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熱くなる

通っている所の待合所に「のだめカンタービレ」が置いてあるので、毎回読みすすめて、もうすぐ最終回。音大生・音楽家達の話なのだけど、あんまり自分の音大学生時代と重ねることなく、リアリティーと漫画の作り話のギャップに違和感を感じることなく、軽く読み飛ばせて時間潰しを楽しんでいる。

そして、時々登場人物達の音楽や人に対する熱い思いとか、こだわりのシーンで目頭が熱くなったり、胸がきゅぅっ とすることがある。

まわりには構っちゃいられない・
もうその瞬間は自分のやりたいことを突き詰めるのに必死
まわりがまったく見えないくらい、そして見えないことが気にならないくらい、自分の内側に存在する熱い思いに突き動かされている人たち。

分かる、その必死さ・その情熱。
ピアノと添い寝しないと不安でしょうがなかった試験中の日々もあった、
プロの音楽家を目指していたわけではいなかった私ですら。

いいなぁ、何かにあんな風に、嬉しいことにも・悲しいことにも・辛いことにも熱く・必死になれるなんて。周りから見たら価値がないことでも、自分にとってはすっごく大事で、それを貫く・精進する。

家庭をもったって、そんな熱くなり方・生き方をやろうと思えば出来る。
家庭をもったからああいう熱い生き方・没頭はできない、と人のせいにするのはお門違い。

私は、そんな熱い生き方に胸を熱くしつつ・憧れつつ・感銘をうけつつ、
家族が休める空気と場所を提供する、という、
激しい情熱を使う余地はないが、安心できる毎日の繰り返しをプロデュースする役割。
ぬるま湯の温度を保ち続けるぬるま湯っぽい緊張感を、それでも一秒たりとも気を抜く事ができない感じのライフスタイルを、あえて選ぶ・今は。

ぐぐっと熱くなるのと比較できないが
いいかんじの温度を常に保つ、ためには持続的な緊張感が必要なのだ。

熱い思いを秘める漫画の登場人物たちや、実生活で触れ合う熱い思いを持った人に感情移入したり、共感しながら、彼らのエネルギーの波動を自分の波動に取り入れてみたり、かつては自分も体現していたあの感覚を忘れないように、そして今でも心の奥で種火となっている情熱を、いつかそれに飛び込める時が来るまで大事にしていきたい。
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by totoatsuko | 2008-05-30 17:52 | Comments(0)

Sudden鬱

ネットで勝ち組のSudden鬱、という主題の記事を読んだ。
とつぜん鬱症状に襲われるビジネスマンの例が挙げられていた。

まさか自分が鬱になるなんて思ってもいず、仕事に打ち込む彼は、一昔前の会社が自分のアイデンティティーというタイプではなく、どこまで業績を上げるためにがむしゃらに働いても会社と一体感を持てない世代。自分の体の変調(頭痛とか尿漏れとか)を大丈夫、と自己否定し、自分の感覚を信じないで、とにかくとにかく自分が自分に課した「-ねばならない。 を履行する・わき目も振らずに(本人は余裕をもっているつもりの場合が多い)

そういえば、まわりがちょっと様子がおかしいけど大丈夫?と本人に聞いたら「調子はよくないけど大丈夫」と数週間前に応えていたレポーターが自殺したニュースもあった。

世間の鬱や精神疾患に対する認識はとても甘いと思う。
そして、日本の公的なサポートシステムも凄く未熟だと思う。
鬱&鬱予備軍を抱える会社だって、対応策を用意しているところは、大企業でさえほとんどない。
あっても、表面的なカウンセリングを行なうカウンセラーか、薬を処方する精神科医くらい。
それだけでは、その人を精神疾患から
一時的に回復させることは出来ても、
治療を終えた後、本当にその症状から自由にする(リバウンドなし)ことは難しい。

鬱の根本・心の奥底まで診れる人・時間のかかる回復のプロセスをサポートするシステムが必ず必要だと思う。。

しかし、残念ながらこの状況を変えようとするうねりみたいなのを今の医療界には感じられない。そこに予算を配分しなければ、とういう危機感があまり感じられない(私が知っている狭い世界の話ですが)。加えてカウンセラーは精神科医のお手伝い、という認識がとても根強く、それではいいカウンセラー・サイコセラピストが育つ土壌には向かないと思う。

精神科医・心療内科医には出来ないけどセラピストにはできる事、
セラピストには出来ないけどお医者さんにはできる事。

お互いが対等に尊重し合い・協力しあわないと、どんどん増えていく日本の精神疾患を持つ人の本当の回復の手助けはできないのではないかと思う。
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by totoatsuko | 2008-05-27 18:04 | Comments(1)

足かせ

子供を持ってから家をあけたことはなかった。
私がいなくて不安になって泣き叫んだり情緒不安定になっている光景(←実際やったことがないわけだから、あくまでも私の主観的仮説)が目に浮かぶと、楽しみのための旅行も、勉強のための出張も、今は子育ての時期で、これが永遠に続くわけないのだから、5年後10年後の楽しみに取っておこう、と自分と対話していた。

自分にも家族にも、(見方によれば)足かせのようなものを付けていた。
私の私だけの時間だったり、家族それぞれのメンバーの自分だけの時間はなかった。
そういう状況を半分意識的に、半分無意識に作っていた。

しかし最近アメリカ音楽療法士の資格の5年毎に行なわれる自動更新の為には、アメリカ音楽療法協会・AMTAが認めるセミナー等に出席したり発表したりしてポイントを稼がなくてはならなかったな、というのをふと思い出し、あせる。

5年以内に子供が母離れするか?
Non.

ということで、どうせ彼らに2年以内に試練の体験もしてもらわなくてはならないのなら今年でも2年後でも同じだ、と思いこの夏は、何度かアメリカの音楽療法集中講義を受けに行ってパワーアップしてこようと思います。

子供達が泣く姿を想像すると胸が痛むけれど、
悲しくて寂しい状況を乗り越える術を自分なりに体得してくれたらいいな。
サバイバルは教えられるものではないし。

そう、子供のクリエーティビティーを信じなくちゃ。
そして、大事な人に信じてもらうことによって出来ることもある。

私も絶対二度と体験したくない辛くて悲しい思い出があるけれど、それを体験したからこそ、そしてそれを乗り越えたからこそ今の自分がある。

辛い体験は、必ずしもマイナスなものとして刻印されるとは限らない、
大事なのは、その体験をどう消化し自分の一部にするか、ということ。
腐敗物として悪臭を漂わせながら自分の人生に影を落とすものにするのか、
何かに昇華させて自分の輝きの粒子にしていくのか。

そんなことを心にとめて、この試みを家族や周りの人を巻き込んでみんなで乗り越えようと思う。
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by totoatsuko | 2008-05-22 13:21 | Comments(0)

be creative

前の記事を書き終えで今一度思ったこと。

そう、自分に足りない物は、足りないものそのものを調達してくるだけが、自分の足りないところの穴埋めをする手段ではない、ということ。

蛋白質を補うために蛋白質を摂取しなければならないのではない。

わたし達はCreative being - 創造的な存在なのだから
無から何かを生み出すことだって
あるものを全く違う性質ものもに変容させることだって出来るのだ。

思い込みや偏見は一番の自分の可能性への足かせである。
自分のcreativety は、まず自分で「信じる」ことにより、自分をより自由に可能性により身をゆだねてチャレンジしたり、毎日を組み立てていくことが出来るのではないだろうか。
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by totoatsuko | 2008-05-22 13:09 | Comments(0)

自分で作る

マクロビオティックの視点での栄養学を学んでいたら
「蛋白質を動物性のものから摂らないと、栄養的に蛋白質不足になる。特に蛋白質が沢山必要な成長期の子供は。ーというのは必ずしも正しくない。
例えば、
牛や豚や鶏は草(植物性のもの)のみを食べて、蛋白質を含む肉体を作ることが出来る。
それを人間が出来ない訳はない。それに、それらの動物が使い古した蛋白質は、どんなにいい餌で育ったものでも、老廃物も含まれている。」

目からウロコの視点でした。
そうですよねー、草だけ食べて霜降りステーキとあの巨体が作れるんだから、人間の体に出来ないことはない。植物自体に蛋白質はそんなに含まれていなくても、わたし達の体は、取り込んだエネルギーを解体・再組成して自分の体が吸収しやすい形の体が必要な栄養素に転換できる。

それは、心の状態にも置き換えられること。
「なんか寂しい。なんか人恋しい」時
自分に欠乏しているものー自分に対するアテンションだったり、自分の気持ちを受け止めてくれる存在だったり、を出来合いのもの(出来上がった蛋白質)
ー例えば(即席)恋人・援助交際・食べ物・そばにいる人、
によって満たすのは、一見手っ取り早いようで実は効率が悪いし心に優しくない。

自分に欠けているもの、欲しい物を異常にExternalなものだけに依存するのは、本質的に自分の心を満たさないから。誰かに与えてもらったらもっと与えて欲しくなる。自分がハッピーでないのが人や環境のせいだと考えるようになってしまう。

自分が自分の悲しみを慰め、欲しい物を自分で掴み、心地よい環境や関係を自分にぴったりくるようカスタムメイドしていく力は本来誰でも持っているはず。出来合いの蛋白質ー「楽しみ」や「慰め」を購入しなくても。

でも、自分で自分を喜ばせる、自分が自分の夢やいい空間を獲得していくことが出来る、と自分を信じることが出来ない人って、沢山いるんですよね・・・
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by totoatsuko | 2008-05-21 21:25 | Comments(0)

集中力

最近体調が優れないので思考も行動もスローになっています。
今日は、リマ(マクロビオティックの教室)で「先生の助手をするひとの”補佐”」をやる日。
授業がスムーズに進むよう手が足りていないところを見極めて仕事をみつけて隙間を埋めていく役割。何ら複雑でない仕事。

でも、すーごく寡黙になって、一生懸命自分の中心を感じようとしながら作業をしている自分にふと気がつく。体調が悪いから、気を散らしていたり無駄口たたいてたら、体のバランスを失うか、意識がどこかに浮遊していってしまいそうな恐怖を感じて。

自分の「気」を中心にとどめる、って
体調(体・精神)悪いとこんなにも大変なことなのだ、と思う。

世の中には自分の気のバランスが崩れているのにまったく気付いていない人もいる。
そんな状態って、自分にとって正しい・あるいは良い選択がしにくい。
そもそもの「軸」がぶれていたり、よろよろしてるから。

当分、スローで行きます。
この状態が「今の私」のデフォルトだから。
「いつもの自分」を基準にして焦燥感からぶれた決断や行動を重ねる(あとからの修正がすごい大変)より、アウトカムの量はいつもの半分になっても、自分を見失っていない自分らしい毎日を重ねていきたい。
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by totoatsuko | 2008-05-19 21:20 | Comments(0)

ホーム・立ち返る場所

家・立ち帰る場所、ってわたし達の心にとても影響を与えていると思う。

子供達は、平日私と触れ合う時間より保育園で先生や友達と触れ合う時間が長い時もある。
それにもかかわらず、子供にとって親や家が、自分が帰る場所、という概念は変わらない。
家に帰ると落ち着くし、保育園では見せない甘え方をしたり、安心して長時間眠っている。
母親が拠り所である、という事実は、何ら保育園にいかず母親と一緒に過ごしている子供と何ら変わりはない。
そいう事がとても不思議に思ったことがあった。
時間ではないんだな、と。

ただ、帰ってくる「家」の環境が子供にとって安全な場所ではなかったら、、、
それは虐待であったり、虐待とまではいかなくても両親や兄弟とうまくコミュニケーションがとれない関係だったり、家族に流れる空気がどんよりと曇っていたりする理由から。

それでも、やっぱり子供にとっては「家」は「家」なのである。
自分が帰る「家」とはそういうもの。
世界は危険で不快であるもの、という概念を確立していく。
だから、「家」の外の人が、そんな家ばかりではないよ、と教えようとしても、中々理解できない。

アヒルの子供が、生まれて最初にみた鳥を
その鳥が自分といかにかけ離れた姿をしていようとも親と思いこむのと同じ。

それくらい子供にとって、家・親ってその後の世界観・生き方に影響を与える。

虐待を受けた子供が保護されて施設に入り、セラピーを定期的に受けても、ハイパーアクティブな基本的態度は1年くらいは続く。虐待を受けた子供が何故ハイパーになるか?それは、常に家族の中の空気を敏感に読み取り、常に移動して、極力自分の身に危険が降りかかるのを防ぐために無意識に変容したサバイバルのための行動である。また、虐待や辛い思いをしてもその気持ちを引きずらず気持ちを切り替え、虐待による痛い体験をなかったことにするために、確かに感じた心と体の感覚を騙そうと、ハイパーに頭を回転させるのもサバイバルである。

「立ち返る場所」「関係」を経験せず大人になってしまうと、
自分の感覚を信用しないようプログラムしてきた心はとてももろい。
生きていると辛いことっていっぱい出会う。
そんなとき、その気持ちをちゃんと自分で受け止める方法も知らず、どんな場所が自分にとって安全で休まる環境なのか知らなかったら、自分で自分を労わる・休める・傷の手当てをする自分の内面に存在するはずの場所を見つけることが出来ない。
(だから、非虐待者は他者を虐待することによって自分に足りない物を補おうとしたりするのだ・)

音楽心理療法では、安心できる喜びをかみしめる場所があるのだ、という気付き、そして自分のどこどんな状態で存在するのか見つけていく・存在しないのなら作っていく心の作業を行なうこともある。
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by totoatsuko | 2008-05-13 22:44 | Comments(0)

自傷行為の女性がモデル

写真界の芥川賞と呼ばれる木村伊兵衛写真賞を受賞した写真家・岡田敦氏は、自らモデル志願したリストカッターの女性たちを撮影して「Cord」 「I am」という写真集を出版している。

本の帯は「自傷行為をする恋人を助けられるか」と問うている。

ある20歳の女性は全裸で4時間フラッシュを浴び、「ありがとう」と涙を流して帰っていった、と記事にかかれている。

写真家は、「心をかきむしられる現実に目をそむけたくなかった」、とその製作の理由を語る。

私は、よくわからない、と思った。
何十回とリストカットをし、それを隠すために包帯でぐるぐるに巻いている。
洋服を剥ぎ取り、体に出来た傷をさらけだす。

それは、彼女達の新たな自傷行為に思えてならない。
作品のモデルになったことで彼女達が救われたとは思えない。
カメラマンによって、「心をかきむしられる現実」を受け止めてもらえる体験を彼女達がしたとも思えない。

「自傷行為をする恋人を助けられるか?」
大抵の人には「助けられる」訳がない。
そんなに浅い闇ではないのだ。
軽々しく誰かを「助ける」「助けてあげたい」なんていわないで欲しい。
出来もしないくせに。

傷口を誰かにさらすこと、
それは、例えばぱっかり割れた皮膚を冷たい風にさらすようなもの。
痛い・痛い・痛い・死ぬほど痛いはずなのだ。
血液がどんどん流れていって、気を失ってしまうほどなのだ。
でも、彼女達(女性に限らないが)は「痛みを感じる」ことでしか、生きていると感じられなくなってしまっている。自分を守る、とか自分が気持ちいい、というものは逆に危険で、常に自分が「死ぬほど」痛い、と感じていないと、生と死の境目にいないと生きていられない、そんな生き方をしている人に私は沢山出合った。

本人たちの日常作動している意識は、そういう崖っぷちの状況に自分で自分を追いやっている、という自覚がないけれど、サイコセラピー・音楽心理療法の中で対話を続けていると、ある日、自分の無意識に気付く。

痛くないと生きている実感がない。
でも「痛い」といちいち感じていたら生きていけないので、痛みは無意識層へ追いやる。
でも、意識は「痛み」を追い求める、生きている実感が欲しくて。
その繰り返し。

ヌードになり、自分の傷を全てさらけ出し、撮影が終わると「ありがとう」と涙を流した女性。
痛々しくて目をそらし、誰も自分の事をみてくれない世界に生きている中、自分を見てくれた・作品に残してくれる人が存在するのを感じて、涙が流れたのかもしれない。傷が訴えている自分の心の叫びを受け止めてもらえた、と感じたのかもしれない。

だが、あくまでも、カメラマンは彼女を「自傷行為をした人・自傷行為の生々しい傷を携える人」として捕らえている。傷とは関係ない、その女性そのものを撮っているのではない。もしかしたら、自分の傷をさらすことにより人の目を引く・という自傷行為をしたんだ、と撮影が終わって自分で気付き、その選択にさらに傷つく人もいたかもしれない。

この撮影のモデルになる、という体験を通して彼女達の心の傷はけっして癒されない。
「ありがとう」という涙が、決して言葉どおりのものではないかもしれない。

私はここでカメラマンや作品を批判したいのではなく、伝えたいのだ・彼女達が撮影を通して、あるいは自分の傷や、自傷行為の証拠が作品になることによって、心の闇・怒り・悲しみ・やるせなさ・絶望感の色合いが明るくはならないと。

カメラマンの意図「心をかきむしられる現実に目をそむけたくなかった」というのが、勇気ある・あるいは美しい姿勢だ、という見方しかできないのは浅はかだと。

自傷行為をする人の心を分かったふり、わかろうとした振りをするべきではない、彼らの代弁者になれるなんて恐れ多くも勘違いするものではない。





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by totoatsuko | 2008-05-08 08:55 | Comments(0)
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