の人種だった。日本で形成された私と、NYで形成された私は、完全にsplitしていたのだ。

yet I was I. One person who has only one body, heart and soul.
(でも、私は私。一つだけの体と心と魂をもちあわせた、一人の人間には変わりなかった)

最初は、お互いの存在に気づいてなかった。
しかし、これから結婚しNYを離れることが決まったあと、自分自身のために受け続けてきた音楽心理療法・GIMセッションでのプロセスで、完全にSplitした私の内面の住人達に気づく。
日本の私とNYの私は強く反発しあっていて、お互いの事が理解できなくて、それぞれ別の生き方をするのを望んでいる・どちらかの生き方に統合されるのは、死ぬほど嫌がっていた。


NYで生まれたidentity達・例えば
若い自立した独身女性、プロフェッショナルにリスペクトされている音楽心理療法士、NYに住むAsian/Japanese. Student.

まだまだNYで仕事を持ち、他にもやりたいこと・学びたい事が沢山ある自分。
その地が故郷で、ここにしかいない、日本の自分は知らない友達たちや社会との繋がり。
それを捨てるなんて、NYの私には理解できないことだった。

同時に、日本で生まれ育ち、NYに住んでいた4年間も日本との繋がり(文化・人間)続けていた自分は、その自分なりの人生選択として結婚することやNYを離れることを望み、そうする事を決めてしまった。NYの自分がどんなに悲しんでいるか知らないままに、NYの自分と対話しないままに。

繰り返すが、当時は、Splitしている自分に気付いていなかったから、対話をする、という概念すら浮かばなかったけれど。

Splitしている自分を内包するのはとてもとても痛かった。
文字通り、引き裂かれていた。

identity Splitは結婚してBostonに移っても、まだそのままだった。
痛くて痛くて、痛みに耐えられなくて、故郷が恋しくてNYの私は泣き続けていた。結婚やBostonに移り住むことによって生まれた自分の存在に注意を払う余裕なんかなかった。明らかだったのは、NYの自分が痛みを感じていることによって、結婚後新たに生まれたidentity・例えば「妻」「なじみの無い土地に住み始めた人」は、自分自身の生を楽しむことが出来ていなかったことだ。

でも、NYを離れることを決めてから、ずっと自分のセラピーの中で、セラピストのサポートを受けながらそのsplitと向かい合い(とても自分ひとりでケア出来るような痛みや分裂具合じゃなかった)、自分が何重にもsplitしている状態が生み出す矛盾と痛みを、全て自分のものとして受け止め、繰り返し感じ取り、色や音に映し出し続けた。

そうやってsplitしている自分とその痛みから逃げず、そして、押さえこまないことにより、分裂したidentity達がある日対話を始めた。時にけんか腰に、時にお互いsympathyを示しながら。

しかし、Bostonに移って間もなく「妊婦」「近い将来母親」になるというidentityが出現し、まだまだ結婚やBostonという新しい生活に全くcommit出来る状態ではなかったNYの自分は、崩れ落ちそうになる。リアルタイムで、NYの自分の気持ちなんかお構いなしに自分に降りかかる人生のイベントは、結婚やボストンとの繋がりを強めるばかりで、そこで生まれた自分をどんどん育てていく要素ばかり。NYの自分は苦しくて苦しくて、もがき続けた。

どの位時間がたったのだろう。
どの位泣いたのだろう。
どの位怒りが爆発したのだろう。

NYの自分が、結婚やBonstonに移り住むことなど、人生に起こった変化によって、自分が抹殺されたわけではないと、頭だけでなく体感出来る様になるには随分時間がかかった。

そう、頭ではずっとずっと前から分かってた。
NYで生まれ美しく育った私は、この私から決して消えることはないのだと。
でも、深層心理のレベルで、本当にそう感じることが出来るのには、ものすごい時間がかかった。痛かった。辛かった。

生きていると、自然と色んなidentityが付随してくる。
生まれたての赤ちゃんは、親の子供、あるいは大地の子、というidentityしかもっていないが、すぐさま、誰かの孫、医者の患者、と増えていく。

誰かの子供(娘・息子)であり、孫であり、親であり、祖父母であり、兄弟であり、一人の女性・男性であり、恋人・夫婦であり、会社員であり、上司・部下であり、先生であり、生徒であり、地域の住人の一人であり、自分自身であり・・・

それぞれのidentityは、ことなる欲求や生き方を持っていておかしくない。
そして、それらが矛盾しあう要素はゴロゴロ転がってる。

自分がどんなidentityをもっているかconsciousに把握したり、感じたりして生きている人は多くない。ましてや、それら一人一人の生き様が互いをけん制しあう物だったり、裏切りあっている状態であることに気づいているひとも多くない。

splitしている自分に気付くのは、もの凄い痛い体験であることは、自分の体験を通して私は知っている。でも、私は、私の中の誰かを抹殺したり、口にテープを貼って無理やり黙らせず、彼らの嘆きを聞き続け、活路をみいだそうとしたプロセスを自分に対して行なえた事をとても感謝している。誰かを殺していたら、あるいは抹殺したつもりで生きてきたら、きっと心にーひいては体に無理がきていた。

母親であり、妻であり、セラピストであり、親の娘であり、一人の女性であるidentity達がお互いを認め合い、評価しあい、傷つけないバランスをキープできていると、とても心の充実を感じる。でも、いつもいつもいいバランスは保っていられない。誰か一人が誰かを押しのけて自分の主張を押し付けたり押し通そうとしたり、実際実行してしまうことがある。しょうがない。どのidentityも人間だから、いつもいつも回りに対していい人ではいられない。

でも、私は知っているから、一人が自分のやりたいことをやっても、holisticには満たされないことを。

splitting to integration.
大事なテーマ。
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by totoatsuko | 2008-10-31 16:08 | Comments(0)

Splitting to integration process I

d0065558_9235259.jpg心が求めていることと、体が求めていることは、一致しないことが多い。

個人的に最近体験したことは、
マクロビオティックの食生活を主にするようになってから体質が変わって、お肉や砂糖の入ったものを食べたい、と思わなくなったし、食べても、昔はあんなにおいしーー!!と思っていたのに、そう思えない、
という心境の変化が起こっている。

それでも、ステキなレストランで食事をしたりする機会があったときに、とっても魅力的なお肉やお魚、デザートのメニューをみつける。

隣の人が食べているそれらのお料理の盛り付けが美しく、凄く美味しそうにみえて、
折角いいレストランで滅多に出来ない外食をしているのだから、とお肉やデザートを注文する。
とくに、コースに含まれているデザートを、わざわざ「いりません」というのは、カナリの気持を要する。

でも、折角注文したお肉やデザート、食べても、昔と同じように美味しい!と感じない自分に気付く。おかしいなぁ、そんなはずないのに、と自分の感覚を疑う。多くの人が絶賛するお店のお料理が美味しくないわけないじゃない、と自分の感覚を疑う。

たとえ、どんなに多くの人がいい、と言うものでも、
自分にとって正しい、訳がないのに・
自分の感覚を疑ってしまう自分自身の悲しさ・弱さ・自信のなさ。

そして、その日の夜よく眠れなかったり、翌日体が無茶苦茶だるかったりして、またやってしまった、と後悔する。私の体は、お肉やデザートを欲してなかった。でも、目とか、過去の感覚がメニュー選びの時に、そんな自分をcut offしてしまい、本当の体の欲求を満たす選択が出来ない状態。その時欲しいのは、過去お肉やデザートを楽しんでいた自分の感覚。でも、今の自分がそれを楽しめない状態になっていることを無視してしまっている。

こんな体験を何度も重ねて、
やっと自分の心に無理せず、
「ここで、お肉頼まないのって、勿体なくない?
同じコース料金払ってデザート食べないって、損じゃない?」
と思うことなく、自然体でデザートやこってり系の肉料理をはずす選択が出来る様になった。

だって、自分の体の辛さを心底感じることが出来る様になったから。
どんなに理屈を捏ね回しても、どんなに昔の自分の欲求が頭をもたげても、
それは、今の自分が求めているものとは一致していないというのが
頭や理屈レベルではなく、体や気持ちのレベルで何度も感じて、やっとそのレベルで納得できたから。

トラウマを経験した人や、自分の内面がsplitしている人の多くは、
今 自分が感じている感情は何なのか、というのを知らないように自分でトレーニングすることによって、ひどいトラウマの傷を抱えて生き続けなければならない人生をサバイブしている。

だから、自分の感覚を疑うし (悲しいなぁ、、、、でも理性的に考えたら、悲しいと思うの間違ってるんじゃない?と自分の感覚を否定する)、だからこそ、自分をもっと過酷な傷つく状況に持っていく選択をしてしまう。(上記の例の場合、お肉やデザートを注文する)。

気持ちと、体、が望むことがSplit - 一致していない。
気持ちの理論と体の理論が一致せず、でもその不一致の原因をみつめる機会をもたず、不一致がないもの、とみなすために、何らかのゆがみを抱えながら生きる。

でも、その不一致がintegrate - 統合・あるいは 脈略の繋がりを見つけることが出来たらどんなに楽になるだろう。どんなに自然に自分を傷つけずに生きることが出来るだろう。

何か精神的に病んでいなくても、トラウマティックな体験をしていなくても、
自分の中の矛盾は誰でも抱えている。
自分の中の一人にとってはハッピーな選択でも、
それは他の自分にとっては辛い選択だったり。
多くの人の場合、その矛盾に気づいていないか、なんらかの理屈をつけて、どっちかの辛い・あるいはその選択に賛同しない自分を説得したり、抹殺したりして、生きていく。
結果、傷ついたまま、その傷の手当てをすることなく、毎日を送ることになる。
人生の選択をしていくことになる。
そして、ある日手に負えなくなった傷の深さに呆然とする。

サイコセラピー(私とのセッションの場合、言葉、というツール以外に音や色を使って)は、
そんな自分の中の矛盾を知ったり解明したりしながら、
それらの全てが納得できるような生き方・選択が出来るようなintegrationのプロセスを可能にする。
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by totoatsuko | 2008-10-30 17:58 | Comments(0)

ご縁玉

d0065558_227327.jpgご縁玉、というドキュメンタリー映画の試写会に行ってきた。
大分で11月に東京・渋谷で12月に公開される。
8年前に治療した乳がんが、昨年リンパに転移して残りの命がそんなに長くないということに直面させられた、元養護学級の先生・山田 泉 48歳が、子供達と一緒の最後の旅先として選んだパリで、34歳のチェリストエリック・マリア・クチュリエと出会う。

彼は、ベトナム戦争の孤児でフランス人夫婦に育てられた。
見た目は、だからAsian. 日本人、と言っても誰も疑わないような風貌。
でも、バリバリ フランス人。

偶然の出会いに何かを感じたエリックは、山ちゃんに会いに、忙しい公演スケジュールを調整して、大分にやってくる - 最初の出会いから3ヶ月後に。

彼は、自分は一体誰なのか、ずっとずっと探していて、もしかしたら、山ちゃんとの縁が、あるいは日本への旅によって、答えを見つけることが出来るかもしれない、と感じていた。

彼は、日本の養老院で、孤児が暮らす施設で、チェロを奏で、きく人の心を揺さぶる。
そして、その反応から彼自身の心も揺さぶられる。

山ちゃんの生まれ育った家に行き、日本の田舎の小さな町でやまちゃんの知人達と話して、山ちゃんの生きてきた歴史に触れる。

ベトナム戦争中にベトナムに滞在していたことがあるお寺の住職が、
「わたし達は、みんな 大地の子 なんだ」という。生みの親を知らない・いない人でも、親がいる人も、みんな大地の子供であることには変わりない」と。

彼にとってとてもsignificantな、意味深い言葉だったが、
彼にとって捜し求めている答えを与えてくれなかった。

一つだけ明らかになったのは、
彼はすばらしいものをこの旅でうけとったということ。
そして、この「ご縁」つなげていきたい、と強く感じたこと。

生きることとか、死ぬこととか、自分は誰なんだ、ということに興味がない人、
あるいは、感情を感じないようにしている人にとっては、とてもつまらないドキュメンタリーかもしれない。だって、話に何の山場もないし、すーごい綺麗な映像でもないし、なんかドラマティックな人間関係の展開があるわけでもない。生きることとは、死ぬこととは何ぞや、と能書きたれるセリフは誰も言わないし。

でも、言葉にされない色んな感情が、人々の何気ないしぐさや会話からにじみ出ている。
自分が感じている、生きること・死ぬこと・自分が誰だか本当のところよくわかなくても生き続けなければならない喜びと悲しみと苦悩。

いっぱい涙がでたし、いっぱいあったかい気持ちになった。
そして、今私が生きている瞬間が、今私が持っている人との関係が、それがどんな物であれ、ほんとうにspecialであると感じ、そのspecialさをspecialなものとしてちゃんと感じ・appreciateしながら生きて行きたい、と思った。
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by totoatsuko | 2008-10-24 22:05 | Comments(0)

KY - 空気読む

電車にのっていて目にした本の題(正確に覚えていないのだけど)
「できる人は空気をよまない」

空気を読む・読まない、って今まで散々耳にしてきた言葉だけど、
空気って、頭使って読むものではなくて、肌で感じる物でhないでしょうか。

風を感じないか感じるか、と頭でコントロールすることは出来ないのと同じで。

場の空気やたたずむエネルギーの流れは、読みたい・読みたくない、読める・読まない、
という頭や意思でコントロールする対象ではなくて、
その場にいて、普通に皮膚呼吸していたら、自然に感じてしまうものなのではないでしょうか。

いかに、わたし達の生き方・人とのかかわり方が、心や感覚に素直になるより、頭や理屈偏重になっているか、というのを、KYという言葉の流行りっぷりが象徴しているのかもしれません。
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by totoatsuko | 2008-10-16 15:24 | Comments(0)

自己制限

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マクロビオティックを勉強中・実践している人と話していて、マクロビ的食事と生活をすることを「食事制限」と捕らえている人、感じている人が少なくないことに気づく。マクロビの事を何も知らないで傍から見て「食事制限」してるように見えるのはしょうがないと思うけど、実践してる本人がそう感じるのは、もったいないなぁ、と思う。食べること、ってとっても楽しい事なのに。

マクロビやってます、と言いながら、マクロビがどういうものなのか「自分の言葉」で話せない。
先生が言った言葉の引用の繋ぎ合わせ。そのくせマクロじゃない考え方に排他的。
そんなつぎはぎの生き方は、自分らしい生き方からかけ離れてるように、私には見える。

どんなに素晴らしい教え(宗教・上司・先生・親の言葉)も理論も数値も、自分にしっくりこないのに、自分を曲げてまで「その理論の方が正し」くて「その理論を窮屈に感じる自分の感覚が間違っている」と言い聞かせるたり、それらを鵜呑みにするのは、自然ではないと思う。

教えは教え。理論は理論。万能薬はない。完璧なものはどこにもない。
そして、それらは自体生きていない。
わたし達の人生や生き方・価値観を否定しようとか、変えようという意図は持っていない。
(その考えを伝達する「人」は、そういう意図を持つかもしれないが。
伝達人や生きていない理論自体に対して、教え通りににしないからといって、わたし達が罪悪感を感じる必要もない)

デカルトの有名な「我思うゆえに我あり」 を思い出す。

教えや理論が先走りして、「自分」がなくなるなんて、変な話。

自分の感覚・それは、いわゆる「一般的にいいもの、いいこと」という価値観にもとづいて構築された理屈で誤魔化したり歪曲する対象ではないと思うから。

教えは教え。理論は理論。
自分の引き出し・知識の一つに過ぎない。
それらは、自分なりに消化して自分なりに発展させるもの。
原理に自分の人生惑わされたり、制限されられているような気持ちにさせられたら、
折角の人生、勿体ないと思う。
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by totoatsuko | 2008-10-14 14:52 | Comments(0)

まんが日本昔ばなし

d0065558_8172342.jpgふと、子供のころ週末の夜欠かさずみていた「まんが日本昔話」のDVDは売っていないだろうか、と思いgoogle. グリム童話やディズニーなど外国モノもいいけれど、日本人の心ってやっぱり日本の昔話にしか詰まってないはず。

分かったのは、ビデオカセットは売っているけどDVDは出ていない。

けれど!Youtubeでメジャーな話は見れる、ということ。
一話大体10分。こんなに短かったっけ。

あのほのぼのとしたテンポは変らない。

子供と一緒に楽しみました。
オススメです。
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by totoatsuko | 2008-10-09 22:09 | Comments(1)

秋キブン

昨日は久しぶりに天気がよくて、嬉しくなって窓を開け、めいっぱい秋の風と太陽を楽しんだ。
気付いたら、長袖を着ているし、食卓も根菜や雑穀の登場率が増えてるし、陽が落ちるのも早くなってるし。

先日、「大地の恵を受けているような食卓ですね」と言われて嬉しかった。

どんなに忙しくても、どんなに食にまつわる環境が変化しようとも、自分自身は土(つち)に足がついた、自然のエネルギーとの交流を感じながら生活したい。

どんなに便利なものが登場しても、どんなに世の中が「早く」出来ること・治癒すること・出世すること・成長すること、手軽なことに価値をおくようになっても、早めることが出来ない季節の移り変わり・自然の変化や現象の畏れ多さを、そして人間もそのシステムの一部なのだ、ということを感じながら、この世に授かった一度きりの「命」と「Life」をかみしめていきたい。


悲しいことに、土や風の匂いの存在を知らずに生きている人は沢山いる。
自分が自分の「生」を生きている、という実感がなく生きている人も、
もう「生きたくない」という人も。

この世は全ての人にとって楽しく感じられる場所ではないかもしれない。
でも、楽しいだけがいい事じゃない。生きる目的じゃない。
色んな生き方があって、自分なりの環境との関わりかたができたら、ちゃんと周りと向かい合い、コミュニケーションがとれ、関係が気付けたら、それはsomethingになる。

私の心理療法・音楽療法士・セラピストとしての役割の一つは、
その人が、自分の人生はsomething mattersなのだと、自分の心は死んでいないのだと気づき、暗闇や混沌から立ち上がるエネルギーの源を探すお手伝いをすることだと思っている。

have a nice weekend!
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by totoatsuko | 2008-10-03 10:26 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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