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カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

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よい一年をお迎えください

今年も色んな出会いがあり、別れがありました。
来年につながっていくもの、来年を越えてもっともっと先に繋がっていくうねり、
期待と迷い。
皆様の一年が充実したものとなりますように。
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by totoatsuko | 2007-12-31 17:54 | Comments(0)

打たれて当たり前?

エリザベス女王 - Queen Elizabeth という映画を見た。
割と最近のハリウッド映画。
ダイアナ妃の死を巡って、エリザベス女王や王室の対応が空想・仮想に基づいて描かれている。

ダイアナをよしとしないエリザベス女王とフィリップ殿下の会話・態度がスクリーンに現れ、結構悪者扱いされているのを見ながら、これは絶対日本の皇室には置き換えられない - そもそも皇室について映画を作るなんて宮内庁の許可がおりないだろう、と思う。

映画の中でどの様に描かれようと、実物のエリザベス女王やイギリスの王室は、それと切り離して受け止められる。映画で悪く描かれても、実物は違うかもしれない、違う、と信じられる。ちゃんと、映画は映画だとアメリカ人もイギリス人も受け止められるからなのではないかと。

かたや、日本は腫れ物に触るようにおそるおそる扱い方に手をこまねき頭をつかう。
妙にパーソナルになったりして、少しでも皇室を悪く言うのは許されないような雰囲気。
いつも、皇室はperfect family であろうとしているように見えるし、できるだけ理想的な存在の印象を持つようなコメントや報道にしているような印象でもある。

過度に奉ってきたから、その存在自体が打たれ弱いのか、悪評に免疫がないのか。
ここにも、日本的な要素を感じる。

上に立つ人は理想的な存在であるべき、一点の汚れも許されない、というような概念。
少々汚点があったって、その存在は揺らぎはしないのに。
チャールズ皇太子の兄弟は、みんな離婚・再婚を繰り返しているけれど、公務は続けているし、王室は存続している。世論に潰されていない。

アメリカやフランスの大統領が愛人問題が取りざたされても、だからといって= 政治能力がない → 責任とって引退すべき というような公私混同思考回路をたどらない。日本だと、がせネタでも民衆がうまくマスコミの報道にのせられれば、その人の公の立場の生命はパーソナルな行動によって、すぐ危うくなる。

みんな違って当然、間違って当然、
私は私らしく生きてOK、
人は私と違う価値観なのが当然、
その事実によって人とぶつかっても、それは誰が悪いわけではなく、ただ意見の相違を確かめ、結果自分の価値観を再確認できるプロセスに過ぎない、
そう思えたら、心から自分を信じることが出来たら、
自分と異なる視点を持った人の意見、を直接攻撃や人格否定と捉えるのではなく、客観的に捉えることが出来、打たれづよく、簡単にはブレずに流されずに人生を作っていけるのではないか、と思いました。(言われ方によっては、気分をひどく害されるでしょうけれど。)
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by totoatsuko | 2007-12-28 22:43 | Comments(0)

自転車3人乗り

来年の何時からか定かではないけれど、自転車に乗る際の法整備が変わるらしい。
携帯見ながら運転禁止
傘の固定 禁止
子供を2人以上乗せるの禁止(1人まで)
などなど

私は毎日保育園の送り迎えに前後に子供を乗せているので、
上記3項目の規定には、怒りを感じてしまった。

2人以上の子供を育てたことがある人では絶対に思いつかない禁止だ。
毎日の「生活」 というものを知らない・関わっていない政治家には参ってしまう。
じゃぁ、どうやって二人以上の子供を育てればいいのですか?
どうやって、子供を保育園や公園やお買い物に連れて行くのですか?

それはそれは3人乗りは危ないかもしれないけれど、しょうがないじゃない、2人の子供と移動するには。事故は自己責任・じゃどうしてダメなの?どうして、そこまで政府に規制されなければならないのでしょう?こんな決りがまかり通るなんて日本だなぁ。。。

まるで出かけるときはそれが1週間の旅行であろうと、日常の食料の買い物であろうと、縦横50センチ以上であってはならない。その袋に収まらないものを携帯したい人のための打開策は示されず、ただ禁止を告知したようなもの。同時に、もっと沢山買いなさい(もっと子供を産みなさい)とおっしゃる。

以前子育てするには、子守唄を歌うべし、というのを「子育て条例」みたいなのに組み込もうとしたり(子守唄は指示されて歌うものではなく、自然と出てくるものである)、3歳までは子供は家で保育するべきだ(今保育園に預けて働いている人が働くのを止めたら、日本の経済は沈没だ)、と自分がいかに子供や家族と関わっていなかったか・コミュニケーションを取っていなかったかを露呈するような発言を恥ずかしげもなく行なった政治家達がいて、
は????
と思ったけど、今日のお触れも、ふたたび空いた口がふさがらなかったのでした。

何のsympathyも示してもらえず、何のサポート・自転車が使えなくなった後に自転車に代わる輸送・移動手段の提示もサポートシステムの新規構築もないまま、これまでの日常の基本を一方的に変えなさい、と通告され、(例えば自転車なら20分で保育園に行けるが、最短手段のバスでも1時間かかる。だからといって保育園を即座に変えることは、定員の関係で不可能。保育園まで1時間、職場までもう1時間かかっては、日常の子供との移動のスタイル・仕事のスタイル・買い物を行く時間の組み込み方を大幅に変えざるを得ない)急激な生活の変化を強いられる事に対する反発、素直な感情反応でした。
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by totoatsuko | 2007-12-28 17:21 | Comments(7)

トータル アンビエンス

Total ambiance - 全体の雰囲気 について思った。

私が行っていたマクロビのクラスは、マクロビを始めた桜沢如一さんの所。

一方桜沢さんのお弟子のクシさんも有名なのだけど、彼はボストンの郊外に長年すまわれ、アメリカにマクロビを広めた方。アメリカの風を受けたクシ マクロビは、桜沢さんのとは趣も違うらしい。恵比寿でステキな雰囲気のクシ マクロビクラスをパトリシオというスペイン人の先生を中心にやっていて、クラスはいつも満員だとか。

片や桜沢マクロビは、建物の入り口から、クラスの雰囲気とか、なんとなく暗い、というかマニアックなアヤシイ匂いを感じさせる。何人かの知り合いでここを訪れた人も似たような感想を言っていた。

私が桜沢マクロビに行った理由は、単に家から10分以内で行けるという手軽さからなのだけど、こんなに近くなかったら、恵比寿の方を選ぶだろうな、と思う。同じマクロビの哲学や料理を学ぶのに、講師の先生が魅力的だったり、いい気持ちで学べる環境であることに越したことはない。

助手さん同士や、先生が助手さんに対して、手際の悪さにいちゃもんつけたり、ブツブツ文句言いながらキリキリ接したり、料理しているのを見聞きすると、仮にマクロビの理念の奥の深さを学べるとしても、嫌な気持ちになる。

そして、思ったのでした・これって何事にもいえることだな、と。
折角料理自体は美味しいレストランでも、ギャルソンや客層が悪かったら、そのお皿をいただく、というoccationを心から楽しめない。

どんなに仕事ができても、上司や部下と信頼関係・いい関係を創れないと、折角の自分の仕事もなかなか正当に評価されにくいし、applicateもされにくい。

真面目に働いていても、家族や友人など自分と大事な人と交流がなかったら、その人の一人の人間としての人生のクオリティーは、半減。

何かに秀でることは素晴らしいと思う。秀でるものを持っている自分・あの人。
でも、それだけでいいでしょ・では折角秀でているものを200%発揮できないし、周りに還元することも出来ないし、回りからもありがたがられない。どんなに凄いことをやってのける人でも、人間的にステキでなかったら、個人的に関わりたい、近づきたい、もっと知りたい、と思えない。

(いやいや、音大時代、えぇぇぇ・・・ってな男の子でも、男女比が100分の1位だったし、演奏も音大生としてはうまかったら、モテモテだったなぁ。。。)

偉大な画家や音楽家は精神障害をもっていた場合が多い。
精神障害がなかったら、世間離れしていなかったら、逸脱した才能が形にならなかったかもしれない、と思う。

でも、プチ個性を持っているわたし達は、それだけを極め、目立たせるのではなく、それだけで周りから突出することを正当化し、それだけで勝負するのではなく、一人の人間の存在としてのトータル アンビエンスを大事にする方が、そのプチ才能を日常で生かし、毎日をより豊かに出来るのではないか、と思ったのでした。
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by totoatsuko | 2007-12-27 15:23 | Comments(0)

精神疾患と音楽療法 III

パニック症候群、閉所恐怖症、などフォビア的な症状を持つ人には、認知療法的なアプローチが短期で結果を出すケースリポートをよく見かけます。

例えば、パニックになったときを想像して、その状態を色にしたり即興して音にしてみたり。
その時自分の心と体はどういう状態になるのか、というのを客観的に捉える。
そして、そうなったときどうやったら落ち着きを取り戻せるか、パニックの最中パニックに支配されてどうしようもなくなってもっとパニックになってしまうサイクルを経つためにはどうしたらいいか、という具体的な対策をセラピストが具体的に教えたりします。

例えば紙バックがまんぱんになるまで息を吐き、呼吸に注意をむけて呼吸を整えるとか、
自分が落ち着く歌、ポジティブなイメージを思い出して、恐怖のおののきから注意をそらして、自分を取り戻すとか。

ただ、この認知療法では、根本的にはフォビアを引き起こしていた問題が解決されないままになってしまう可能性もあります。恐怖症の行動はその時消えても、将来また再来するかもしれないし、ほかの症状として出てくる可能性もあります。そうでない場合もありますけれど。

自分の深層心理にある何がパニックを引き起こしているか?過去に何かトラウマティックな体験があって、それが引き起こしているのではないか?という視点は、GIM(Guided Imagery and Music)セッションのサイコアナリティカルなアプローチ。この方法もフォビアを最終的に乗り越えるには有効ですが、認知療法と比べて時間がかかる。その分、リバンドはないです。


摂食障害の人は多くの場合過去に何かあるので、GIM、アナリティカルMT、即興などで、現在の状態をプロセスしつつ、その現在の状況はどういう過去に繋がっているのか探っていくやり方があります。重い拒食症状態のときは、過去をプロセスするような心的エネルギーが残っていない、とにかく毎日をつなげることが最優先だったりするので、その人の状態によって、セッションのやり方、音楽の使い方を注意深く変えていかなくてはならないです。表面でなく、摂食障害を起こしている根本的な心のアンバランスを何とかしていくプロセスを経るのは時間はかかりますけれど、本当に摂食障害から一生さよならが出来る可能性は高いです。

これは、PTSDの人にも言えること。
過去のトラウマをいきなりほじくるのではなくて、「今」の心の状態をケアすることにより、過去と将来の心をケアしていきます。

精神疾患と音楽療法についての投稿は今回でひとまず終わりにします。
具体的な質問がありましたら、コメントやメールで投げてください。
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by totoatsuko | 2007-12-26 00:26 | Comments(1)

精神疾患と音楽療法II

d0065558_23315167.jpg躁鬱病と診断されている人で、躁と鬱の間にいる状態の人が相手の場合、
色で自分の状態を書いてもらい、それについて話すことで、自分が今どういう状態なのか?躁、あるいは鬱に向っている状態なのか、というのを把握する手助けをします。躁のエピソードに突入してしまったら、そうやって落ち着いたプロセスを行なうことは難しいけれど、そっちに触れる前に自己予防的な機能をセッションが果たすことはできます。鬱の時は、セラピストとの信頼関係や、セッションでフォーカスするポジティブな要素や、自分を責める悪循環的な思考が、いかに現実的ではないか、いかに「病気」による作用なのか、というのを捉えることで、日々を繋げていく励みとなりえます。でも、鬱真っ只中には、そう簡単には機能しないです。話すのもやっと、絵を描くなんてとんでもない、という状態でもありえますから。

躁鬱病の場合、いつどんな風に、どれくらい躁や鬱にふれてしまうかコントロールできないので、音楽は非常に注意深く使います。音は跳ね返ってくるから、思わずすごい刺激を心に与えてしまうことがある。リラクゼーションのつもりで作った音が、寝た子を叩き起こしてしまうかもしれないです。むしろ、音楽や色を使わない方がいい、使うメリットがない場合もあります。

また、鬱の状態の人は、自分の内面と対峙する心の体力がない状態の場合も多いので、言葉では表せない魔力を持っている音楽を使うと、また鬱を引き起こしている心の闇に不可抗力でクライアントが引き込まれてしまう場合もあります。そういう危険性を十分承知し、とてもケアフルに音楽(悲しみについて限られた楽器で即興するとか、ごく短い音楽を聞きながらイメージするとか)を使っても、100%セラピストは音楽とクライアントの関係の行方を制御できないので、本当に慎重になる。

音楽療法士だから、どういう相手に対しても音楽を使う、音楽を使わないとクライアントの必要なニーズに答えられない、というのは間違った理解。わたし達は音楽をセラピーの手段として専門的に使えるように訓練されているだけで、相手にとって音楽が障害なら、当たり前のことだけど、使わない。

上記の理由から、統合失調症、躁鬱病、鬱病、境界線人格障害のために音楽療法が出来ることはありますが、重度の場合は、あまり色々できない。サポーティブを超えたリコンストラクティブ(心と体の状態を初期設定化したり、自分に付随した物を取り払うするプロセス・平行して新たな自分のあり方を模索する事を可能にするプロセス)なプロセスをするには、心の体力・持久力・バランスがあまりにも壊れやすすぎる状態だから。

だから、例えばわたし達が文化的なもの(展覧会、コンサート)に触れ、心をリフレッシュさせたり、ちょっとした自分についての気付きや衝撃(あくまでも自分がその衝撃に押しつぶされない程度の衝撃・発見)を受けとめる体験をセッションで行なう。重度の精神疾患と共存している人にとっては、自分自身でコンサートに行くことが出来ない人も多いから。

わたし達にとっては何気ない、ある意味日常に組み込まれることが出来る例えば「コンサートで心が浄化される」体験。でも「感動する」ために必要な心の容量や体力がない人にとっては、セッションにおいてそういう体験が出来る、というのはその方に人生に・心と体の状態に非常に大きな意味を落とすのです。

そして、重い精神疾患と共存する心にそのような体験をしてもらうには、歌のお姉さんのように楽しく歌を歌っているだけでは、決して出来ない事。専門家がクライアントと自分自身に真正面から向かいあってこそ、そういう奇跡(専門家がいなかったらきっと発生しないであろう、という意味で)みたいなことが起こりうるのだと思います。
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by totoatsuko | 2007-12-24 15:28 | Comments(0)

make up

パーティーシーズン。
ちらほらと普段より濃い目なメイクと華やかな衣装をほどこした方たちをみかけてふと思った。
メイクを派手にしても、決していつもより「美しく」見えるとは限らない、と。

そもそも「美しい」って何?

雑誌でも、パーティー向けのメイクアドバイスが特集されたりしてるけど、その通りにやることで「モテ顔」や「癒し顔」になれると鵜呑みにして、鏡に写った自分を冷静に見るのを忘れたら、とんでもないマスク(仮面)をかぶって人ごみに入っていくことになる。

時々ご本人はそれに気づいていなさそうな怖ーいメイク してる人いますよね。
同時に 意図的にしてるんだろうなぁ という感じのゴスグロ カルチャーの装いと怖いメイク、それはそれで自然に見えます。

冬にはその気候に合わせて厚着をするように、環境に合わせてわたし達は洋服を選び皮膚の上に重ねる。
さらには、自分が存在する「場」にもあわせて、ドレスアップ(タキシード・ラメ入りドレス etc)・カジュアルダウン(ジーンズ・パジャマ etc)し、気分によって色合いも変わる。その「場」を共有するであろう相手との関係にも自分のチョイスは左右される。

どんな自分を演出したいのか、どういう風に自分をcover up したいのか。
そして、その選択は自分の深層心理のどういう意図を隠喩しているのか?
音楽療法セッションでのイメージや即興・描画は、そういうのがテキメン現れる。

雑誌や一般論にそのまま従うのではなく、
自分のinner voiceに耳をかたむけて自分のマスクや装いをチョイスし
鏡に写る出来上がった自分を、ホントにこんな風に自分を演出したい?
と問いかけてみるのも面白いかもしれない。
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by totoatsuko | 2007-12-20 09:26 | Comments(3)

精神疾患と音楽療法 I

精神疾患を持っていらっしゃる方々から最近問い合わせがあったので、精神疾患を持つ方と音楽療法について書いてみようと思います。といっても、ちゃんと書いていたら本1冊では終わらないくらいですから、なんとなくイメージをつかんでもらえることが目的として、まとめてみます。

Wikipediaから引用すると精神疾患(せいしんしっかん)とは、
脳(および「心」)の機能的・器質的障害によって引き起こされる疾患をいう。統合失調症や躁うつ病といった重度のものから、神経症(この用語は正式な疾患名としては用いられなくなりつつある)、パニック障害、適応障害といった中、軽度のものまでの様々な疾患を言う。
(引用終わり)

他にも、摂食障害・PTSD(ポスト トラウマティック ディスオーダー - トラウマ的な体験をした後に身体症状や精神不安定などが起こる)・自己愛性人格障害 (ナルシズム)、境界線人格障害(ボーダーライン)も、精神疾患を持つ人 のカテゴリに入れたとすると、これらの人には音楽療法が有効なのか?
どのような音楽の使われ方をするのか?

私が関わったブルックリンの病院の精神病棟(短期収容)は主に重度の統合失調症、躁鬱病の方でした。そこでのグループ音楽療法セッションの目的は
1.日々を規則正しく送るための朝のベンチマークとして。
2.安全な発散の場として (言葉で話すと「何わけ分からないこと言ってるの?」と見られるが、音楽の中ならそういう批判はない。)

統合失調症、躁の状態にある患者さんとは基本的に筋の通った会話は出来ません。薬物治療を施されていますが、幻覚、妄想と幻聴が入り乱れているので、朝おはよう、と言うと 真剣な顔をして「今日はもうすぐしたら、悪魔が降って来るから避難したほうがいい」と言われたり、「神が私にそうしなさい、と訓示した」と言ってフルチンで病棟を走り回り医療スタッフから逃げ回っていたり。

重度のエピソード中の方相手には、基本的にサポーティブレベルの事しか出来ません。
そこの病棟でやっていたグループセッションは、グループ即興が主でした。最初に参加者のみんなに、おはよう・今日の調子はどう?みたいな会話をして、そこで感じたエネルギーを音に変えていく。多くの場合、その即興にはまとまりがないです。当然の事といえば当然。現実と幻想がごちゃごちゃになっている状態の音楽にまとまりがあるはずがない。だから、無理にセラピストもまとめよう、としない。参加者が好きな様にできる状態を作る。

途中で、ソロが取れそうな状態の人、グループ演奏の中で、一人際立ち、ソロをとることでself-esteemが保障されるポジティブな体験を得ることが出来そうな人には、ソロを取る空間をあけます。(ソロをとることが苦痛な人だっています)

もう一つ思い出す手法は、fill-in ソングライティング & singing.
みんながなじみのある、単純な構成の曲を歌った後、一部の歌詞を参加者の言葉に置き換える。そうすることで、今日の自分が参加したグループの特別な曲を参加者の一員として作った、という満足感とか、自分の言葉を歌という安全で脅迫してこない適度な硬さの枠組みに乗せることで、自分の気持ちや考えを吐露することが出来ます。

音楽療法の手段や考え方は、クライアントの状態とセッションの目的によって変わるもの。
上記のやり方が全てではないことを、ここでお断りしておきます。

(続く)
次は躁鬱病と音楽療法に足をのばして書いてみようと思います。
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by totoatsuko | 2007-12-19 13:38 | Comments(0)

マクロビ おせち

マクロビおせち、つりました
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歳神様(としがみさま)に感謝の気持ちと今年もどうぞよろしく、という思いをこめて作り、お供えする、歳時記を祝うお食事がおせち。最近はブランドおせちがはやってますけど、こういう手間隙かけて、心をこめてつくるのは、自分の一年を振り返り来年をみすえる作業もできていいなぁ、と思いました。なかなか忙しくて出来ないのですけどね。見た目だけでなく、とって美味しかったです。

何処がマクロビなのか?
ベジタリアンおせちと比較して言うなら、お砂糖類を全くつかっていないところでしょうか。

おせちに欠かせない食材は、
縁起物のくわい(芽が出る)、蓮根(穴があって見通しがよい)、八つ頭里芋(子沢山)、黒豆(マメに動ける健康)、昆布(喜んで暮せるように)。

お祝いものの、松竹梅、購買、金銀、鶴亀。

運(ん)のつく きんとん、きんかん、にんじん、銀なん、れんこん、こんぶ、なんきん、だいこん、ごンぼう。

日本の風習や決りごとがどこから来ているのか、という事を学べる・肌で感じられる機会って貴重だと思います。学校で事実として教えられても身につかない。一緒に日常を共有している人の姿勢やさりげない言動から繰り返しお手本を示され、世代を超えて伝えられていくもの。そして、そのメカニズムは今ちゃんと機能していない。成人した後でも、積極的に家族の外の学びの場に参加し、意識的に吸収しようとないと、こういう事って身につかないし、次の世代にも伝えていくことが出来ないなぁ、と思ったのでした。

自分のための復習と作り方の紹介がてら、おせち料理講習&音楽療法 の集いでもやろうかしら。なんて。
それくらい、美しく、美味しかったですー

お品書き
1.お雑煮
2.なますの奉書巻き
3.黒豆しぐれ
4.結び昆布
5.杏きんとん
6.豆腐の吹き寄せ
7.カボチャの伊達巻
8.初雪ごぼう
9.花椎茸の揚げ煮
10.契りこんにゃく
11.凍み豆腐のお煮しめ
12.蓮根印籠
13.紅白梅
14.松竹梅(松葉銀杏・絹さや竹・ねじり梅)
15.金柑の甘煮
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by totoatsuko | 2007-12-18 20:38 | Comments(1)

あなたは何をしてきた人ですか?

80歳位のご婦人と話をしていて
「息子が あなたは何をしてきた人ですか? ってこの間聞くんよ。最近読んだ本にそういうくだりがあったんだって。
何をしてきたかってねぇ、子供を5人産んで育てた。それだけよー、って言うたら
いい人生だねぇ、
って言うんよ。でもほんと いい人生だった、って思ったんよ。
男の人は出来ないからね、子供を産むのって。
あの頃(小さい子供を訳が分からないまま必死で育てていた頃)はほんと輝いてた。
5人がひとりひとり 全然ちがうんよ。おもしろいねー。」

と柔らかな笑みをたたえておっしゃる。

自分が子供を産む前だったら、
でも悲しくない?子育てに人生の半分を捧げるなんて。
子供を産み育てるために女性は生まれてきたわけじゃない。

と反応したと思うのだけど、
先日は妙に彼女の言葉に共感できた。
人間を育てるプロジェクトって、自分がやり始めて初めて大変さとか喜びとかを実際できた。
これをやっていない人に理解しなさい、少子化に歯止めをかける為に子供を産みなさい、って言っても、全然心に届かないのは当然だと思う。少なくとも、私は子供を育てることが自分の専門を極めることと同じくらい、あるいはそれ以上の喜びや充足感を自分の人生にもたらしてくれる物とは全く考えられなかった。

子供を産み・育てるプロジェクトって、
社会的な組織に高い評価を得るのが目的ではないし、
金銭的余裕をもたらすものではないし(むしろお金はかかる・しかもこの時代膨大に)
直接自分が社会にインパクトを与える事もできない。(子供を通じてそれは起こるかも知れないけど、それは自分のコントロールの範疇外)

何かの書類に 職業欄があったら、
主婦
としか書けない自分だったら気がひけるのは私だけではないだとうと思う。

だけど、あなたは何をしてきた人ですか?と問われて
子供を育てました。
というのは
XXプロジェクトを成し遂げました、
OO会社の部長になりました、
というのと全く引けを取らないことだ・とこのたび「頭では」実感。
(私の心はそれにまだついていっていない印象だけど)

短期間に結果が出るものではないし、自分が社会的な評価を直接受けないから、子供を産み育てるお母さん自身も、その人の周りにいる人も、そのプロジェクトの難しさ、重要度、価値を感じにくい。けれど改めて、80才のご婦人と話をして、いろいろ考えさせられたのでした。

日曜は死生学学会
テーマ:子供の生命に向き合う -子供と我々の未来を語るために
にちょっと顔を出してきました。

追って、感じたものを皆さんにシェアしていきたいと思います。
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by totoatsuko | 2007-12-13 11:06 | Comments(5)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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