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君臨

d0065558_23121861.jpgある分野、あるいは組織のトップにたつ人が、自分の意見が全てであるかのように振舞うのはものすごい罪だしstupidだと思う。どの世界にも(音楽療法・心理療法の世界にも)存在する人種だけれど。

NYからの帰りの飛行機の中で見た映画で大学生が、自分の意見にチャレンジする学生をクラスからdismissする教授に
「議論を封じるのは欺瞞だ」
と怒りをぶるけたのが印象に残った。

日本人の学生でそんな事教授に言える人、少ない。
教授の意見に合意できなくても、黙っているか、影でバカにしながら崇拝している振りをするか、自分の頭で消化せず鵜呑みして崇拝しているか、それに対して何の意見も持たないか。

議論がなければ、その分野の成長もない。自分の理解も深まらない。
pro-conだけでない幅広い視点からの議論がないと、その論理を確立した者も、それを聴いている側も、そこからの新しく斬新な展開を生むことは出来ない。

日本は、意見が違う人が向い合ってお互いの言い分を伝え合うプロセスを、「また文句言ってる」「手間がかかる相手だなぁ。なんで適当に合わせたり流したり出来ないんだろう」「こんな口ゲンカしたくない」、という受け止め方をする人が多いと感じる。相手と意見が違っても、その差異をクリアーにしようとはしない。

アメリカでは、お互い思ってることや自分の信じてることをワーワー言い合うのをdiscussionと呼んで、ネガティブな要素はない。だから、相手に同意できなくても悪気を感じる必要が無いんだけど、日本にいると、相手と違う意見の時は気を使う、という技を身につけてきた気がする。

異なる意見を相手に提示する時、相手に対して申し訳ない、とすら思っている自分に気付いたら、アメリカにいた時の感覚から大きく変化しているのを感じた。

私自身のスタンスは、自分とは違う色んな意見や考えを聞くときオープンマインドでありたいと思うし、そうあることが自分の感性や人間関係を豊かにしていくものだと思っている。

(写真はメトロポリタン美術館の分室、190th street にあるThe cloistersのエントランス。
NYの街中から離れていて、私の好きな心がピースフルになる場所のひとつ。)
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by totoatsuko | 2008-07-31 23:18 | Comments(0)

SDM(Shared Decision Making)

インフォームドコンセントの重要性が示されても、それがうまく機能していないのが日本の現状である。どう患者さんに話していけばいいか分からなくて、オロオロしている医師は少なくないのだ。ちゃんと向かい合う・話す、受け止めるってすごく大事なことなのに。自分の治療が自分主体・自分の意志にそぐわないなんてとても残念なことなのに。

医師は医療のエキスパートだけど、
患者さんの生き方・治療の好みの選択は、患者本人が一番知っている。
生きる日数が1日でも伸びそうな治療が必ずしも患者さんの求めるものではない。

今、アメリカ・カナダ・イギリスなどが、大きな予算をつけて
Shared Decision Making というのを研究・実践しようとしているらしい。
凄く納得できるインフォームドコンセントの進化形。
治療を受ける患者さんの「気持ち」を重要視する姿勢がないと、こういう研究に予算をつけよう、という発想は生まれないだろう。

ソーシャルワーカーや臨床心理士のレベルの格差や、心を専門に扱う分野の人が病気のケアをする病院でその存在と重要さを認められていない日本には程遠い話なのかもしれない。

治療評価のゴールドスタンダードとみなされている臨床試験は、今やEBMにおいては欠かせないものとなっている。しかし医師や患者の多くは、臨床試験について話をすることに困難を感じ、IC(インフォームドコンセント)そのものの質の低下(情報提供が不十分、患者は理解していない等)を招いている。
http://www.jpos-society.org/news/no38/38_17.html
より抜粋

以下のサイトも参考までに。
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2005dir/n2658dir/n2658_02.htm

がん患者さんへのコミュニケーションスキルトレーニングは、以下のような研修会が各地で行われています。
http://www.pmet.or.jp/cst/bosyu-youkou20.html
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by totoatsuko | 2008-07-17 10:05 | Comments(0)

また夏期講座

今週末から月末まで、古巣のニューヨーク大学で夏期講習をうけるため日本を離れます。
その間、ブログお休みします。

先日ワタリウム美術館 の ファブリス・イベール、種をそだてる展 (8月31日まで)に行ってきました。周辺地域に野菜が育てられる企画もあわせて行なわれており、ファブリス・イベールがつくった藁でつくったティディーベアーの案山子が野菜を見守っています。

人間/私、と作物と土や水の命のつながりを感じました。

そこに置いてあったFreeのArtで街をやさい畑にするProject Guide Book がステキだったので、一部ご紹介します。

たね
地面にたねをまく。しばらくすると小さな芽がでて、根付いて、葉がのび、野菜が実る。
自分の家で元気に育つ子どものように。
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大地
大地に雨がふり、川がながれ、湖ができる。水は土を運び、いくつもの地層となり、野菜が根をはる。根は、ぼくらの足の下、アスファルトのしたで大地とまじわっている。
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生きものたち
空を飛ぶ鳥たち、血をはう虫たち、目にみえない生きものたち。
たねを運び、土をつくり、植物を育てる。忘れないで!もっと、もっと、もっと
数えきれないくらいたくさんのいきものたちが動いている。ぼくらはひとりじゃない。
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あたらしい風が生まれる
都会の空を吹き抜ける風。通りにしのびこむ田舎の風。
都会ではビルや建物が新しい風を生み出す。
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苗付け
植木鉢にうえられたたね。苗がたくさん育ち、別々の土に移されていった。
子供のころ、家族が急に離ればなれになってしまったみたいに。
ショックをうけ、トラウマになってしまうかもしれない。
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こういう地域・コミュニティーを巻き込む企画って面白くてスゴクいいと思います。
音楽療法にも コミュニティー・ミュージックセラピー という分野があって、その地を共有する住人達を対象に、人間としてのつながりを深め、ひいては一人一人の生きることへの意欲や強さなんかにも関わっている音楽療法士がアメリカにはいます。
そういう、地域や集団、という大きな物を相手に活動しているミュージックセラピストも、ただレクリエーション的にみんなで音楽やって楽しい時間を企画して、というのではなく(傍から見たらそうとしかみえない場合もあるけれど)、ちゃんと哲学をもって、セッションの目的をはっきりと持ってやっている所がプロフェッショナルだな、と思うし、またそうあるべきだと思います。
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by totoatsuko | 2008-07-16 15:11 | Comments(0)

目にみえないささいなもの

暑い日が続きますが、久々にアツーイ湯船にどっぷり浸かって汗をだらだらかいていたら、
何故私は目に見えないし微量と言われる食品添加物や農薬をかように避けたがる様になったのか、
何故食物が持つ目に見えないエネルギーを信じるのか、
多くの人が全く気にしない、ばからしい、とも思うことなのに・・・
という疑問が浮かんだ。

そして思った。
当然の成り行きかもしれない、

気にならない人にとっては気がつかないような「些細な色合いの違い」でも、
自分の感性が感じ取るものには嘘をつかず(=自分が気になることには人がどう言おうと妥協しない)、細部までこだわって、自分の演奏を限りなく納得がいくものにするまで磨いていく作業は
音大生になるずっと前、幼少の頃から叩き込まれてやってきたこと。

その後、私は目に見えない心の些細な動き・出来事の重大さに気付き
音楽心理療法・GIMセッションに通い、自分のそれと向き合い、
人の目に見えない心や体や魂のことと音楽を扱う音楽心理療法という仕事をしながら
まだまだこの分野を学び続けていきたいと思っていのるだから。
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by totoatsuko | 2008-07-14 17:46 | Comments(0)

肉食とベジタリアン

(↓写真は、ボストンの大阪出身のご家族宅でご馳走になって感動してたこ焼き器付ホットプレートを購入して以来はまっている自家製たこ焼き。タコではなくお餅やお野菜コロッケの具などを入れて色々楽しんでいます。暑い夏のタコ焼きパーティー、盛り上がってます。)

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何年かぶりに再会する、今はお互い「母親」になっている人たちと会ったとき、子供の砂糖の入ったおやつの話になった。私は基本的になんちゃってマクロビオティックなをするようになったの、というと
「あー、最近よくきくよね、マクロビオティック。私もクラスとったことあるよ。
体によさそうだよね。

そうそう、よく持ち寄り子連れパーティーするんだけど、
その中の一人のお母さんがある日マクロを始めて、
お肉とかお砂糖の入ったお菓子とか、乳製品とか、ほらマクロでは摂らない食品が当たり前に持ち寄られる環境は耐えられない、って仲間から外れていった人がいるよ。」

という話を聞いて、日本だなあ、そのお母さんや他のグループのメンバー、
勿体ないことしてるなー、と思った。

第一、こんな感じで周りの人から孤立していくのって、マクロの哲学とは真反対。
マクロビオティックは「何を食べちゃいけない」というスタイルではないのに。
自分や他人をジャッジしたりレギュレートするのものはないのに。
マクロビオティックを中途半端に学んで、その限られた一部の情報を自分なりの解釈したものをマクロビオティックだと思っている人と接すると、中途半場に物事を学ぶこと・なんとなく分かった気になっている事の恐ろしさを改めて感じる。

(カウンセラーやセラピストの世界でも同じ事が言える。
多くの物事は、決して本を読むだけで、人とコミュニケーションなくしては、深く追求できないと感じる。)

生き方や価値観が違う者どうしが楽しい時間を共有できないのはとても残念なことだ。
マクロビオティックな生き方やそんな自分やおいしいマクロご飯を他の人に紹介できる場だし、マクロじゃない人も、自分とは違う生き方・価値観を持っている人の世界を垣間見ることが出来るチャンスなのに。

マクロビオティックやベジタリアンの人に対して、日本人は、
「勿体ないねー、美味しいもの沢山あるのに食べないなんて」って言う人が多い。

マクロを知らない時の私もそう思っていました。

でも、マクロビオティックの授業を受け続けて体系的に学び続けながら
日々なんちゃってマクロ
ーお肉が食べたいときは罪悪感なくお肉を楽しむ。砂糖の甘さが食べたいときは市販の見るも楽しいスイーツ買う。そした食べたときの体の反応を注意深く感じ取ろうとする。

をしていくなかで、だんだん体や心が欲するものが穀物中心になってきた。
大好きだったスイーツが、美味しいと思わない場合が多くなった。
食べた後気持ちが悪くなることが多くなった。
気持ちの上で凄い残念だなぁ、あんなに可愛くて美味しいお菓子が食べられないなんて、
って思ったけれど、体は喜んでる。
でも、やっぱりレストランのコースの最後に手の込んだスイーツを出されたりすると食べたくなって、思わずペロリンっと楽しんで、直後に気持ち悪くなって、というのを何度も繰り返して、ようやく気持ちと体が繋がって、出されるスイーツを食べられないことが残念ではなくなってきた。

自然体のマクロビオティックやベジタリアンの人って、我慢して特定のものを食べないのではなくて、例えばお肉を食べても「美味しい」と舌や体が感じないのだから、お肉を食べない選択=美味しいものを食べていない、という論理にならない、というのが自分の実体験を通してやっと理解できた感じ。

同じ価値観を共有したい傾向にある日本人には分かりにくい感覚かもしれません。

アメリカにいるとき、肉食中心の知り合いの男性と、ベジタリアンの女性が結婚しました。日本では、食の好みがここまで違うと、結婚のおおきな障害になりそうだと思いますが、全く違う食のスタイルの2人が同じテーブルを囲み、異なるものーお互いがお互いの食べているものが美味しいとは思えないーを食べながら、食を楽しみ、二人の時間や関係を築く、そういうかかわり方が自然に出来るのって、人との繋がりの幅を広げるし、大事だと思います。
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by totoatsuko | 2008-07-11 17:07 | Comments(0)

いつまでも生きていて欲しい

飛行機内のスクリーンで日本番組。
岐阜県根尾谷にある樹齢約1500年の薄墨桜の特集。
それはそれは壮大に美しく、夜は怪気すらただよわせるたたずまい。

桜の季節には、一日1万人の観光客が訪れるが、
桜の根元から周囲何メートルかは、根を痛めないよう立ち入り禁止になっていて、枝も34本の支柱に支えられている。私のとっさの印象は、美しい、というより、なんと痛々しい、だった。

観光客達は、
いつまでも生きていて欲しい、
年老いた自分と重なって勇気付けられた、
とコメントしていた。

人の生き様は様々。
老いて朽ちる道のりもさまざま
そのとき何を感じるかもその人の心のうち、
傍からみえるその姿の受け止め方も人それぞれ、
ですね。
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by totoatsuko | 2008-07-07 15:28 | Comments(0)

鬱について

d0065558_1354413.jpg鬱になるには理由があって、突然変異でなるわけではない、と以前書いた。

それで、予防のためには「教育」が助けになるのではないか、と思ったけれど、
教育ではどうしようもない側面があると思うので、書き足そうと思う。

鬱を引き起こす原因は、生まれた瞬間から刻まれる個人の歴史にちりばめられている。
どれか一つの出来事だけが鬱を引き起こす事は無いに等しい。
色んな要因が複雑に絡み合っている場合が多く、決して薬だけでは根本的な解決にならない。
また、専門家以外の人が心の話を聞いてあげて治す、というのも不可能だし、余計状況を悪化させる場合がある。(本人に近しいことが出来る最善のヘルプはいい専門家を紹介し、そこに火曜気持ちを促すことだと私は思う。)

鬱になった知人・友人・親戚・家族をもつ人はこのご時世、沢山いるだろう。
その多くは、実際鬱ど真ん中の本人と触れ合ったことがない。鬱の人は引きこもっている場合、人と触れ合いたがらない場合が多いから。
でも、なんとか助けになろうと近づいて、自分も鬱になりそうになったり、嫌な思いをする場合が多い。それは、考えてみたら当然なのだ。ただ一時的に気持ちが落ちこんでいるのではなく、本当に心の闇にどっぷりつかっている人の闇に片足をつっこむなんて、危険極まりない。カウンセラーと自称している人だって、ちゃんとしたトレーニングを積み、スーパーヴィジョンを受け続けたり、セルフケアをしていないと闇に引きずり込まれるのだから。

心が持つパワーを軽んじるべきではない。

そして、鬱症状を示している人は、鬱だけではない要因を併発しているかもしれないことも付け加えておく。それは多重人格、境界線人格障害、PTSD、摂食障害、不安障害だったりする可能性もある。

日本の社会全体の意識として、個々人の意識として、鬱の症状を軽く見ず、精神科医だけではなく心の専門家とのコラボレーションによるケアの必然性を認識して欲しい、と願ってやまない。

自分の過去や、現在の環境や、人との関係のせいで、これからの人生を鬱で生きていかなくてはならない状況に追い込まれたまま、なんて、とても残念なことだと思います。

折角「命」をうけてこの世に存在し、この世での時間を与えられているなら、自分らしい生き方をより多くの人に送ってもらいたいと思います。
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by totoatsuko | 2008-07-07 14:00 | Comments(0)

13ヶ月の喪の期間

d0065558_1327543.jpgアメリカのホスピスの規約には、患者の死後13ヶ月間、ホスピスのスタッフが患者の家族の心のケア・フォローアップを行なうことが義務付けられている。家族が望もうが、望むまいが、そうしなければならないのである。

患者の死が残された人間に与える影響が大きさの認識を証明している。

日本では、13か月のフォローアップ義務や概念きいたことがない。そもそもホスピスの数も少ないのだが。病院で誰かが亡くなっても、さぞ悲しいことでしょう、そう家族に伝えるしか病院側は「出来ない」。
例え患者さんが亡くなって数ヵ月後、入院中患者さんとその家族と心を通わせた医療スタッフが、家族を気遣って医療スタッフとして患者の家族を訪問したり手紙を書きたい、と思っても、今の日本では「躊躇」しなくてはならない行為である。

何故なら、患者の死後の家族との関わりについて何も規定がないから。
そこに、専門的なサポート体制が敷かれていないから。

例えば、個人的に家族を気遣って出した手紙が、家族の気持ちをかき乱したら?鬱を引き起こしたら?第一、これまで看護婦・医師として接してきたのに、患者の死後、その役割の範疇を超えた役割をするのは、おかしい。患者の死後、家族の心に踏み込む行為をするならば、その踏み込んだ結果何が起ころうともちゃんとケア出来る体制でないと、こちらの善意が、思わしくない結果を導いてしまう。

でも、今の日本では、その手紙や訪問の結果、家族が鬱になっても、その家族を病院に収容する手続きをするなどの権限はない。個人的に病院に行くことを「勧める」ことはできても、訪問者が医療サービスを提供することは出来ない。

肉体を治療する医療の場において、心のケアも「専門家によって」「投薬以外の手法も使って」行なわなければならない、という認識が日本にほんとうに根付いていない、というのを改めて感じました。
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by totoatsuko | 2008-07-07 13:27 | Comments(0)

鬱の予防

d0065558_13255326.jpgどうやったら鬱になるのを予防できると思いますか?
聞いた話なのですが、会社のあるプロジェクトチームが全員鬱になってしまい、そのプロジェクトは解散してしまいました。それで、会社側は「鬱になるのを予防するにはどうしたらいいか」というプロジェクトを社内で立ち上げたら、そのプロジェクトリーダーが鬱になってしまったらしいです。他にも鬱になった、という人の話を凄くよくききます。

という話。
「どうやったら鬱になるのを予防できると思いますか?」
そう聞かれて、とっさに私が答えたのは「教育」
そういう発想を自分の中でいままでクリアーにしたことはなかったので、「小さい頃からの教育」と応えた自分に、「そうか、そういう視点もあるよね」と少し驚いたのですが。

鬱になる理由って、人の数だけあります。
でも、突然変異してなるわけじゃない。長い間蓄積されてきた生き方や価値観みたいなのが多々影響していると私は思っています。だから、対処療法で薬を飲んだだけでは、根本的には決して治らず、その先の人生でまた鬱に陥る可能性は凄く高いです。

何故「教育」と応えたか?
それは、小さな頃、子供達は学校や家庭や様々な人との触れ合いの中で、自分なりの人とのコミュニケーションの取り方、意思表示・感情表現の仕方、自分の限界・可能性の感じ取り方/それの伝え方を、自分なりのやり方として確立していきます。

そういう時期に、例えば「ああ、その要求は自分は応えたくないな。」あるいは、「自分の能力ではちゃんと対応できないな。」と心の中で思ったとき、それを相手に伝え、じゃぁどうしたらいいか、というのを相手と一緒に考える、というプロセスを学ばなかったら、会社に入っても、とにかく一人でかかえこんでしまう・自分を心理的にも体力的にも限界に追い詰める傾向を持ってしまう。
「No」という事は悪いことではなく、自分には出来ないことを、出来ない、と相手に伝えることが悪いことでもなく、恥ずかしいことでもない。でも、多くの日本人は凄ーーい無理してでも笑顔で対応してしまったりする。そして、自分がやらなければ人に迷惑がかかるから、ともっともっと自分を追い込んでしまう。そして、そういう風に頑張ることがカルチャーになってしまって、みんながみんなアップアップの状態で、でも誰も一言もSOSを出さない。そしてある日突然倒れる。

小さい頃から、自分の気持ちや能力の様子をみながら、周りにその情報を公開し共有し、自分にできる事、周りに手伝ってもらうことを仕分けながら、みんなが無理せず出来る方法を周りの人と一緒に考えながら、チームワークを構築していく、というのに親しんだら、部下の立場も上司の立場も、親子の関係も、極限になるまで自分や相手相手を働かせる、精神的圧迫を(無意識に)押し付けあう、ということは少なくなるのではないか、と思ったのでした。

でも、そういうのが出来ない世代が学校の先生だったり親の場合が多いから、なかなか教育を通して次世代の子供達にSelf-careの大切さを身につけてもらうのは難しいですよね。
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by totoatsuko | 2008-07-07 13:25 | Comments(6)

MFA-Museum of Fine Arts

d0065558_1313353.jpgボストン美術館は水曜夕方以降の入場は無料なので、その日を狙って訪れた。ボストンに住んでいたときは子供がいたからなかなか行こうという気になれなかった場所。おまけに、フリーガイドツアーにも参加して、数時間ゆっくり美術館を楽しみました。(曜日によっては午後9時45分まで開館している)入場料が無料なので、子どもをつれて大家族できている人や、学生も多々。

私は、美術館は一人で楽しみたいタイプなのだけど、
それとは別に、子供がいれば子供にも美術館に親しませる機会をもってあげたい、と思う。
幼稚園生くらいなら、けっこう自分が描きたい対象を割りと自分の思うように描いたり作ったり出来るだけのmoter skill(手先の能力)が備わってくるから、展示されている作品にもその子なりの関わりが持てるはず。そして、何より「美術館にふらっと気軽にいってみる」という習慣みたいなのが育まれるのもよいことだと思う。

こういう大きな美術館では、子供向けの無料ワークショップも企画されていて、「専門家」がそのワークショップをリードするから、子供の細やかなニーズにも、専門家にしか対応できないようなステキな反応をしてくれる。

日本の美術館は、「他のお客様の迷惑になりますので」小さいお子様はご遠慮ください、というのがほとんど。残念です。美術・アートをそんな高尚なものにして遠ざけなくてもいいのに。子供のもつクリエーティビティーこそ、アーティストが作品を生み出すエネルギーの源なのに。
子供を連れて来やすい日時を設定して子供も歓迎しファンを年月をかけて、でも確実に増やせば、将来の美術館の経営と質の向上にも貢献すると思うのですが。。。
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by totoatsuko | 2008-07-07 13:01 | Comments(2)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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