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プロフェッショナルであり生身の人間でありI

d0065558_1304788.jpg最後の投稿からあっという間に1週間がたってしまい、気づいたら3月最終日。
4月になる明日からは、子供達が新しい保育園に通うことになっていて、
週末は今まで通った保育園で卒園・進級・お別れ会が催されました。

よく出来た園での様子・子供達の成長を捉えた20分のビデオクリップも流され、
日本に帰国した暑い夏の入園日からのおよそ1年半を感慨深く振り返りました。
ほんとうに大事に大事に育ててもらったなぁ、と心から感謝。
そしてよく元気に育ってくれたなぁ、と。

人間が出来る根っこの部分に長時間関わる保母さんの仕事って、本当に尊くて、日本の将来を担っていると思いました。保母さんがいるから働き続けられるし、子供を産むことが出来る、という女性は少なくないはず。


話は変わりますが、
先週は、ケアに関わった子供が亡くなった後のお母さんとのかかわり方について看護士さんと話をする機会がありました。

患者さん(この場合子供)が退院してしまったら、病院のスタッフは基本的に患者さんと連絡をとる理由がない。それは業務内容に含まれていない。どんなに気にかけていても。

でも、何かしたいと思う。
お子さんを無くして落ち込んでいないか?
何かヘルプが必要でないか?
わたし達に励ますことが出来はしないか?
退院したからって、何もしないことに罪悪感すら覚える人もいる。
もっとーしてあげればよかったんじゃないか、って振り返って思うことをお母さんや家族に伝えたい、と思ったりもする。

・・・・・
病院では医師・看護婦、という病気のケアのプロフェッショナルとして患者さんと関わる。
そこに、どんなパーソナルな感情交流があろうとも、どんなにパーソナルな信愛感がうまれようとも、「ケアのプロフェッショナルと患者」という枠・あるいはバウンダリー・境界線が前提にある。
患者さんと病気の治療以外の理由で連絡をとる、ということは、このプロフェッショナルな関係から一歩はみ出る、あるいは典型的なプロフェッショナルな関係の形を変容させている、と言える。こう言い放つと、何だか冷たい感じがするけれど、まずこれが基本的な事実。これを否定したら、お互いの境界を無意識の内に侵害してしまって、いい関係は築けない。

誤解しやすいのは、このバウンダリーがあったら、親密な信頼関係が築けないんじゃないか、という懸念。そんなことはない。お互いのバウンダリーを尊重するからこそ、いい関係が築いていける。

書き始めると、このテーマ長くなりそうな予感。
ちょっと時間切れなので、続きはまた後日。
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by totoatsuko | 2008-03-31 10:40 | Comments(0)

家庭内の意見の相違 III

ちなみに私の両親は当時、幼い私からみて全く考え方の違う人たちだった。

例えば、毎日365日・遠足でどんなに疲れて帰ってきた日でも、母が横についてピアノの練習を最低2時間小学校の頃はやっていた。高校くらいになると、6時間くらいは弾いていた。

私に面と向かっては言わなかったけど、父はそういう行為が「気ちがいだ」と誰かに言っていたらしく、周り巡ってわたしの耳に入ってくる。父は「音楽バカ」になる、と母のやり方を理解しようとしなかったけど、私の前でそれについて激しい言い合いをすることもなかった。

あ、一度クラッシックのコンサートに時々わたし達が行くのを、
ある日父が「そういう遊びをするより、もっと時間とお金の使い方あるだろう」と言ったら
「これは遊びではありません。音楽の勉強の一環です」と母が言って、沈黙。
それ以上の会話が起こらなかったけど、両親がこの点についてお互いの考えに不満、あるいは合意がなされていないのを感じるには、子供には十分なやりとり・空気だった。

お互いの教育・育児に対しての哲学を伝え合うこともなく、なんとなく正面衝突を避けながら、父親役や母親役を自分たちなりにやっていたんだろうな、という印象(ちゃんと確かめていないので、真実は分かりませんが)。

私はというと、毎日ピアノをどれくらいの時間練習することが「普通」なのか、という発想すらなかったし、自分の生活スタイルが人と比べてどうなのか?と考えたことが(たぶん)中学くらいまでなかったから、父親が家庭の中で蚊帳の外っぽい存在だ、というのも、肌で感じていたけれど、「蚊帳の外」という言葉を当てはめるほど、頭や理屈で家族や両親の関係のダイナミックスを理解してはいなかった。

(そして、何で自分はピアノを弾きづつけるのかも、ある時点まで考えたことがなかった)

勿論、そういう家族のダイナミックスが自分の心理にどういう影響を及ぼし続けていたか、なんて将来自分がサイコセラピーに行くまで気づかなかった。

こう書いてみると、本当に親の影響って凄いな、と思う。
特に小さい頃のものは。
だって、自分の状態を「疑う」「吟味する」って発想がないから、
与えられている環境が自分にとってはあんまりいい状態じゃないんじゃないだろうか?
って考えてみたり、
与えられた環境を変えよう、という発想もない。
たとえダブルメッセージを常に送られて混乱の連続が引き起こされている状態でも。

例えば、虐待(セクシュアル・フィジカル・エモーショナル)・ドメスティックバイオレンスな関係の場合、例えば母親はひどく子供を傷つける・もう絶望のどん底に、目の前が真っ暗になるくらい。でもその5秒後に、ぎゅっとだきしめて、「ごめんね、もうしない。あなたは私の宝物。素晴らしい子供よ。」とやる。そして、また数時間後に罵倒する。典型的なダブルメッセージ。
さらにたちが悪いのは、父親が「お母さんはひどい奴だ。」といいつつも、お母さんからの攻撃から完璧に子供を守ってあげなかったり、そもそも別居しないという行為が、子供に対してダブルメッセージになる。

守ってくれる、って言ったのに
お母さんはひどいやつだ、って言ったのに
いつお母さんに襲われるか分からない状況を変えようとしないのは何故?
お父さんのいう事もお母さんのいう事も、信じるのは危ない、
でも、何を信じたらいいの?
って。

子供は無意識的に与えられた環境で生き抜くために自分を成型し、整え、崩し、また作る。
無意識的にその環境をつかさどる親や先生が気に入らないことは何か、喜ばせることは何か学習し、悪い状況を回避しようとする。
大人になるにつれて、その思考・行動・感情反応などがFixされてくる。
それは「親」との関係が変わった後も変わらず続いていくものである。

それは、例えば、虐待を受けた子供が、虐待する人になる確率が高い、という研究結果として証明される。ダブルメッセージを送り続けられ、混乱の中でサバイブするために身につける技。あんなに虐待されるのが怖くて・思い出すだけで吐き気がするのに、同じ事を繰り返してしまう、少なくともある時点で過去の虐待経験をみつめ、その頃傷ついた自分をケアするプロセスを行なわない限り。

家庭内の意見の相違I・II を書いている時から時間を隔てると、マインドも動いて、随分論点がずれてしまったこと、お許しを。
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by totoatsuko | 2008-03-24 17:26 | Comments(1)

アートを使う心理療法士

ふと思いたって、アートを取り入れて心理療法をする人をネットで検索してみたのだけど、
セラピストの全員がページを持っているわけではないし、私がうまく見つけることが出来なかっただけ、という要因もありますが、
なかなか思っているスペックを持った人が上がってこなかった。

私の思っているスペックとは
カウンセリング
ークライアントの話を聞いて、受け止めて、クライアントが辛い状況の毎日にスタックせず、前へなんとか回していく、というのが基本的な目的
ではなく

私がやっているような、
人の深層心理を言葉だけでなく、色や音を取り入れて、
今の自分がどうしてそうあるのか、
何処からきていて、
何処に向っているのか、
感情や魂のレベルまで扱う人。

アートセラピーやってます、という人のページの多くはよく読んでみると
あなた(クライアント)が書いた絵をリーディングします(=あなたの深層心理を当てます)、
というタイプが多くて、
私の
セラピストは絶対にクライアントを分かり得ないが、クライアントの必要な心のプロセスを促すー描いた絵を自分なりに解釈する・絵から自分の内面からのメッセージ汲み取る「手助け」はできる、
というスタンスを表記している人がなかなか見つからなかった。

探していただけに、ちょっとがっかり
& 日本では、
クライアントの自分で道を切り開いたり
自分で答えを見つける
クライアントが自分で自分の痛みを癒すエネルギーの源を探していくプロセスを
セラピストが「手助け」をする、
というスタイルはまだまだマイナーなんだな、と実感したのでした。
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by totoatsuko | 2008-03-20 23:09 | Comments(1)

家庭内の意見の相違 II

もうひとつ大事なのは、その場その場の子育ての主導権は誰なのかを子供に対してはっきりさせること。食事の場、勉強の場、学校の場、課外活動の場などなど。

子供はさまざまなシーンで子供に関わる人すべてから影響を受けている。
でも、会社の社長が誰なのか明確に提示されていなかったら、会社の方針も哲学も分からなくて社員は路頭に迷ってしまうように、幼い子供は困ってしまう、色んな人に異なる「-するべき」「-は正しくない」言われたら。しかも子供は、まだ自分の信念とか哲学を持っていないから、迷った時に、最終的に自分の価値観を信じる、というのが出来にくい。大人の異なる意見に翻弄されてしまう。誰を精神的拠り所にしていいか分からなくなってしまう。

会社を家族に、社員を子供に例えると、
取締役会でどうしても合意が出来ないとき、どうするか?
誰が、最終的な決断をくだすのか?
トップがまとまっていなかったら、下はついていかない・いけない。

あるいは、自社の社長とは全く考え方が違う、他社の社長ー例えば祖父母。
もしかしたら、他者の社長の方が社会的に評価されているかもしれないが、自社の社員を抱え・責任を持っているのは自社の社長。他者の社長に自社の社員が呼び出される筋合いも、自社の哲学を批判される筋合いはないと思う。もちろん、お互いの会社の事を心から気にかけている仲なら、社長同士で最近の現状について相談・対談、というのはアリだと思うが。
社員の前で、トップ同士が中が悪い・お互いの意見を批判しあう姿を見せる意味はあまりないように思える。

夫婦も祖父母も他人同士だから、意見が異なるのは当たりまえ。
どんなに話し合っても合意できない場合もある。
でも、大事なのはみんな子供の事を大事に思っている、という共通点を忘れないこと。
自分の考えが正しい、と押し通すのは真に子供のためではない、ということ。

繰り返しになるけれど、
おとしどころを見つけるのって、相当なエネルギーを消費する。

でも誰が社長なのかみんなの中で合意できたら、子供の前でいがみあったり、ダブルメッセージを送ったり、誰かを悪者に仕立ててしまうのはなくなるのではないか。

取締役がそれぞれ違う考えをもっている、というのは、いちいち子供に言わなくても、相応の年齢になると子供って察するもの。そうなったときに、意見が違っても、意見が違う相手を攻撃しなくても・無視しなくても、相違を明確にしてもいいダイナミックスが作れるんだ、というのを背中で示してあげれるのも、大事なことだとも思う。
(続・の予定)
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by totoatsuko | 2008-03-14 13:18 | Comments(0)

家庭内の意見の相違

hirokiさんのコメントに返信を書いていたら、とっても長くなりそうだったので、新しい投稿として書くことにします、あくまでも私の「個人的な考え方」を。

子供にダブルメッセージ
-相反するメッセージを同時に発する
のは確かによい影響を導かないだろうと思います。

例えば、お父さんはテレビゲームするのOKでお母さんは一切ダメ、というスタンスだったら
お母さんが留守の時に反動でずーーーっとテレビゲームやっているかもしれないし、
両親がいる前で、あえて「TVゲームしたい」と言って、両親のケンカを引き起こし、誰かを悪者に仕立てて、テレビゲームがしたい自分への批判をかわしたり。親のどちらかがキレてTVゲームする時間を最終的に 獲得したり。

子供って賢いから、大人の意見相違のダイナミックスを利用して自分の欲しい物を手に入れようと、言葉は悪いけどずるがしこく立ち回ることを覚える。将来ポリティックスに強い人に育つかもしれませんけど。

子育てに関してパートナーや祖父母と自分の考えていることが異なった場合
私はその相手と時間とエネルギーをかけて話そうとします。1回だけじゃなくて、何度か。
自分が正しい、相手が間違っている、という言を証明するのが目的ではありません。
相手がとりあってくれなかったら、なかなか難しいのですが、その場合もなるべく諦めず、相手にそういう時間をとってもらうよう努力します。相手に話し合いの席についてもらうまでに相当疲れてしまうことも沢山あります。(相手が何かを無意識に恐れていれば恐れているほど、なかなか話し合いのテーブルについてはもらえませんし、自分が自分の考えに自身がなかったり、相手の反応を恐れていたら、なかなかこのプロセスに全力投球できない。)でも、とてもとても大事な事だと思うから、諦めません。
自分の考えを伝え、相手の考えを聞く作業。
このプロセスを通じて、子育て問題を超えてお互いの事をよりよく知る機会になったりも、関係のダイナミックスを変える機会にもなります。

第一回の対話が実現したら、その体験を数日間ねかせる。ねかせる目的は、相手の考え方を頭や感情だけで受け止めるのではなくて、頭と感情どちらもで吟味し、自分の考え方に色んな混ぜ方をして、混ざった割合によって(0.1対9.9なのか5対5なのか、3対7)自分がどう感じるか無意識的に試すため。

あるいは、どうして相手がそういっているのが自分で確かめてみるため。
例えば、牛乳は体に悪い、と相手が言って、自分は悪いはずがない、と思っている。相手が、「本に書いてあった、牛乳を飲んでもカルシウムはほとんど摂取されないし、将来白内障や糖尿病になる確率を上げるし、消化の段階で臓器に相当な負担をかけているんだよ。」と言っても、自分がその情報をうまく飲み込めなかったら、自分でこの件に関してリサーチする。自分が信頼できるリソースはどう言っているのか自分の目で確かめようとする。

そうして、機を見てまた話をする。
前回の話し合いで感じていたこと、その後の心境の変化、その後疑問に感じたこと、自分の意見に影響を及ぼす新たに得た情報や情報源について。

妥協点が見つかるかもしれない。
牛乳を飲むことは「楽しみの一つ」という考えは絶対に譲れないから、飲ませたい。
しかし、その「楽しみ」は子供が感じているかどうかは定かでない。
牛乳は体に悪いから、悪い物を勧めることはできない。
どこまで悪いか、どこまでリスクを取るのかは、リスクのとり方は一様ではない。

どう妥協できるか?
お互いが納得するルールを決めようとする。
例えば、飲むなら周1回だけ少量にする?
あるいは、牛乳ではない楽しみを与える?
(続)
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by totoatsuko | 2008-03-14 12:59 | Comments(0)

相手と違う、ということ

d0065558_2237595.jpgAさん(私のクライアントではありません)と牛乳について意見が分かれた。
私は牛乳が体にとって有害である、という情報を最近採用し始めていて、
牛乳が大好きなAさんは、牛乳を飲んで何が悪いの?というスタンスだった。

私はそれはそれでいいと思った。
物事にはプロ・コンがつきもの。
どちらにつくかは、その人が決めればいい。
どちらが間違っているか、どちらが考えを改めるべきか、という議論は必要ない。
だって、違う人間なんだから、違う哲学を持って違う生き方をするのは当然。
だからといって、その人と付き合えなくなるわけではない。
日本人は、自分と価値観が違うと疎んじたり変な目でみたりしがちだけど、違う物同士が関わるから、化学反応が起きて一人では生じないアイデアや楽しみや感動や悲哀が生まれるのだ。

Aさんにとっては、「あなたに牛乳を飲んではいけない、って言ってるつもりはないの。ただ、私は牛乳は体によくない説を採用しているだけ。」というのが、親しい仲であるがゆえに、もしかしたら切り離されたような急に距離を作られたような気持ちになったのかもしれない。もしかしたら、暗に牛乳賛成派でいることを批判されたような気持ちになったのかもしれない。全然そんなつもりは無かったのに。

だから、ちょっとしたケンカになった。

相手は変わって、
保育園の先生に、子供に牛乳(乳製品を含む)を飲ませないようにして欲しい、という話をしたら、やっぱり「は?何言ってるんですか?子供には牛乳が不可欠なのは一般常識ですよね」というコメントをいただいた。(ケンカを売られたわけではないので誤解なく。子供達の事を一生懸命考えてくれるとてもいい先生達です。)

一般常識だから正しいとは限らない、と私は常々思っているけれど、
日本人の「一般常識だから正しいに決まってるじゃん」と思う思考回路も
私だって日本人だから理解できるので、
どうして私が牛乳反対派なのかを理解してもらうには、膨大な時間とエネルギーが相互に必要だし、そもそも、相手が、何か理解できないことを言っている私にもう少し耳を傾けてみよう、という気持ちになってくだされないと不可能だ。

それに、たとえ理解してもらっても、賛成してもらえるかは別だし、賛成しても子供達に実践してもらえるかも別の話。

自分の子供達には、人と違うことを恐れないようになって欲しいと思う。
そして、違うから、というだけで相手を批判しない基本スタンスを身につけて欲しい。
これは私のエゴだが、所詮子育てはエゴ・主観の塊。
一般的な常識よりも自分の哲学を大事にしたい、という私と
一般的な常識を尊重するBさんの
どちらの育児が子供にとって正しい、というのは言えないと思う。



というのも、一般的な考え方ではないだろうから、もう既にここで私は私の超パーソナルな考えを主張しているわけだ。自我は芽生えていても、まだ自分の哲学をもっていない小さい子供を育てる時大事だと思うのは、何を信じて育児をしてもいいけど、親が自分が信じていることに自信をもつ事ーそして相手の哲学も尊重する姿勢ではないかと思う。考え方は見方をかえれば、正しくもあり間違ってもいる可能性がある。イヤ、子育て(に限らず対人関係や自分の生き方)は科学ではないので、白黒で判断するべきではそもそもないだろう。

どんな考えをもって育児をしようとも、自分の生き方に哲学をもってそれに自信をもち、ちゃんとその哲学を人に説明できるだけのものを持っていれば、子供は自分の親が他の親と同じか、違うか、という事を超えて「自分の信念を持つ大切さ」を親から学びとってくれはしないだろうか・と願っている。
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by totoatsuko | 2008-03-10 10:10 | Comments(1)

自己啓発本

d0065558_21544235.jpg
本屋さんには、自己啓発本やわかりやすく説明された心理学系の本が沢山出ている。
そのコーナーは、どんどん拡大されていっているように感じる。
それだけ、この分野に興味がある人や、ニーズが増えたのだろう。
自分の心や心と繋がっている体の症状を理解するための手立てを知りたい、と思う人が。
自分の心の状態をなんとかしたい、と思う人が。

思うに、自己啓発本によって刺激されるのは主に頭だ。
頭で本から得た知識・ケースを利用して、それらを自分の心の状態に照らし合わせて、
なるほど、こういうメカニズムがあるから、自分は鬱になってたんだ、とか優柔不断なんだ、という感じで理解し、そのためにはどういう手立てを打ったらいいのか、本からアイデアを得る。
いわば、頭で自分の思考回路や言動を変えようとする作業。

私のところには、たっくさんの自己啓発本や心理学の勉強をして自分の状態をなんとかよくしよう、と頑張ったけど、やっぱりどうにもならなくて来た、という人もいる。

私は、自己啓発本で得た知識によって心の状態をよくするのは至難の業だと思っている。
何故なら、心をないがしろにしてきた張本人の「頭」を使って、心をどうにかしようったって、無理があるから。いう事をきかなくなった心に手をやいて困ってしまって、その心をどうにかしようとして、知識をかき集めて試してみても、心の声を聞けるようにはなかなかなれないからだ。

むしろ、啓発本から知識を得ることによって、心の声に耳を傾ける作業から逃避しているのを誤魔化して、知識やー先生が言っていたから、という理論を後ろ盾にして武装してより威圧的に心を説得しようとする、なだめようとする。そのやり方は昔からやっていて、そのやり方によって心のバランスが破綻してしまっているのだ、という事実にも関わらず。

セラピー(私のやりかたは音楽心理療法、色と音と対話を使う)では、知識とか他人のケースとかはぶっとばして、いまそこにある心の声に耳を傾けようとする。100の回復のケースが本に紹介されているかもしれないけど、あなたは、その100の例に当てはまらない可能性が高い、ユニークなあなたはあなたでしかない心を持った人間なのだから。

知識で自分をがんじがらめにするのに疲れたら
それが参考にはなっても本質的な回復や新たな方向性を導いていないのに気づくことができたなら、そんな理屈を捨て去って、ただただ心からのメッセージに耳を傾けてやってください。それはとてもエネルギーの要る、ともすれば危険な作業。だから、必要なら躊躇わず専門家のサポートを利用してください。それは、汚名でもなんでもない。自分いとって必要な物を利用するだけにすぎないのだから。
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by totoatsuko | 2008-03-09 00:12 | Comments(0)

仕事だから優しくするのではない

d0065558_21535288.jpgセラピーの中でクライアントは色んな感情を感じる。
(専門的な説明をつけると、これはtransfetrence の一環)
それは、今までの人生で体験したことがないような感情だったり、
誰かに与えてもらったけど、何らかの理由で自分が受け止められなくて、感じ取ることが出来なかった感情だったりする。

それは、クライアント自身の感情として
セラピストに対してもの凄く腹が立ったり、Affectionー愛情を感じたり


または
クライアントが、
セラピストが自分に対して怒っているように感じたり、
unconditional love -無条件の愛情を示してくれているように感じたり。
わたし達は、日常生活に支障がきたさないように、頭で、理論理屈でうまく感情をまるめこむことを幼い頃から自動的に習得していくし、現代社会ではそれが上手に出来る人のほうが、スムースに物事を進められて、「強い人だ」とか「動じない人だ」などと評価が高いので、より一層、感情を丸めこむ作業の腕を磨こうと勇気付けられる。

でも、ある日感情が氾濫を起こして、もう頭で説得しても、脅しても、どうにもこうにも行かなくなることがある。自律神経失調症だったり、体の不調だったり、鬱だったり、摂食障害だったり、パニック症候群だったり、いろんなnon-verbal サインを出してくる。


セラピーのプロセスで自分の感情のメッセージを汲み取れるようになって(言っておくと、これは中々エネルギーと時間を要する作業である)、感情を扱うキャパが生まれ、感情を受け止められるだけの心の強さが育まれる。

今まで心を押さえつけていた頭も(心に主張させることは自分=頭 にとって都合が悪い、と信じ込んでいる)、心が自由になることを極度におそれなくてもいい、ということを学習する。心とのかかわり方を体得(「習得」ではない)していく。

そして、他人(セラピー中ではセラピスト)の感情も受け止められるようになる。
相手が怒っても、咄嗟に逃げ出したり、萎縮したり、逆切れして自分を相手の感情から守ろうとしなくても、怒る理由を聞いて対話を試みみよう、という余裕がでる。

他人に優しくされても、それを失うときの事を考えると怖くて、
それならそもそもその優しさを受け止めない、
あるいはその優しさの存在を疑う(どういう理由で優しくしてるんだ?何か騙そうとしてるのではないか?気持ち悪い)自分だったのが、

もしかしたら結果的にこの優しさを失うかもしれないけれど、この優しさを受け止めて心地よく思っている感覚を尊重しよう、という強さが生まれたり、相手を信頼して感謝できたりするようになる。

そこに至る過程で、「何でそんなに暖かいまなざしをいつもするのか?あなたはセラピストで仕事だから私に優しくしてるんでしょ。」というような感情を持つことがある。

この暖かい感情は、ビジネスだから起こっているんだ -と理屈付けることにより、こんな居心地のいい関係は日常では起こるはずがないから、受け止めるべきではない、求めるべきではない。何故なら少なくとも自分の成長過程の中で求めた時はこっぴどい仕打ちを受けるのが往々だったから。

過去に学習した対人関係・自分の感情体験が色眼鏡になって、過去とは全く新しい人間関係(過去のように自分を脅かす関係ではない)が構築できるチャンスに遭遇しても、過去の考え方で行動・判断してしまって、ずっと人や自分の感情といい関係を築けない人。

Yes, 私はセラピストで、心を専門的に扱う人間としてクライアントに接する。
Yes, ビジネスではない、とは言い切れない。お金をいただいているから。
But, 私のまなざしは、私がクライアントに感じる感情はビジネスではない。売り物でもない。
Affectionは私の心のそこから湧き出るものである。偽りの感情をクライアントに提示しても、絶対にクライアントの心の状態はよくならない。

あなたは、仕事だからやってるんでしょ。
私に対して感じる感情、私から感じる暖かさなどを、そういう説明をして納得させたいクライアントも、人との関係で感じる感情には、表裏や利害関係の無いものもあるのだということを、いつかクライアントは気づいてくれる。
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by totoatsuko | 2008-03-07 11:24 | Comments(0)

人は誰しも過ちをおかす

映画の中の老いた病床の母親と娘の会話。
「最悪な母親だったわね。」
「そんな事ないわ。I love you so much.」
「バカ言わないで」
「ううん、子供を2人うみ育てていて分かったの。
どんなに努力しても母親というものは過ちを犯してしまう。
毎晩出かけていっても、ずっと家にいる母親も同じ。
子供達がどの過ちを忘れてくれて、どの過ちを覚えているか分からない。

ママがドレスを着て毎晩出かけていくのはとても悲しかった。(母親はジャズシンガー)
でも、思い出せば、ママはとてもステキだった。
どうかあの頃のママにもどって。」

#####
子供達にとって、毎晩出かけていく母親がいつも家にいてくれる母親より必ずしもbad motherではない。どんなにパーフェクトな母親を演じても、子供は子供なりの受け止め方しかできない。いつも家にいる母親が暑苦しくかんじる子供もいる。こちらの愛情から生まれる接し方や配慮が子供にとってトラウマティックになってしまうことが多々ある。
相手との関係が親密であればあるほど、トラウマの傷は深い。

これは、母娘だけの関係だけに留まらない。
誰かと関係する時、自分の努力にも関わらず、相手をひどく傷つけてしまうのは防げない。
トラウマ的体験を引き起こすのは悪意だけではないから。
どんな思いやりも、受け止める側が「思いやり」と受け止めてくれないと、思いやりにはならない。

相手が傷つくのを完璧に防ぐことは不可能だ。
でも、だからといって相手を思いやったり相手に深く関わるのを恐れないで欲しい。
どうせ、何をやっても相手が傷ついてしまう可能性があるなら、
自分が描くパーフェクトな母親・恋人・娘・息子・上司・部下像を
素顔の自分を押し殺して無理に演じようとするのではなく
その人との関係をよくみつめて、自分らしく一生懸命接したらいいとおもう。

そうしたら、いつか相手との対話を持ったとき
たとえその関係がトラウマを引き起こしていたとわかっても、
お互いを許しあえるはず。
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by totoatsuko | 2008-03-05 23:42 | Comments(0)

自分で確かめる

d0065558_17123916.jpg世の中、何が正しいのか正しくないのか、分からない。
そもそも、自分にとって正しいことと周りの人にとって正しいことは違って当然。
物事には、常に多面的な要素を持っている。
自分が「赤色」と信じて疑わないものでも、他の人には、青に見えることも当然である。
(そういう事実は、実際のところ受け入れがたいと思うけど)

そして、何を信頼するリソースとするのかも、人次第。
このお医者さんが先生が言ったから正しいー
でも、他のお医者さんは全く違う見解を示す。

新聞に書いてあることがすべて正しいわけではない。
裁判の判決が正しいとも真実とも限らない。

では、何を最終的に信じたらいいんだろう?
それは自分の感覚ではないか?

原始時代の人間は、それはもう感性だけでサバイブしていたはず。
この匂い(雰囲気・空気・音)は危険だ、とか
このざわめきはーの前触れだとか、
自分の体調に合っていない食べ物を無意識に食べないとか。
感覚が研ぎ澄まされていないと、生死の問題になっていた。

現代は感情の起伏の幅も感覚の鋭さも、扱いを知らないと、刺激が体と心の毒になってしまうから、自己防衛反応として感覚が鈍くなってる。鈍くても生きていけるし。鈍い方が色んなことに気付かない気になれて楽に感じるかもしれないし。

自分の感覚すら信頼できなくなっている人って沢山いると思う。
今自分が何感じているのか。怒っているのか、悲しいのか。

現代病の一つ、アレルギー(花粉症とか)やアトピーは動物性食品、乳製品、卵を消化できなくなってしまった日本人の体が(日本人の長い食生活の中で、上記の食材がここ数十年で急激に大量に食卓に入ってきて、日本人の臓器の進化がついていっていない)、吹き出物とか湿疹などで排毒しようとしている現象。それでも、習慣でわたし達はそういう食事を取り続けてしまう。

何がいいか、どういう情報が正しいかーなんて他人には絶対分からない。
どんなに科学的な数字で証明されていても、自分はその数値には含まれない一人かもしれない。いちいち全ての情報を疑って、一から自分で調べるのって、その労力を考えたら不可能に近いから、信頼できるリソースを持っておく、というのはとても大事だと思うけれど、
同時に自分の感性も常に疑い・試し・磨いておくことも忘れてはならないと思う。
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by totoatsuko | 2008-03-03 17:42 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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