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カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

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かまきり 誕生

d0065558_10563961.jpg以前ご紹介したかまきりの卵から満を期してでてきました、うじゃうじゃと。
これからどんな人生を歩むのでしょう。
数ヶ月のあいだ薄暗いところですごした卵から孵化した幼虫、太陽の光をいっぱいに浴びています。

生まれたて、ほやほやです。
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by totoatsuko | 2008-04-30 11:01 | Comments(0)

浮遊

都会の夜が始まろうとしている
そんなにおいのする街を一人で歩く。
こんな時間は滅多にない。

空を仰ぐごとに、その色は濃くなってゆき、オフィス街の無数の窓が際立ってくる。
どこにも属さない自分を感じる。
娘でも、母でも、妻でも、セラピストでもない私は、存在の意味を持たず浮遊する。
ただ浮遊する。
誰も私を待っていないし、私も誰かを待っていない。
時間の制限も場所の壁もない。
不思議な感覚。
日常の対極。

何にも属さないことによる、体の軽さと不安定さ。
存在意味がないことによる、自分の透明感。

道行く人は、誰も私を知らない。
だからこそ誰にでもなれそうな錯覚。

やがて夜は深まっていき、日が昇る前にそっと日常に滑り込む。
家族の寝息。
浮遊していた私の体は、もう既に日常の匂いを吸い込みしっかりと重みを持っている。
子供が眠ったまま私の気配を感じて体をすり寄せてくる。
窓の外が明るくなってきた。
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by totoatsuko | 2008-04-29 01:08 | Comments(0)

Oral phase

依存的な満足を求める傾向。
人間でいえば、赤ん坊の人とのかかわり方がイメージ。

過度に甘え、関わる人に全てを依存して、与えてもらえるれる事に対する喜び。
何でも口に入れ、噛んでみて、食べる、吐き出す、という貪欲な欲求。

食べられないものを一度口に含んでから吐き出す。
-外界のものを、飲み込まず、租借せず、吐き出す傾向。

永遠に満たされない。永遠に満足しない。
それは、「満足感を感じること」よりも「与えられること」に執着しているから。

赤ん坊の時のこの行為は正常だ。
赤ん坊は、この時点では自分では何も出来ない。
だから、心と体の成長に必要な「自分が世界の中心」的な状況をつくりだし、
相手に自分が必要な物を察知するよう促す。
愛情や、食べ物、スキンシップ、排泄や生理的なニーズ。

口や舌はとても敏感で、ここの感覚を利用して、世界を知っていく。

この時期のプロセスに何か問題があったら、大人になってから、self-careや人間関係とか愛情に対する概念とかに支障をきたす、というのはフロイトの説。この人たちの中にはアルコール中毒の割合が高い、というデータはよく知られている。

どんなに愛されても、愛され足りない、と感じてしまう。
どんなに与えられても、もっと欲しいと思い続ける。
自分で自分を満足させる、喜ばせる事ができると考えられない人。
自分の喜びを自分でcreateすることが可能だ、
あるいは、そのプロセスを楽しい、と思えない人。

体は成長しているのに、赤ん坊の心理状態にスタックしてしまっている。

自分が何もしなくて欲しい物を全て与えてもらえる王様のような状態もたまには心地よいけれど、成長したわたし達の欲求は、赤ん坊の単純なそれとは比べられないほど複雑化しているので、王様状態で真に誰かに満たしてもらって生きていく、というのはどんなに望んでも不可能なのです。
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by totoatsuko | 2008-04-25 09:52 | Comments(0)

野草満載

d0065558_13321068.jpg前日思いたって週末10人くらいで山梨へプチおでかけ。イチゴ狩り、野草狩り、温泉に入って、ほうとう鍋・手打ち蕎麦でしめ。
帰りの高速がちょっと渋滞していたのは△だけど、田舎の空気を吸ってステキな一日でした。

イチゴハウスの中で子供達が蜂の巣をみつけて、キャーキャー大喜び。
スゴイ!蜂とオトモダチになれちゃうんだ、と思いました。
ぶんぶん飛んでる中に入っていって蜂と一緒にはしゃいでいる感じでした。

時々園児が遠足に行ったとき蜂にさされて重態、というニュースを聞くけれど、あの週末の子供達が発していたオーラは蜂にとって危険なもの、と察知されなかったのか。よかった、まだ自然の生物と共生できる何かを失っていなくて・・・

ハウスの周りの野原には、よもぎやつくしなどの野草やたんぽぽも生えていて、
子供たちがせっせと何も根拠をもたず集めては私に届けてくれました。

たんぽぽの葉っぱは天ぷらに、
ヨモギはお団子に、
つくしはきんぴらか炊き込みご飯にしたら美味しいんだよねー、
なんて私は下心を持ちながら受け取ってましたが。

だから今週の食卓は、フレッシュな春の香りとエネルギーが満載です。

おまけは、かまきりの卵。
って、どんなのか想像できる人って少ないんじゃないかしら。
写真が、それです。
「時」がきたら、このからをやぶってわんさか超ミニな蟷螂が出てくるはず。
ドキドキ・・・

子供の頃大量のおたまじゃくしを自分が過去使っていたベビーバスで飼っていたときの事を思い出す。(=ある朝大量の脱走カエルが出現)

GWのお出かけスポットはどこも混んでいるから避けるべし、だけど
また行きたいな、人がいない(都心近郊)のんびり田舎。

おススメの秘密の場所あったら教えてください。
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by totoatsuko | 2008-04-22 13:36 | Comments(0)

精神安定剤

d0065558_2230597.jpgある人が、
「子供って精神安定剤、いらないでしょ。
おかぁさーーん、って泣いて駆け寄ってきたのをぎゅぅっと抱きしめてあげていれば
次第に嗚咽がゆるやかになり、泣き止んで、
また社会の中へ駆け出していく。」
と言った表現が心に残っている。

赤ちゃんって、自分と母親(おっぱいをくれる人)が異なる人間だ、という認識が芽生えていない。一方で、自分の手足も自分が意思を持って動かせる自分の物、という認識もない。
自分自身も混沌だし、自分以外のものとの境界線がすごくあやふや・というか無いに等しい。

赤ちゃんが数年成長した子供も、大人と比べれば境界線・boundaryーバウンダリーははっきりしていない。例えば、友達(という概念すらあやふや)が持っているものが欲しかったら、相手のバウンダリーを無視してぶんどったりしてしまう。

大人同士だったら、そういうやり方は明らかにルール違反と分かっている。
お互いの境界線を尊重したやり方は、例えば相手に相手が持っているものはステキだと伝え、貸してもらえるか・あるいはどこで購入できるか尋ねる。尋ねる時も、相手が何かやっている最中ではなく、邪魔にならない時を見計らって声をかける・

相手の空間や時間、テンポというバウンダリーを尊重しながら
自分の思いを伝え、相手の思いを受け止めるやりかた。

話を元に戻すと、
バウンダリーがはっきりしない子供(ここでは幼稚園以下をイメージして書いています)は常に精神不安定である。
それは病気ではなくて、子供特有のもの。
ちょっとしたことで最高にハッピーになって、最悪に落ち込む。
傷つきやすいけど、立ち直るのもはやい。
それだけ心が柔らかでスポンジのように全てを吸収しすぐ吐き出せる。

お母さんの腕の中(子宮内に戻る疑似体験?)に収まることによって、
お母さんの声や体の鼓動・波動・温度・柔らかさから自分に必要なエネルギーを吸収したら
最悪な事件からも立ち直れる。
理屈で「-な風に考えたら?」とかアドバイスする必要はない。
Non-verbalで包括的に効く副作用のない精神安定剤。

人間が成長しバウンダリーという意識が生まれるにつれ、お母さん(あるいは自分以外の他者)は無条件に自分の心に安定をもたらしてくれる人間ではなくなってくる。お母さんに対する見栄だったり、色々な理由で。それで、自分の心をケアする手立てを見つけられたらいいのだけれど、生きていると色んなことがあって、トラウマ的な体験(それは事件のような物だけでなく、低温やけどのように緩やかだけど継続的に確実に奥深くまで細胞を壊す出来事の積み重ねであったりもする)をするとPTSD(Post Traumatic Disorder)なども含む、心の不安定が生まれたときに、どうしたらいいか分からなくなってしまうのだ。

そこで、抗鬱剤・睡眠導入剤 という人間的な利害関係がなく作用してくれる薬をいただく。
バウンダリーを持った大人同士では、どんなに親しい相手でも、自分を子宮の中に取り込むような傷の手当てはできないし、自分も全てをなげうって子宮に戻ることは出来ない。(いや、自分は出来る、と思う人はバウンダリーやセルフイメージがきちんと認識されていないると思う。)

乳幼児期に家族から精神安定剤を受け取ったことがない人は、
大きくなって自分を慰め・励ますことがうまくいかなくなったとき、
自分の自分で自分を支える事が出来る、って思えないかもしれない。
化学調合物しか、自分のものでないような自分の思うように行かない心をコントロールすることはできない、と。
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by totoatsuko | 2008-04-21 22:03 | Comments(0)

GIMと雅楽 II


GIM(音楽心理療法のテクニック・スタイルの一つ)で使われる音楽は主にクラシカルミュージック -俗に言うクラッシックである。
これまでGIMセラピストの間で様々な音楽
-Jazz, pops, 中国のオペラ など
の可能性を試してきたが、アーキティピカルな音楽でクライアントの心理プロセスを促す物はクラッシックと分類されるものの中に最も多く存在している、という結論が今のところ出ている。

GIMによるイメージは、ある特定のイメージを見るための誘導が目的ではないから、directiveだったり、ただただ反復だったり、あるいは揺れすぎる曲は合わない。

日本に帰国して日本人相手にGIMセッションをやるようになって、
日本人が生み出すイメージにより多く触れるようになって、
日本の神話ーアーキタイプの源や民族学みたいなのに興味を持ち始めたところ、
陰陽学と雅楽、という繋がりに出会い、
そうだ!雅楽はGIMに使えないだろうか、と思い立った。
雅楽のサウンドは、アーキティピカルな要素を持っていると感じるし。

結論から言うと、まだその答えは出ていない。
そうとう勉強しないと出そうにない。
雅楽にはいくつかの拍子の類型(それがどんなものかまだ私は知らない)があるのだが、曲によってメロディーは違うが、拍子の型に当てはめて演奏されるのが、素人にはどの曲も同じように聞こえる原因となっているらしい。

面白いのは、雅楽においては、一曲一曲がドラマティックに他の曲と差別化できる「個性」を持つのが大事なのではなくて、より大きな類型に当てはまることを優先させている、と言うのだ。
また、季節によって、曲を移調して演奏する・他の西洋音楽のようにこの曲は何調で演奏しなければならない、というのがない -環境に合わせて自分の色を変えるのが前提。


凄く日本人的ではないか!
日本人に内在する普遍的な要素は、雅楽から学べる物がとても多いかもしれない。
そう気付くと、とてもexcitingな気持ちになった。
なにかまとまった理論を構築するには数年以上を要するような大きなプロジェクトだけど。
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by totoatsuko | 2008-04-15 22:00 | Comments(1)

GIMと雅楽 I

GIM(Guided Imagery and Music) -音楽「心理」療法のテクニック・スタイルの一つでは、セラピストがクライアントの心理プロセスを促すであろう音楽をCDプレーヤーなどで再生し、クライアントは変遷意識状態に入り、深層心理が反映されるーあるいは自分の深層心理が創るイメージを追っていく。

背伸びして例えるなら白昼夢を見ている感じ。

ユングは、夢は深層心理からのメッセージだと言い、深層心理を探るのに、各種の神経症を治療するのに夢分析という手法も使った。

GIMセッションでの音楽を聴きながらイメージを見るのは、夢を見るのに似ているが
決定的に違うのは、そこにセラピストとセラピストが選んだ音楽が存在すること。
セラピストは夢ーイメージのWitness/目撃者であり、記録者であり、
音楽とセラピストは、クライアントのイメージプロセスのサポーターでもある、ということだ。

夢は忘れてしまうことが多々ある。科学的には、毎日見ているはずなのだけど。
それくらい、わたし達の意識は、無意識からのメッセージ(=夢)と対話をすることに慣れていない。無意識の層には相当な量の自分の見たくないものが蓄積されているはずなのだけど。

GIMセッションでは、セラピストがクライアントに今どんなイメージを見ているか尋ねたり、自主的にイメージの展開と同時進行で話してもらったりして、ノートに記録する。そして、クライアントがそのイメージを150%感じられるよう手助けする。

例えば、クライアントが「草原にいる」と言ったら、それ以外に気付くことはないか尋ねる。
例えば、草原で何を感じているのか?大地は湿っているのか、どっしりしているのか?枯れているのか?風はあるのか、匂いはあるのか?暑いのか寒いのか。他に生命は存在するのか?
など。

ただなんとなく生きている人ほど、草原に立って、何もかんじていない
-というか自分が何を感じているんだろう、とか感じる物がある、という視点を持たない。
日常で、自分が生きている環境が自分にとってどんな状態なのか、という視点を持っていなかったら、イメージでもそういう視点から草原を捉えられない。

逆を言えば、イメージ体験で、自分の感情や環境にawareに「どうやったら」なれるのかを学ぶと、おのずと日常の見え方・生き方も変わってくるのだ。

###
予定外にGIMのイメージ体験とは何か、という話が長引いてしまったが、今日はGIMで使われる音楽の事を書きたい、と思って書き始めたのだ。
(続)
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by totoatsuko | 2008-04-15 21:58 | GIM:音楽と深層心理イメージ | Comments(4)

ヒーローになりたかったII

こちらが、子供の動作をみて分析したり、行動や思考を誘導したりすのではなく、
ただただ子供のありのままの姿を受け入れ、子供の意欲の芽を大事に汲み取り、子供がそれを自分で伸ばす環境を整え、必要なだ相棒となってセッションの時間を過ごす。

セッションという時間と空間以外は制限のない環境で、
子供は最初は不安に思いながら、でも少しづつ色んな可能性を試す。

例えば、セラピストに自分の母親や父親を投影・プロジェクションしていたら、子供は怖くて木琴を好きなようにガンガン叩く、ってことが出来ない。
さいしょは叩くのすら躊躇うけど、木琴の誘惑に負けて、
セラピストの顔をちらっと見ながらポンッ、っと叩く。セラピストは怒らない。

おかしいな、お母さんや周りの大人の場合、ここら辺で眉がぴくっと動くのに。
よし、もう一回叩いてみよう、もうちょっと大きな音で。ポポーン。
セラピストは身を乗り出してきた、叱ろうとする、というよりは、好奇心の目を輝かせて。
ボクの音に興味あるのかな?

ポン。セラピストがボクが音を出した同じ瞬間音を出す。
あれ?大人って、ボクの出した音をもっとステキに聞こえるような(かき消すのではなく)
音を出して(関わって)くれることってあったっけ?
###
そんな感じで、この子供の世界に対する思い込みを遊びの中でいっこづつ確かめる・殻や膜を破っていく作業。日常に帰った子供は、セッションルームでやったのと同じような事(自分が思うことを素直に行動に移してみる、話してみる)をやってみて、セラピストと違う対応をする大人を今までと違う視点で見る。

今までは、大人は絶対だった。音を出す自分が間違っていて、それを咎めるやくが大人だった。
大人に対してびくびくしてなくちゃいけなかった。
でも、子供はふと立ち止まる、どうしてこの大人はボクを叱るんだろう?
セラピストと何が違うんだろう?
自分はいつもいつも間違っている訳ではない、と心から思えるようになって初めて大人に尋ねることが出来る「どうして怒ってるの?」「何が間違っているの?」
そう問われても、頭ごなしに怒る態度を変えない、子供の変化を汲み取れない大人はたくさんいるだろう。でも、そうでない人もいる。子供の質問にはっと我に帰る。何でこんなに怒ってるんだろう?自分がイライラしてて、子供を利用してそのはけ口にしてるだけじゃないかって・
あるいは、それほどまでに「禁止」しないといけない行動なのか、と。

ヒーローになりたかった、という彼。
それは、ヒーローが繰り出すスクリーン上の世界とヒーロー像にあこがれるだけで、
等身大のヒーローの喜びと悲しみを味わったことがないから、
無茶な手段を選んででも「あこがれの」「彼が理想とする」ヒーローを演じたかったのかも。

本当のヒーローは一夜にして生まれないのだが。

なんでもそうだけど、
隣の芝は青く見える、
傍からみたらすっごくよくみえる物が、
傍観者と当事者が同じように感じる物とは限らない。

タイヤを直してあげた後、女性を食事に誘ったり、体を要求するあたり、ヒーローの本質は全く分かっていない。だけど、いままで自分の気持ちを相手に伝えるとか、自分の欲求を人との関わりの中で現実化していく練習をやったことがなかったら、しょうがない。

言い換えれば、彼は「ヒーローになりたかった」というのは、
自分を見てもらいたかった・評価してもらいたかった・人生を世界を軽々と自分の思い通りに動かしてみたかった、という事なのかもしれない。
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by totoatsuko | 2008-04-15 11:45 | Comments(0)

ヒーローになりたかった

高速道路のパーキングエリアにとめられた女性の車のタイヤのボルトを緩めて、
女性が休憩から戻って運転を始めたらタイヤがはずれてどうしよう!といところに、さっそうと現れてボルトを締めて直してあげて、代わりに「体で払え」とか「ごはん一緒に食べましょう」というのを繰り返していた男性が逮捕された、というニュースをみた。

ヒーローになりたかった、というのが動機らしい。

このひと、子供の頃ヒーローごっこしたりなかったのかな?
とふと思う。

ここ数ヶ月、毎晩欠かさず布団の上で息子にウルトラマンごっこを、けしかけられる。
何度も何度も何度も繰り返す。
色んな役(ウルトラマン ママ・怪獣・ウルトラのちち・ウルトラマン太郎)になるし、ならされる。
助けたり、助けられたりする。
面白いのは、自分が助けてもらいたい時は、
「やられたー」と私に押されてごろんと倒れ、
「大丈夫かっ!、って、言ってー」と要求してくるし、
助けたい時は、「やられたー、って言って!」(やられたぁー)
「大丈夫か!ボクが助けてあげるぞ!手をのばせ、握手!」
と、自ら体験したいシーン(感情体験)をプロデュースすること。

子供ってわかってるんだなぁ、って。
今自分に必要な気持ちの体験って何なのか。
それを、安全な場所・関係で繰り返してinternalizeしていく。
(実際、TVのウルトラマンみたいに地面がゴツゴツした所で、
信頼できない相手=怪獣と戦ったら、本当に殺されてしまう。
感情体験・肉体体験のみでは済まされない。)
助けてくれ!と言ったら助けてくれる、と確信できる相手・
助けてやるぞ、と手を差し伸べたら、
それを逆手にとって攻撃してこずに、素直に有難う、という相手。

遊びって、偉大だと思う。
イマジナリーワールドの中で、世界の縮図を生きている。
世界にはばたく予行演習をしている。

子供とのセラピーでは、プレイセラピーでも、アートセラピーでもユングの箱庭でも、音楽療法でも、「ただ一緒に遊ぶ」「こどもの遊びを見守る」ということをひたすらやる場合がある。
(続)
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by totoatsuko | 2008-04-15 11:44 | Comments(0)

失うことで生まれるもの

ひきこもりだった子供が、両親の不和・離婚によって、これまでの生活を失う。
もうこれからは自分で自分を守る物を探さないと、自分で自分の道を歩かないと、と覚悟が決り、学校にある日突然行くようになる。

お嬢様・とちやほや大事にされて育てられ、そういう他人に作られた仮面を意識することなくつけて生きてきた人が、ある日万引きをしてつかまり、勝手に大きくなっていたプライドも他人からの褒め言葉も失ったとき、初めて自分はどうやって生きて行きたいのか、真剣に考える。

大事な大事な人を失って、もう生きていけないと思うどん底から抜け出すと、
大事な人によっかかっていた自分を発見し、それがどんなに自分にとって大事な体験だったか心から感じ、その体験をこれからの人生に繋げていく一歩を踏み出す原動力となる。
例えば病気や環境や紛争に関わるNPOを立ち上げる。教師や医療従事者へなるべく勉強を始める。

病気で、計画していた人生の目標を断念しなくてはならない状況に落ち込まれたとき、それまでの自分(目標に向かって邁進している自分)では思いつかないようなcreativeな人生の指針・意味を見出す。

アルプスの少女ハイジの話の中では、体が弱くいつも車椅子で移動するクララというお嬢様が登場する。都会のお屋敷での生活を失い(この場合、そんなに痛みは伴っていないが)
全く新しい世界に属し、山の上の綺麗な空気と育ての親とは全く違う人間達と触れ合う。
それでもクララは都会にいた時のように、人が自分をケアしてくれることを望む。
歩くリハビリをしても、一定以上は歩けない。
本当は元気だったら私はもっと自由なのに、と言いつつも、
ひ弱で歩けなくて、誰かがケアしないといけない私に個室している。自分が世界の中心にいるように感じることが出来るから。本当は、一人では何も出来ない裸の大様なのに。病気を(無意識に)だしにして生きてきた自分のアイデンティティーを失うのがものすごく怖かったんだと思う。自分がひ弱じゃないと、誰も相手にしてくれない、と無意識に信じ込んでしまっている自分。

ある日クララはハイジを怒らせてしまい、誰も自分の車椅子を押してくれなくなって、広くて自由なはずだった広大な自然、呼べばすぐ来てくれる大好きなハイジとその仲間達を失う。
「お嬢様」で、呼べば誰かがすぐくる自分では、生きられなくなった。

そして、必死に一人で歩く練習を始める・自分一人で!
そして歩けるようになる!
今までお医者さんなど専門家にケアされても全くよくならなかった足なのに。


「失う」と文字でかいても、実際失うときに体験される心の痛みは伝わってこない。
上記のように記述しても、痛みは感じ取ることが出来ない。
それほど痛くて、辛くて、どうしようもない絶望的な感情体験。
二度と体験したくないもの。ほんとうなら、一度だって体験したくない。

だからこそ、もの凄いエネルギーが秘められているのだ・その体験には。
痛さが想像できないとの同じように、そこに存在する次のステップに繋がるエネルギーの埋蔵量は想像できない。

それゆえに、そのエネルギーとの関わりがうまくいかなかったとき、精神的な病のスパイラルに巻き込まれる可能性がある。あるいは、過去の喪失とちゃんと向かい合っていなかったら、過去の喪失で出来た傷口と今膿をだしている傷口が呼び合って、2倍以上の深くて大きい傷に発展してしまう。

失うことは辛い。自分の一部が、あるいはほとんどが死んでしまうような体験。
だから誰も自分の大事な物を自らの手で切り捨てようとはしない(する必要もない)。
でも、運命によってそれらを失わなくてはならない・失ってしまった時、それはチャンスでもある・
これまでの自分には出来なかった生き方や・感じ方をするための。

言い換えれば、その痛みが痛いほど、
その痛みとちゃんと向き合ってあげれば、
ひきこもり(外部から隔離された暖かい羊水で満たされた薄暗い子宮の中に戻り)
時がきたら、まっさらな状態の赤ちゃんとして生まれ変わることが出来る。

お母さんやお父さん、その親の代、そして生きている環境・時代の影響を子宮の中ですでに受けて赤ん坊が生まれてくるように、わたし達も喪失・自分の一部の死やそれ以前の体験は、ひきこまりから外へ出る気持ちが生まれたときにはすでにインプットされている。

それらを元に、新たにまた人生という旅を始める。
加齢とともに選択肢が狭まっているように見えた世界も、全く違う色合いみ見えるはずだ。




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アメリカ発 幼児のための音楽教育 Music together @ 代々木上原クラス 無料体験 受付中。
マクロビおやつ付き。
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by totoatsuko | 2008-04-15 10:31 | GIM:音楽と深層心理イメージ | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


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