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キャパシティーの配分が変化する時

キャパシティーの配分IIを書いていて、自分のエネルギーを投入する対象のバランスが変わる時というのは何時なのか、具体例を書いていなかったので、読んでいる人が自分の人生を振り返りながら、実体験に重ねながら文章をかみ砕けなかったかもしれない、と思い補足投稿。

例えば
主婦でハウスキーピング(家を整った状態に保つ・守る)・子育てにほとんど自分のアイデンティティーとエネルギーを投入して数十年暮したら、子供が恋愛をしたり、家を出て一人暮らしを始めたり、結婚したりして、もう自分を今までのように必要としてくれない時

例えば
パートナーを持ったり、家族をもったりして、自分の24時間が全て自分のために使えなくなった時。強い恋愛感情をもって、もう彼女・彼氏の事しか考えられなくなって嫌がおうにもエネルギー配分をかえざるを得なくなったとき。あるいは失恋したとき。離婚した時。死別したとき。

例えば
習い事や関わっている勉強会・サークルが増えて、どれかを犠牲(関わる時間やエネルギーを減らす)になくてはにっちもさっちも行かなくなる局面

例えば
任される仕事が増えたり、仕事がめちゃくちゃ楽しくなったりして、プライベートに時間もお金もエネルギーもかけられない状態に傾いていく時

例えば
幼稚園から小学校にあがって、宿題というものに初めて出会って、学校から帰った後の時間を全て遊びに費やすことが出来なくなった時


変化をするのは痛みを伴う事がよくある。
それは、変化する前の状態の自分が、変化しようとする形への抵抗をするから。
だって、それまでの自分が否定されたような気持ちになったりするから。
なんで今までOKだったのに、変化しなければいけないの?って。
頭で状況を把握し・分析し・なんらかの変化しなくてはならないと理解しても、頭が理屈を心に説明しても、心は理屈じゃないから、抵抗することってよくあるのだ。
例えばゴムの棒を曲げようとしたら、抵抗を感じるように。
もし、曲げようとする自分が木のように硬くて乾燥している状態だったら、無理やり曲げよう(変化しよう)としたら、ポキっと折れてしまって、それこそちょっと痛いどころではすまない、identity crisisに陥ってしまう。

自分のキャパシティーって変わるものだし、配分する対象も変わるもの。
注意を払っていなかったら簡単に見逃してしまうそのバランスの均衡・不均衡・

人生の節目・節目でうまくトランジション出来なかったり変容出来なかったら、あとあとまで心はそれをひきづって生きていく。

脱皮に失敗した蓑虫は蝶になることができず命を落としてしまう。
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by totoatsuko | 2008-01-30 14:57 | Comments(0)

キャパシティーの配分I

とっても久しぶりにデパートの喫茶店でお茶していたら主婦層の集まる時間帯だった。断片的にあっちこっちのテーブルから聞こえてくる単語は「結果待ち」「受験」。あ、そうか今受験シーズン。そういえば、自分が大学受験するときは私だけじゃなくて母親もテンパってたなぁ、と思い出す。

子供と一緒にいない時間にも、主婦の頭や気持ちは子供に関連することで占められている場合って多いんだろうな。デパートでお買い物したりほっと一息ついている自分達の時間をもっている時間ですら。そういえば、旦那さんや子供の話しか話題を持ってない結婚している女性って結構いる。

私の場合、学生の時、独身の時って、ほとんど自分の事だけ考えて生きてればよかった。勿論家族が病気になったりしたら心配だけど、自分がプライマリーケア・看病を主に見る立場ではないから、気楽なものだ。

だから必死に自分に道を探せたし、極めようと身をすり減らすことが出来たし、楽しいことも目一杯出来た。

歳を重ねて、社会的に責任が重くなって使う人間が増えたり、家族をもって気にかける人が増えたとき、みんなどんな風に時間と体と心のエネルギー配分をしていっているんだろう?

例えるなら、自分が持っている傘の大きさは大して変わらないないんだけど、その下で雨宿りしてる人が増えたとき、どうするんだろう?という問い。

あるお母さんは、もう自分が女性であるとか一人の人間である、というアイデンティティーを捨てるか最小限に圧縮して、お母さん あるいはハウスキーパーというアイデンティティーを形成するのみにエネルギーを注ぐとか、
あるお父さんは仕事命で家のことは奥さんにまかせてバランスとるとか。

パズルみたいで、どのパーツをちっちゃくして、どのパーツをどんな形にして押し込んで、どのパーツは今はあきらめて切り捨てるか、、、

抱えるものが増えれば増えるだけ、
限りある自分のキャパシティーの中に、それらをどう当てはめていか無意識にでも選別しなくてはならない。
(続)
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by totoatsuko | 2008-01-26 23:06 | Comments(0)

キャパシティーの配分 II

子育ても仕事も、人との関係の中に生まれるもので、ある意味とてもdemandingだから、
そちらを優先せざるを得ない状況に簡単になってしまう。自分のケアとか自分が何感じてるかとか何したいのかとか何を今失おうとしてるのか、とか考えてる時間は簡単にふっとんでしまうか優先順位の最下位に転落する。
だって、目の前で子供が泣き叫んでいたり、プロジェクトが火をふいていたら、それはそれは瞬時に火消しに駆けずり回ざるをえないでしょう。

でも、人って他人なんですよね。自分の子供でも。自分の一部じゃない。死ぬ時は一緒に死ねないし(勘違いして無理心中しちゃったりする人もいますが)、苦しんでいる時も一緒に同じ苦しみを感じることはできない。

母親というアイデンティティーも会社での地位も自分の存在を永遠に保証してくれるものではない。大きな傘を差して沢山の人を養えることだけが生きがいだったら、それがなくなったとき、なんで自分傘さして突っ立ってるんだろう?と思わないだろうか?去っていく人・子供を追いかけてまで傘をさしてあげようとする人も少なくない。去る人に対して怒りを覚える人も。

自分のキャパシティーって無限であり、有限。
どこにどう配分するのかは自由。
でも、出来れば今自分はどんな風に配分してるか意識出来てる、数年後に今の状態が変わったときに「あれは何だったんだ、あんなにやってあげたのに」って思わなくて・喪失感を感じなくてすむのではないか。

ああ、今私は
自分がやりたい事を犠牲にして
家族との関わりを犠牲にして
仕事を犠牲にして
ーをやろうとしているんだな、と。

このバランスが割りと明確に感じることが出来ていたら、必要な時にその配分率をフレキシブルに変化させて、自分のアイデンティティー、自分の生き方を、より自分が自然体で作っていけるのではないか。少なくとも、重点を置く配分の移行をスムースに行なって行くことが、あるいは一つのアイデンティティ-にはまって溺れてしまうのを回避できるのではないか、

と、ある昼下がりのデパートの喫茶店で思ったのでした。
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by totoatsuko | 2008-01-26 23:06 | Comments(1)

自由になる -お風呂場からのヒント

子供と煮詰まってきた時に移行する最後の場所はお風呂。3人湯船に入ってぎゅうぎゅう、その狭さが、部屋や屋外の感覚と違って、面白い。

歯ブラシや洗面器がオモチャに早変わり。
お湯の中で感じる体の感覚も、声の響き方も、湯気を通してみる世界も、お風呂の外では感じられない感覚。お水、という空気とは違う法則で存在しているものに関わると、自然にかかわり方も楽しみ方も遊び方も怖さも変わる。

水セラピーみたいな(名称は定かじゃないです)のがあって、
例えば足が悪くて自分で歩けない障害をもった人でも、水の中で浮き輪をつければ、自由自在に行きたい方向に動ける、バリアフリーな状態になる。その中で改めて自分の体の感覚を確認したり、自由の喜びを感じたり、self-esteemをはぐくむ、という事をする。

音楽療法や芸術療法のセッションルームもちょっと似ている。
セッションルームの外側に存在する法則とは関係なくセッションという空間や時間は存在している。(それでも、外側のルールを持ち込んで自由になれない人は居ますが、それはそれで自分の気付きとなる)
例えば体が思うように動けなくて、ドラムを「ばんっ」と叩くために腕を動かすのに1分かかる人がいるとする。そういう人は、日常では自分の動きは遅すぎて周りのスピードについていけない、取り残された感を感じていることが多い。でもセッションルームの中の時間の流れは彼の時間の流れが基準になる。彼より早い動きは「早すぎる」し、彼よりももっともっと遅い動きをするセラピストの音が存在したりする。

彼のテンポを基準に音や音の無い状態を紡いでいくことにより、彼が彼自身を取り戻すプロセスを行なう。周りにあわせてせかされて過ごしていると気づけない自分。ここでは、1分60秒ではなくてもいい。1分でこなさないといけないことは何ら決まっていない。彼らしい1分間の過ごし方を見つけることにより、彼らしい1年10年の過ごし方を見出していく。
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by totoatsuko | 2008-01-25 16:58 | Comments(0)

塩番茶

今日は雪ですね。。。大寒の真っ最中ですものね。

喉が痛くて咳が出始めたので、先日教えてもらった塩番茶なるもので「うがい」をしたら、随分楽になりました。体調不全もお薬を飲まずに整えられるのだったら、それに越したことはない。市販の喉あめには人口添加物やお砂糖がとっても入っているから控えたいもの。
ということで塩番茶、お試しあれ。

番茶がなければお湯でも代用しましたが、出来れば熱々の番茶を塩に注いで。
分量は塩辛い!と感じる程度。

塩の殺菌効果と番茶の効用がいいみたいです。
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by totoatsuko | 2008-01-23 10:50 | Comments(1)

叱るとき

子供に対して叱る時、
「あ、今 私 子供にいけないことをいけないと教えている、というよりは、
子供とのダイナミックスの中で物事が思うように進んでいかない、その自分のイライラをぶつけてるな」
と気づくことがある。

逆の立場で、
アメリカで車の運転の練習を助手席に座って付き合ってもらっている時
「ダメだよー、何やってんのっ!!!!
ちゃんと見なよっっっ! 危ないの、なんで分かんないの?」
と叱られて
ああ、この人の叱りかた、全然ヘルプフルじゃない。
私の運転の上達のためのコメントというよりは、下手な運転の車に乗っている自分の不安を私にぶつけてるだけ。いってみれば、私の神経を逆なでして運転に集中するの妨害してるだけ、最悪!
と思ったことがあった。

好ましくない言動を、異なる形に誘導しようとするなら、ただ頭ごなしに怒りをぶつけられても困る。どうして何がいけないのか、どうやったらよりよくなれるのか、具体的に説明してくれないと、手本を示してくれないと。

子供の例も運転の練習の例も、教える側・教わる側 というような力関係がハッキリしている。
教える側は基本的に正しくて、教わる側はそれに従わなくてはならない、という関係。
もうそれだけでも、教えられる側は自分の言い分を聞いてもらえない、ある意味弱い立場にいるのに、教える側がその権威を利用して、アドバイスをする、教わる側の成長を助ける役目をおうせつかっている、という責任から勝手に脱線し感情のはけ口に利用するなんて、もっての他。
たとえそのイライラや怒りが、教わる側によって引き出されたものだとしても、
そもそも「その行動はやめなさい」ということを伝えるため・理解してもらうための目的とは別のものだから。

爆発的な感情って理性ではそう簡単に監視したり出来にくいのだけど、
無意識に自分の怒りを子供に・相手に、「教える」というめいもくの元ぶつけていたら、
それは感情のアビュース。子供との相手との関係は、どんどんねじれてしまうだろう。
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by totoatsuko | 2008-01-18 17:24 | Comments(0)

薬物使用

スポーツ界では薬物使用の取締りが厳しくなり、
最近では2000年シドニーオリンピックでメダルを5個獲得した陸上のマリオン・ジョーンズが罪を認め、2000年以降のメダルは全て剥奪されている。

近しい人は、薬なしでも彼女はその記録を残すことが出来たのに残念、というコメントを出していたけれど。仮に体の可能性としてそうであっても、薬物の誘惑を断ち切れなかった要素を持つトータルな彼女、という視点からみたら、やっぱり記録は出せなかったのではないか、どこかで心の弱さが勝負時に邪魔をしたのではないかと思う。

それでふと思った、舞踏界・音楽界でも、薬物を使用している人は多いけれど、こういう大掛かりな取締りや、スポーツ界の様な薬物に対する意識はないな、と。
筋肉増強剤を使ったらフェアプレイではなくなる、という考え方。
では、葉っぱで意識がぶっとんでる時生まれる音楽や芸術はどうなのか?
その点を非難する声って、あまり聞いたことがない。
きっと薬なしては生まれえなかった音楽・芸術作品って山ほどあるはず。
ビートルズも、どの時期だったか忘れたけれど、薬をやって音楽作っていた時期があった、と言っていたのを思い出す。

ここまで書いて、アメリカの芸能界もステロイドに汚染されている、という記事を読む。アメリカでは薬物取締りの一環で法律で違法な製造・販売が禁止されているのだけど、見た目の若さを保つために結構な数のアメリカ芸能人が使っている、という疑いが広がっているのだそうだ。

強くなるため、記録を残すため、見た目がよくなるため、周りからいい印象をもたれるため、褒めてもらうため、有名になるため - 幸せになるため?

人間って、学習を重ねて文明を発達してきた。
これは、初期には自然の摂理にそって発展していたのかもしれないけれど、今はどんどん自然から遠ざかり、人工的なものを開発し、それをもっと人工的にして、
自然である状態、Rules of the natureと戦おうと、そのルールを変えてしまおうと、何とか全ての事を自分たちの都合のよいように出来ないか努力を重ねていっているのかも。

寿命を長くしたり、
人工的に食品を作り出したり。

そして、わたし達のあがきは、それはそれで、また自然の摂理なのかもしれない。
物事は生まれて、成長し、老化し、朽ちる。
結局、あがいているけれど、自然界のもつ目に見えない畏れを軽視しても、
抵抗すればするほどそのうねりにはかなわず、熟成を老化を崩壊を早めていっているのかも。

そうなら、それでいい。
きっとそのあとには、再生 のステージがあるだろう。
Death and rebirth は人間が生まれる前から繰り返されてきた自然現象。
きっと人間は、その潜在的な再生力をも破滅させるほど偉大ではないだろうから。。。
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by totoatsuko | 2008-01-16 16:15 | Comments(0)

DV法 2回目の改正 II

2006年12月に、DV法で妻や子供の連絡先などを知ることが出来なくなった加害者である夫は、探偵を使って妻の新居を突き止め子供の前で刺し殺した事件があった。動機のひとつに、「DV法に不満で、妻を殺せば法が変わると思った、」というのがあったらしい。

柴田秀樹裁判長は「DV防止法への挑戦で社会に与えた影響は大きいが、反省の気持ちも持ち始めている」などとして、求刑通り無期懲役とした1審・徳島地裁判決を破棄、懲役30年を言い渡した。判決で、柴田裁判長は「遺族が厳しい処罰感情を抱くことは理解できるが、性格や人格のゆがみを矯正するのが困難とまではいえない」と述べた。

以前も心以外の専門家が、人の心に少しでも関わり判断を下すのなら、心についても本気で学んで欲しい、という投稿を書いたけれど、この裁判長のコメントを読んだ時、また同じ事を思った。

DVは、性格や人格だけの問題ではないし、性格や人格はそう簡単に矯正できるものではない。
だって、そうでしょう?
例えば、DVを行なうほど偏っていない自分を、DVをしないと生きていけない性格に矯正する -その考え方がそもそもバカからしい、と思って矯正に取り組もうとしないし、
それゆえに自分自身の力では、自分が加害者になるよう変化するなんて絶対出来ないし、
たとえ専門家のヘルプによって考え方を変えるにしても、物凄い年月とエネルギーが必要なのが想像できるのと同じ。

DVの加害者の心理や生き方は、程度がどうであれ、そう簡単には変わらない。

DV法の改正を考慮した方たちは、どんな専門家たちだったのか分からない。
でも、とてもとてもこの改正が被害者・加害者、両方のためになるもの、現実的なものなのかは、十分ではない印象をうけたのでした。
滅多に行なわない改正なのだから、もう少し実のある内容になって欲しかったです。

ただ、法律がよければDVがなくなるとは思わない。
DVの加害者・被害者予備軍は、家庭で次々と成育され世代を超えて継承さていくもの。DVの心の構造は子供のときから時間をかけてみっちりと育まれる。ここら辺を認識している法の専門家や教育者は少ないと思うのだけど、予防という点では凄く大事な点。

私は音楽心理療法やカウンセリングのセッションの問い合わせを受身で待つしか、残念だけどそういう方(加害者や被害者)たちのために何かをすることが出来ない。DV関連のグループやNPOもあるけれど、なかなか「あなたDVでしょ、ウチに来て更生のプロセス一緒にやりましょ」そこの人達がサポートプロセス連れていく訳にも行かない。

どうしたらいいのでしょう?
警察に通報するのはよく知られた方法の一つですが、逮捕とか有罪判決だけではこの行為、このゆがんだ関係、心の状態・DV加害者・被害者の数は絶対に変わらない。

DVの加害者・被害者の近くにいる人が、その行為を責めたり恥とみなして隠すのではなく、カウンセリングなりサポートグループ・施設なりに問い合わせる事を勧めてあげることが大事で実行可能で、かつ当事者たちを救うプロセスを始める要素の一つなのではないか、そう思いました。
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by totoatsuko | 2008-01-16 10:35 | Comments(0)

DV法 2回目の改正 I

DV(ドメスティック バイオレンス -家庭内暴力)に対する法が再び改正され今日施行された。
内閣府のページはこちら。
私は入ったお店のTVでたまたま知ったのだけど、
この改正は実際のDV加害者・被害者には届かない・知られにくいだろう、と思いながら帰宅後内閣府のページを開いてみたのだけど、やっぱりこっちも全然ヘルプフルなページではないな、という印象。

そして、この法改正 -何が変わったのか?
ここでは、出来るだけ分かりやすく話をすすめるため、細かい改正や法の内容については省略しますが、例えば:
加害者が相手に脅しの言葉(例えば「殺すぞ!」)やメールを送っただけでも、DVとして訴えることが出来(今までは実際体の暴力を加えて、その傷の証拠がなかったら裁判にもっていけなかった)DVが法廷で認められれば、加害者が被害者やその子供とメールや電話という間接的な方法での接触を行なうことも禁止することが出来る。

この改正、被害者の身の安全を高めるには少し貢献しているかもしれないが、加害者のための改正はない。

被害者の心理を考慮したら例えはすごく乱暴になってしまうけど、
DVの加害者は、自分の心の被害者である。

自分の心の闇にうずもれている怒り・悲しみに操られて(本人はそういう意識ではない)、暴力が止められない。言葉・体の暴力をかざすことでしか、毎日を送れず、そういう行為を繰り返し行なっても、最終的に心が満たされることは決してない。大事な人と心地よい信頼できる関係が築けない。常にひとりぼっちで、自分で自分を慰めることすら出来ない。
彼らだって、助けが必要なのだ。

例え、被害者を守るための法が改正されても、加害者の置かれている状態に変化がなければ、DVは決して減らない。これをやったら逮捕されるかもしれない、というのは加害者の行動を止めるのに本当に有効かどうかは疑問である。これまでの相手が法で遠ざけられたら、他の対象をすぐさま見つけだすから。そしてDV被害者も、DVで苦しみ続けていたにもかかわらず、無意識のうちに自分にDVを加える人を探してしまうパターンが多いから。
(続)
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by totoatsuko | 2008-01-16 10:21 | Comments(0)

受け皿2

受け皿について書いていて思ったこと。

聞いた話なのだけど、
受け皿になれる技量を持っていない音楽療法士、多いのだそうだ。

例えば高齢者施設でグループセッションをやっているとき。
歌を歌って、そから自然発生する会話をセラピストがマネージする。
マネージの仕方はセッションの目的によって様々である。

そのセッションでは、歌を歌った後、色々若い頃の思い出話になり、
一人が戦争に行った話を始めたらしい。
そしたら、セッションをリードしているセラピストが、やんわりと話題を変える、という介入をした。
それで私の友人でco-therapist (主にサポート役のセラピスト)が、後で何故話題を逸らしたのですか?と聞くと、
1.戦争の話をしたくない人もいるかも知れないから、
2.悲しかったり辛かったりする思い出が出てきたら場の雰囲気も悪くなるから、
というのが答えだったらしい。

これは、話の断片だから私はこれだけの情報でそのセラピストをどうこういうつもりはない。
ただ、この情報を分析の材料にしたとき、こういう対応・考えかたでは、クライアントに信頼される受け皿には決してなれない、と言いたい。
話をそらされたクライアントや他の参加者は、セラピストの対応をみて瞬時に、無意識的に、「この人は私の悲しみは受け止められない人なんだ。私の受け皿にはなってもらえない」と判断するだろう。

1.戦争の話をしたくないかもしれない、と思っているのはアナタ(セラピスト自身でありセラピストの仮定にすぎない)。クライアントに責任転嫁する前に、クライアントに聞いてみるべきではないか?本当はみんな話したかったことかもしれない。

2.悲しさや辛さを受け止められないのは、アナタではないのですか?
悲しさや辛さで一杯になる空気をセラピストがきちんと受け止め支えれば、その場の空気が汚染されることはない。そのじっとりした空気、グループの参加者は一人では感じられなかったけど、仲間と共有したかたかもしれない。感じたい心は、常に楽しいものではなく、そうある必要もない。時として人は悲しさにうずもれたい、引きこもりたい、と思ったりもするのだ。

セッションの目的が歌を歌うことだったら、こういう会話を促すのはやめた方がいいだろう。時間がなくなるから。だけど、クライアントのクオリティー オブ ライフ、とかいうのを大義名分に掲げているのだったら、単調な老後の生活にこういう人間臭い感情を 感情におぼれてしまわないような適度な大きさの受け皿となって受け止めることを行っていいとおもうし、もしそれを試みようとするならば、自分の闇の部分の感情を把握する自己プロセスを経てからにすることをオススメする。相手の感情は時として知らないうちに自分の闇を呼び覚ますし、セラピストとして機能できなくなってしまうから。
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by totoatsuko | 2008-01-11 23:59 | Comments(1)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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