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Earthの真ん中にはArt がある

d0065558_9334537.jpg 週末、友達の知り合いで、アーティストのKuniさんとWhite ship. incのKimiさんと対談しました。
公園のみえる、とても気持ちのよいオフィスで、彼らの活動や思いのようなものを聞かせてもらいました。

Kuniさんが、自分がアーティストになったきっかけは、中学の頃国語や算数には100点があるけど、アートにはそれがない、というのが凄くおもしろいと思ったからだそうです。誰も、ピカソとゴッホの作品、どちらが勝っているか点数はつけられない、と。

もうひとつ面白かったのは、Earth(地球)という英単語。
真ん中にArtがある、とある日発見したのだそうです。
そして、Eから始まる単語には Entertainment, environment, Education
Hから始まる単語にはHappiness, Humor, human
という意味を持つ物があり、Artはそれらを繋げることができるんだ、
と言っていたこと。

それを聴いて、私の専門分野の一つでもある、Grief care, palliative care - 死んでいく人とその家族を対象とした音楽療法にもArtがあるな、と思い当たりました。

stART & depARTure.

死んでいくことは、 この世から・あるいは肉体から離れるdepartureでもありますが、
それは新たな普遍的な生への始まりstart でもあると思っています。

あるいは、人生こうあるべき、と思いこんでいた生き方からの心理的Departureが音楽療法の中で起こり、今まで作ってきた人生とこれからの将来に対して、新しい価値や意味合いを持ち始めるStartする時期であるともいえます。

また死んでいく人の周りの人にとっても、死は別れかもしれませんが、
死んでいく人・死んでしまった人と新しい関係が始まる時期でもあります。

探してみると、Artという単語はもっともっと色んな単語にひそんでいるのでしょう。

学校や日常生活から、Artがどんどん遠ざかり、上手じゃないと絵を描くのは恥ずかしいとか、Artが特別な存在になっている傾向がありますが、Art って本当は、何気なく暮している中に、なにげなく当たり前のように存在していているはずなのですが。

余白をなるべく作らないようにして生きている現代人にとっては、アートを日常に感じる・体験している実感をもつ隙間がないように感じるのかもしれません。
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by totoatsuko | 2008-06-30 09:53 | Comments(0)

it's my separation anxiety

d0065558_10264133.jpgアメリカから帰ってきました。
今日から数回、あちらで撮った写真を一緒に載せていこうと思います。
なんだか、あちらにいると撮りたい気持ちになるんですよね。

滞在中携帯もパソコンも携帯せずに過ごしたのですが、何度か家族とチャットや電話で話す機会がありました。どうやら、心配していた子供達のseparation anxietyは杞憂のようだと感じました。自分の家から離れ、慣れ親しんだ生活パターンも違う、顔見知り程度の私の両親の広島の片田舎に突然2週間も連れて行かれるのは、とても辛い事かもしれない、少なくとも最初の数日は、と思っていた親の心配をよそに、折角電話でconnectしても、遊ぶのが忙しい様子。

What we were worried about was NOT their separation anxiety But ours.
ー子供が突然親と離れ離れにさせられて、さぞかし辛い思いをするだろう、というのは勘違いで、離れ離れになる事の不安は、親自身の不安だった。だけど、それを自分の不安とは言いたくなくて、子供が不安がるから、と子供のせいにしてた。

そう思いました。

Upstate NYをドライブしながら久々に会う50代半ばの音楽療法のクラスメイトにこの話をしたら、
「You never know. 先日長男の大学卒業式で家族5人で集まんだけど。私と元夫との離婚のプロセスがあまりにもひどいものだったから、子供達は絶対結婚したくない、とか結婚しても子供は持ちたくない、って言うだろう、と思ってたのよ。でもね、guess what, みんな結婚して、子供は3.4人欲しいって言ってたのよ。分からないものね。何がトラウマティックになるのか、どういう経験が子供達の価値観-value system にどう影響するかなんて。」

そう言いました。

私の両親はそんな離婚騒動は起こさなかったけど、「結婚する意味が全然わからない」と思っていた時期もありましたっけ。人の主観的な体験は予測できないし、その体験の人生への影響もまた予測出来るものではないのだな、と改めて思いました。

だから、誰かが何かの体験によって心に傷を負ったとき、それはその原因となる物事や環境を作り出した人だけの責任だとは決して言うべきではなく、その傷を癒していくには、傷ついた本人の心を見つめないことには、本質的な解決にはならないのだろうと思います。

今日はよいお天気なのに、週末は崩れるそうですね。。。
折角海外にいて梅雨を少し逃れることが出来たと思ったのですが。
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by totoatsuko | 2008-06-27 10:26 | Comments(0)

自分なりの感じ方で

本の虫だった中学生の頃新聞などの書評を書いている人のような深みのある小説の理解の仕方や視点を持つ事ができなくて、自分のことをふがいなく思ったことがあるのをふと思い出した。

それを先生に伝えたら、その時その時で本から感じる物は違うのは当たり前だから、誰かのように行間を読んだり感じたり出来なくても、それは私が「読みが甘い」のでも「浅はか」なのでもない、という返事が返ってきた。

それが何だかとても嬉しかった。
あぁ、いいんだ、今読み取れない物・感じきれない感情があっても、
それは自分の努力不足でもなんでもないんだ。
自分が感じるままに物事を感じればよくて、それに好し悪しはないのだ。

そう思えた。

人生同じ年数生きても、その道のりは人それぞれ。
同じ体験をしても、主観的な感情や皮膚体験の内容は人の数だけある。
ともすれば、勝ち組・負け組み、や成熟/未熟・などと仕分けされやすい世間の視点が蔓延しているけれど、その人がその人らしく感じ、考え、実行し、体験し、自分らしい豊かな生き方が出来れば、それを人にどう評されようと、ゆるぎない。

嬉しい・とか悲しい・とか腹が立つとか・楽しいとか、
それは比較して、どっちの楽しさの方が楽しい、と人に評されるものではない。
自分が楽しいー!!! と思えば 楽しいー!!!のだ。

そして、物事の感じ方は自分の中でも常に変化している。
昨日楽しかったことが、今日はちっとも楽しくないこともある。
でも、それは昨日の自分が間違っていたのではなくて、昨日の自分と今日の自分は何かが変化しているだけのこと。

その時その時の自分の感覚を大事にして、感じたことをジャッジせず味わいながら、一つの物事を時間をかけて、人生の違うステージにまたがって味わっていきたい、そういう長いスパンに耐えうる味わいの対象を大事にしていきたい、と思う。
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by totoatsuko | 2008-06-16 23:49 | Comments(0)

ブログお休みします

明日から月末までアメリカへ音楽療法のSummer seminarに行ってきます。
ブログはその間お休みの予定です。
メールのお返事も遅くなると思いますがご了承ください。
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by totoatsuko | 2008-06-16 18:36 | Comments(0)

続き

周囲から引きこもり、猫や小動物、人形などを壊し始めたら危険信号、
と犯罪学の教授のコメントが載っていた。

そんな人、日本じゅう探せばいーーーーーっぱいいると思う。
そういう人を犯罪者予備軍として監視するなり何か手をうつなりしようと思っても、無理があると思う。それくらい、そういう傾向を持っている人って沢山存在すると思う。

ただ表に出ていないだけで。

そして、そういう生きることに・世間に絶望した状態から、人生を「楽しめる」ように変容すは、「薬」の作用だけは決して起こらない。セラピストと類まれない信頼関係を築き(それだけでも一大プロジェクト・人を信じられなくなっているから。でもこの信頼関係がないと意味のあるプロセスは起こらない)、その人のライフヒストリーを吟味し、その人の押し殺され続けた感情を受け止め昇華・消化するプロセスを通じ、自分を再構築していく必要があると、私・音楽心理療法士 は思う。

長くて、暗くて、どろどろして、辛い道のりも必ず途中で遭遇する。

世間や人に対する強い憎しみや倦怠感などが、一気にセラピストに向けられることもある。
セラピストは、憎しみ以外にも投影される・吐露される強い感情をクライアントの変容の材料としてセラピーのプロセスに組み込んでいく。
セラピストは自分を責められたから、って驚かない。
誰かや何かが凄く嫌になる気持は、生きていたら当たり前に起こる感情で、それが「クライアント」のプロセスをサポート役割のセラピストに向けられる事だって普通にあっていい。リアルな人間関係には様々な感情が渦巻くのだ。

クライアントは、楽しくない・辛い思いをセッションですると、もうセッションに来たくなくなる人もいる。当然だ。誰だって嫌な思いをするためにお金なんか払いたくない。
でも、私はクライアントとの繋がりを諦めずに、続けることの大事さを伝える。

真剣に自分自身と向かい合おうとしていれば、決して自分が見たいものだけ見てはいられない。自分が見たくない、と無意識にでも、意識的にでも思っているShadow/闇の側面を受け止め、自分の大事な一部として居場所を見つけてあげるには、相当な心的エネルギーを要する。
絶対に一人では出来ない作業。
そして、トレーニングをちゃんと受けていないセラピストと行うには危険すぎる作業。

書き始めから話がそれてしまったけれど、、、
引きこもっていて、人生に嫌気がさしている全ての日本人に、こういうタイプのセラピーをやるなんて、トレーニングされたセラピストの人数は決定的に足りないし、そういうセラピストの活動を援助するシステムもないから不可能だと思う。

ならば、そこまで自分を追い詰め孤立させてしまう状態にならないための手を打つ・予防策を考えるべきなのかもしれない。教育?家庭教育?社会教育?食育?政治?

でも、教師にも、親にも、祖父母にも、政治家にも、セラピストにもお医者さんにも!病んでる人って多いのですよね・・・
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by totoatsuko | 2008-06-12 11:01 | Comments(0)

自分のクライアントだったら・・・秋葉原の事件に思う

今回の秋葉原の事件と、数年前に起きたアメリカ・コロンバンでアメリカで史上最多の32人乱射を韓国系アメリカ人の大学生が起こした事件との類似性を指摘する記事を読んだ。

世間からの孤立感、今自分が不幸なのは回りのせい、犯行の予告をする自己顕示欲、人を殺すという動機がない。

違うのは、アメリカの犯人は事前に精神科にかかっていて、日本の犯人はそうではなかった。
これは音楽心理療法士として気になった点。

精神科にかかっていても、彼の犯行を未然に防ぐことは出来なかった。
ということは、日本で仮に今後精神科やセラピーのサービスの量と質が劇的に向上しても、それだけでは、このような事件を防ぐことは出来ない、ということだろうか?

もし、これらの事件の犯人がわたしのセッションに来ていると仮定して、私は事件を予知し未然に防ぐことが出来るだろうか?分からない。


事件が起きてしまえば、あの人は犯人のカウンセラーだったのに、と非難されるはずだ。

怖いのは、「この人はわたしのセッションに来ているだけではどうにもならない。もしかしたら犯罪をおかしてしまうかもしれない」と私が感じたとしても、どこにどう言っていけばいいのか分からない点だ。

警察に相談する? 基本的に、今の警察は「まだ起こっていない」犯罪に対して何か行動を起こすことは滅多にしない。心の問題の重要性について特に知識をもっていない警察を、頼れる存在・あるいは話して分かってもらえる相手とは思えない。
「杞憂ですよ。そういう人、沢山いますよ、世の中には」と言われてしまってはおしまいだ。

それに、クライアントに相談することなく警察と連絡を取ることはConfidenciality 違反だ。
たとえ、犯罪を起こす可能性があるとしても、だ。
セッション中起こった事を第3者に話されるかもしれない、という猜疑心をクライアントがセラピストに持ったら、セラピストを信頼することはできないし、心を開いて話なんてする気にならないと思う。

精神科にかかるように勧める? 勧めたとしても行くか行かないかはクライアントの選択だ。クライアントと精神科に行かないとセラピーを続けられません、という契約を結ばない限り。
そして、仮に精神科にかかったとしても、精神科医がちゃんと対応してくれるかは定かでないし、クライアントが処方された薬を飲むかどうかも定かではない。

一人の音楽心理療法士として、いろんな思いをめぐらせています。
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by totoatsuko | 2008-06-12 10:25 | Comments(0)

変わらないもの

来週半ばからボストン、帰りにNYをぶらっとしてくる予定です。
7月は10日間まるまるNYですが、今回は寄るだけだから、時間はあまりない。
そこで何をしようか・・・

NYって常に新しいものが色んなところで起こっているから、さぞかし色々変わってるんだろうなぁ、と思いながら時間を見つけてNY情報をサーチしたりして、旅の前のささやかな楽しみを味わっているのですが、そこで分かった限りでは、当時(4年くらい前)凄く美味しい!と思っていたレストランや、面白い企画をやっている場所は、今も変わらず、美味しいレストラン上位に地位をとどめ、面白い企画をやっていたところは、今も同じように時代のトレンドを先取りしているんだな、ということ。

行ってみたら、ネットで得た情報とは違う面も沢山あるのでしょう。
街をあるきながら、それを足で発見するのも楽しみ。

今日はお天気がよかったので散歩したのですが、町並みを見ながらボストンやNYと比べて味気ないなぁ、と思いました。日本人ってすごく人の目とか協調性を重視するのに、建物の統一性はバラバラでも気にならない、ってinteresting。

いけるかどうか分からないのだけど、お気に入りだったお寿司屋さんに行くのが今回のNYの楽しみの一つです。NYでわざわざ御寿司、なんて変な感じかもしれませんが、あそこのお店の味は日本のお寿司屋さんではみつからないので。御寿司が食べたい、というより、あのお店の味に会いたい、と思っています。

私もそういうセラピストに慣れたらいいな。
英語も使える日本人だから、女性だから、経験がうんぬんだから、音楽をセラピーの道具に使っているから、という感じで何かと比較して篤子がいい、というのではなく、絶対値で私という人間や私のスタイルが好きだから私を選びたい、と感じられるようなセラピストでありたいと思います。
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by totoatsuko | 2008-06-10 16:33 | Comments(0)

生活は変えたくない・というエゴ

食料問題が話題になっている。
ローマで開かれていた食料サミットは、原油価格高騰やバイオ燃料の周りに山積みされている問題に明確な指針を出さずに閉幕した、とニュースで言っていた。

私がショックだったのは
この3年間で原油代が2倍になったのに、魚介類の値段にはその経費が全く反映されていないために、漁師の人たちの生活がとても苦しくなってる、採算がとれないから休漁を選択する人も出てきている、という事実に対して、

政府は「国民のために冷静な判断をして欲しい(休漁したら魚が市場から消えて消費者が困る。)」
ある消費者は「値上げは困ります。毎日お魚食べてますから」(食費が高騰して家計を圧迫するから)

なーんて自分たちの事しか考えないんだろうって、思いました。
(まぁ、こういう考えのひとは一部でしょうけれど。)
漁師の方達だって国民。
その人たちが困ってる、っていう事実は思考回路のどこにも残らないのだろうか?
その人たちが生活できなくなったら、漁業がなくなって、そもそもお魚が食べられなくなるのに。

毎日お魚を食べてるライフスタイルを変えよう、とはこれっぽっちも思わないの?
水産会社がどんどん倒産している事実の傍ら、自分の家計が苦しくなるのが大問題みたいに言う。「お魚を毎日食べたいから」という国民の希望を叶えるために値段を据え置きするのはどうなんだろう、と思う。もがいている日本の漁業に何も手を打ってこなかった政府って・・・
(似たような問題は、農業にも酪農にもあるときく。)

誰だって出費がかさむのは嬉しくない。
格差社会で、ほんのちょっとの値上げも大きく生活に影響を及ぼされる人の数も少なくない。
だからこそ、それぞれの立場がその立場を守ろうと頑なで、
なんとか周りの状況が自分に都合のよいように変わるのを期待するのではなく、
ひとりひとりの人間が問題の全体像を正面から見据えて、
異なる立場同士の間で納得のいく答えを導き出す努力をするべきではないか、と思った。
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by totoatsuko | 2008-06-07 00:00 | Comments(0)

緩和ケア

日本でも「緩和ケア」に注目が集まり始めている。
「緩和ケア」という単語が耳に目につくようになった。
でも、その実態はどうなのだろうか?

某有名大学病院でのある個人体験をうかがった。

その病院の緩和ケアチームは立ち上がったばかりで、各科の専門医が集まってチームが出来ている。癌患者の家族が、「緩和ケアのサービス」があるなら受けたい、と意志を伝えたところ、緩和ケアチームの医師が問診に来て、痛みを和らげるための薬を処方してくれた。

で、数日後その患者を見舞いに行った家族は、患者が別人みたいな顔をしているのに驚いた。
患者は、「いままでずっとあなたがいると思って話しかけてたのよ」と言う。明らかに幻覚を見ていたわけだ。しかも、痛みはとれていないようだった。家族は、処方された薬の錠剤を持ち帰って、ネットで調べてみたら、抗鬱剤のもっとも強いタイプのものだというのを知り、主治医にこの薬は強すぎるようなので止めさせたいのですが、というと、どうぞ、とすんなり合意した。主治医チームと緩和ケアチームの連携もうまく取れていないようだった。患者や患者の家族にも、「緩和ケア」のために処方された薬の情報を十分に説明出来ていないようだった。

日本での「緩和ケア」というのは、あくまで「薬」で「症状」を緩和 -和らげる? アプローチなのか?音楽療法や芸術療法ならば、幻覚や幻聴・めまいや食欲への副作用なく、緩和ケアに関わることが出来るのだが、そんな可能性は信じられないのか。

患者の痛みは、これからどうなってしまうのだろう、自分は死ぬんだろうか?死ななくても、また何年後かに再発して同じ治療の苦しみを体験しなくてはならないのだろうか、などという不安や悲哀・病に対する怒りも加担していることがよくある。

膿のようにわだかまっている感情を、セラピーという安全な場で開放することにより、循環がよくなり、病や生きることに対する気持ちの色合いも変わり、痛みの感じ方も変わる。誰にでも出来る作業ではない。家族や友達でも決して出来ないプロフェッショナルな関わりとプロセス。医療費だって薬剤費だって軽減出来る、このような代替医療を日本の医療界に広めることは出来ないのだろうか。

そして、その患者さんの家族と話して話題になったのは、
患者さんの家族をサポートするシステムも必要だという事。

不安なのは、悲しいのは、この先どうなってしまうんだろう、と思っているのは、患者だけではない。家族のケアまで病院が面倒を見なくてはいけないのか?当然今の日本の医療では「そんなの無理」という人が多いだろう。 でも、じゃぁ家族は誰に支えてもらえば、誰に助けをもらえばいいのか?精神科医?

家族は、抗鬱剤や精神安定剤や睡眠導入剤が欲しいのではない。
受け止めてもらいたいのだ、大切な誰かを失いそうな今感じている恐怖を、悲しみを、うろたえを。患者の前では決して見せない感情を。

NYの癌センターは、階ごとに癌の種類が別れていて、この階は脳腫瘍、この階は骨の癌、という風になっていた。そして、毎週フロアーで集まる自由参加の音楽療法グループをやっていて、そこに患者やその家族・友人が参加する。

同じ癌を患っている人達だから、不安も痛みも共通点が多い。
セッションの中で、そういう話を分かち合う。そして励ましあう。
グループのメンバーによっては死についてだって話せる回もある。
そして、家族同士も顔見知りになり励ましあう。

日本の病院でも将来そんなことが実現できるといいな。
心のケアも含めた「家族と患者さんのための緩和ケア」
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by totoatsuko | 2008-06-04 22:45 | Comments(0)

でもやっぱり辛いものある

先の投稿で、10年も続ければ、社会から認識されたり、自分のやりたいことを批判なく存分にできるようになるはず、と書いたけれど、やっぱりそこに行き着くまでの道のり、って辛いものが相当ある、と思う。

私は人(といっても、その人がどの位自分に親しいか、というのにもよるが)の無関心は余り気にならないけれど、積極的な批判をされるとへこむ。無関心さえ気になるひとだと、やっぱり社会の主流とされていないことを実践するのは、相当辛いと思う。

わたし達は社会の中で、地域の中で、家族の中で、その一員として生きている。
その繋がりって、日々そんなに意識していないけど、自分のidentityを保持している大事な要素である。どんなに引きこもりの生活をしていても、誰かの親であったり、子供である自分、というアイデンティティーは消えない。宗教的な視点から見る人は、みんな神の子だと言う。

自分が信じている事が相手と違うから、という理由で、相手から関係をばっさり切られそうになることは日本ではよくある。そんな考えをする人は僕らの仲間じゃないね、私の子供ではないね、って。

違う視点を持っている人にニュートラルな態度・感情を持てないのはしょうがない。
そういう教育だから。
そういう教育をうけた人が先生や親だったりするから。

もういい、誰にも理解されなくても、自分を信じてやっていける、
そう見切りをつけても、周りに常に批判的に接せられると相当悲しいだろうな。
「相当悲しい」という言葉では表しきれないような感情・

でも、その悲しみや怒りさえも自分のクリエーティビティーの材料にしてしまえれば、
なにかとてつもなく大きなものを作っていけるのではないだろうか。偉大な音楽家や画家や作家のように。

いや、大きなものなんて創れなくていい。
自分のやりたいこと・信じることを自分の人生のなかで耕しやがて実りの時期を迎えることが出来れば。
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by totoatsuko | 2008-06-04 09:01 | Comments(2)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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